パトリシア・ボズワーズ「炎のごとく-写真家ダイアン・アーバス」から

「わたしはダイアンに奇形者をロマンチックに見てはいけないと言った。いわゆる『健常者』と同様、奇形者の中にもつまらない人間とごく当たり前の人間がいる。わたしは髭女のオルガに興味をひかれたのは、彼女が速記者になることを夢見ていて窓辺にはゼラニウムの鉢を置いていることだったし、以前インタビューしたことのある四百五十ポンドのレスラーにしても、生まれ故郷のウクライナを恋しがっておいおい泣いていたことに惹かれたのだという話をした」
(パトリシア・ボズワーズ「炎のごとく-写真家ダイアン・アーバス」から)

Birdie Photo Galleryにてカマウチヒデキ写真展#3「Book of Monochrome」

神戸本町Birdie Photo Galleryにてカマウチヒデキ写真展#3「Book of Monochrome」。路頭でのスナップを中心に構成されていてその名の通りモノクロの展示。展示のテーマ(”ノスタルジー”のこと)と、一部かなり前に撮られたものであるのを知ってる写真もあったので、展示全体の撮影期間の範囲はかなり広そうなことを察する。でももし本当にそうならその撮影期間に比例したスケール感(集大成感?)があってもいいはずなのに、それは感じない。ここで言う”スケール感”を構成する要素には一つ、時間軸の連なりがあるのだと思うけど、通常、連なって縦に高くそびえ立っていくはずのそれは小口切りで均等に解体されてるかのよう。写真の「流れ」を注意深く回避されてるようにも思えて、写真個々とそれを通した全体像へ意識が傾く。

例外は勿論あるだろうけど、長年写真を撮っていればその時々で思想やテンションは多少なりとも違ってるものだと思う。写真をまとめる時にはそういった意識面が基準になることは多いし、だから過去の写真と今の写真をまとめられないことも多いのだと思う。今回のこの”均等に切り分けられた写真群”にも、それぞれその時々の思想・テンションがやっぱり含まれてるから本来、一皿の器に盛りつけるのは不可能なことのように思える。

今回の展示は、そもそもそれとは別次元に「モノクローム」という判断基準を設けることで、思想やテンションといった”ノスタルジー”という束縛から逃れ、あらたな世界を編むという、実はわりとシンプルな試みだったとも言えるのかもしれない。ただその個々の写真に含まれる経験値に比例して、完成系へもっていくことは間違いなく難しくなる。多種多様な生態をもった厳かな生き物達をひとつの動物園におさめるようなもので、そこには専門的な知識は勿論、相当に綿密な立案が求められる。

カマウチさんは見事にそれを成し遂げてるように僕は感じて、結果、本来集結するはずのなかった個々が、モノクロームという共同体のなかで、まるで新生活をはじめているかのようだった。再度生を与えられた個々はそれぞれが干渉することなく自由に息づいていて、その光景は真新しく奇妙でとても感銘を受ける。

成田舞さん個展「Home calling,’kiyakiya!’」

成田舞さん個展「Home calling,’kiyakiya!’」東京からの巡回展で写真と言葉の展示。写真は2つの壁面に分けて、すべて直張りで並べられてる。写ってるものは全体的に、視点の着地点があるようでない抽象的なイメージが多く、具象的な写真もあるけどそれすら不思議とどこか曖昧な印象をうける。言葉は、二枚の普通紙にそれぞれ綴られてる。一枚は今回の展示についての(作家自身による)ステートメントで、もう一枚はおよそ1000文字程度の物語。その二枚が赤い糸で一組に束ねられてる。

HPにも掲載されていた、ぼんやりあかりが灯った家を誰かがベロリと舐めてる写真はやっぱり気になる。家には、そこに住んでる自分はもちろん、無数にある自分の身の周りのもの、なにより一緒に暮らす家族を彷彿させられるけど、言うまでもなくとてもかけがえないそれを、得体の知れないとても大きな誰か(なにか)が、暗闇からぬっと現れ、大きな口をあけて、今にも唾液が滴りそうな舌で舐めてる光景に畏れを感じずにはいられない。ただ一方で妙な安堵感があることにも気付く。

もしそれが歯をむき出しにして大口を開けていたら、あまりにもハッキリとした結末を予想せざるを得なかった。しかし舐めるという行為の真意の不確かさが、不気味でありながらも、こちら側に思考をめぐらせる余地を与えてるようにも感じる。僕は舐められてる家がどこか飴玉のようにも見えてきて、もしかするとこの得たいの知れない誰かは、この家が持つあたたかさ(体温のような)に、なにかしら理由があって、少しだけそれを確かめたかっただけなのかもしれない、とか想像した。だから妙な安堵(穏やかさのような)も感じたのかもしれない。

写真全体を通して感じる、まるで意識が大きく弛緩したような浮遊感は、夜眠りにおちる間際、あるいは朝、夢と現実をまだ行ったり来たりしてる時のようでもある。触れた途端に消えてしまう、泡のように薄く半透明で繊細な非現実感は、実は観る側の誰しもに備わったイメージなのかもしれない。そこには常にやすらぎと不安が同居してる。

写真と言葉(物語のほう)はそれぞれ互いを支えあう、二つで一つの作品ですという空気をあからさまには感じないけど、例えば地中にあるひとつの種から(写真と言葉)それぞれは生えていて、ただ別々の場所から芽を出してるだけ、というような親近感がある。展示のタイトルでもある「きやきや」は、その二つ生えた芽の種につけられた名前のようにも思える。

山下望さんの「Window」

同じくMIO PHOTO OSAKAにて山下望さんの「Window」。ピンク色に仕立てられた壁面の空間は、写真の展示方法のほか、フレームの上に置かれたアクセサリーや壁に貼られたシールなども手伝って、女の子の部屋のようなプライベート感を演出してる。キャプションには「自身の少女時代とその魂をある12歳の少女の姿を通して写真にとり押さえる」とあった。

山下さんは主にホルガを使っているそうで、そのカメラは解像度はあまり無い方なのに、写真はいつもリアルで鮮度も感じる。情報量ではなく関係性なんだろうか。けど大きく引き伸ばしたほうの写真からは、これだけ堂々と自身をさらけ出していながら「声」が全く聞こえてこない。その静けさのベールがどこかエキゾチックでもあり魅惑的。

しかし、聞こえてこなかったと思っていた「声」は、フレームの写真の方に耳を澄ますとはじめて聴き取ることができ、そこでまた違った一面を知る。まるで舞台に立つ女優さんの、楽屋を覗き込んでいるかのような気分になるといったら少し大げさでしょうか。。

山下さんはきっとモデルの女の子と同い年ぐらいなんだろうと思う。実際はそうじゃないかもしれないけど、という点に少しの片想いもあって。いつもすぐ隣にいるのに遠距離恋愛のような。そんな不思議な距離感をもった相手への純真さが素敵。会場が少し広すぎる感もあったけど、その空間をこれだけ自分仕様にできてるのもすごい。

谷口円写真展「comfortable hole bye」

ビーツギャラリーで開催されていた谷口円写真展「comfortable hole bye」。展示に対しての直接的な感想ではないかもしれないけど、コーンの写真2枚についてはやっぱり考えた。「死」というものが主題に置かれていることもあって、赤白のコーンと真っ黒のコーンは、単純に生と死の対比のようにも見えるし、だからある意味で全体を象徴する二枚のような見方も出来る。ただそれ以上になにかひっかかるものがあって、もしかしたらそれは、観る人にとって身近なものだからなのかもと思った。

展示の大半を占めるのは剥製の写真で、でもそれはあまり身近なものとは言えない。それが良い悪いではなく、ただ剥製にはテーマを含んだものが写されているけど、身近じゃない、という事実が、観る側との間に一枚の壁を作り出していたとして。コーン二枚は、他の写真群と同じ意味を担うなかで、かつ身近にあるものということが、その一枚の壁を無効化させる突破的要素になっていたのかもと思った。おかげで、自分にもいつか必ず訪れることでありながら、やっぱりまだどこか遠くにあるように考えてしまう問題を、急に目の前にポンと差し出されたようで鳥肌が立った。

展示全体をみていて、どことなく「映像」を感じた。単純にBGM(波の音)のせいもあったのかもしれないけど、具体的になんで「映像」なのかは自分でもよくわからない。。ただ間違いなく言えるのは、写真のレイアウトや照明のこともあって、今回の展示は写真展というより、写真を使ったインスタレーションに近いものだったということ。椅子に座って眺めるという谷口氏オススメの方法で観れなかったことが残念。。