バイトで券売所のポジションの時に専門学校のアシスタントとして働いている水野さんが並んでいた。京都グラフィーの会場にもなっているから遅かれ早かれ誰かしらとは鉢会うだろうとは思っていたけど、その場所で「先生」と呼ばれることになる。非常勤講師として居る場所とアルバイトとして居る場所との境界が歪む。これまでにも同様のシチュエーションで学生の人と鉢合わせた事は何度もある。ただ今回はそれに対して妙にダメージを受けてる自分がいた。動悸は今日も続いているし、まだ癒されていない部分があるんだろう。相手の言葉を信じれば、水野さんはそんな事気にしてないし、本来的には自分も気にしていないはず。バイトしてるっていう話も普通にしてたし。昨日、救心の話をした件の時、それの適応年齢的な確認の意図で看視の人が「20代?30代?」と言うので「36」と口にしたけど、そこまでに1秒くらいどもった。けどじゃあ仮に「36」にふさわしいと思われる地位を得ることで回復するとすれば、またその先で繰り返しがきっとあり、根本的な解決にはならないだろう。ここまで書いたものを見返して思う。こういうことをずっとネタとしてきた自分なのに、今はそれができない状態になってる。自虐ネタは自身に潜在する批判性の表明でもある訳だから、この数年は意識的に控えていたのもある。もっと自分を肯定しようと。でもどうなんだろう。根底ではそうじゃないと思えていれば、そして言い回しをよく考えていけば、自虐ネタを開放してもいいんじゃないか。小学生の頃からのようにそれをおもしろい個性として、現代風にアレンジした次元で取り扱っていくことができるんじゃないか。総合案内所ポジションに居た時に来たアジア系の海外客二人は、この館に来る時乗ってたバスで財布を落としたと思うから電話で聞いて欲しいと言う。客とは英語で話し、電話越しのバス会社の人には日本語で話し、ということを交互に行い、最終的に財布が見つかり、引き取り場所の道程といった諸々も伝えることができた。女性客の方が慣れない発音で「ホントウニアリガトウゴザイマス」と頭を何度も下げてくれたのが印象的だった。自分もマニラで同じようなことがあって本当に焦ったので、素直に良かったと思えた。年に数回飲むことがある不安を抑える系の薬がもうなくなりそうになっていた。昨日は救心とは別でそれをバイト前に飲んで、その時は動悸もマシになっていた。その薬は母親から分けてもらったもので、以前実家に帰った時にまた必要なら余分にあると言っていたことを思い出す。5月は完全な休みという日はほとんど無いし、救心が効いてくるかもわからないので、近々送って欲しいとLINEする。母親への連絡は常にぎこちない。

昨晩メールを送った精神科医の方からは昼間に返信があり、この医者が、という情報をもらうことはできなかったけど、医院を選ぶ点で気を付けておく点を教えてくれた。その中での「相性」というのは一つ大事な点で、それは実際に会ってみてからでないと分からない。そしてその点を踏まえれば、そもそも彼と僕自身が面識を持っているわけでもないのだから、個人を紹介する訳にもいかなかっただろう。あとは営利的な雰囲気には警戒した方が良く、具体的にはTMSを勧めていたり、心理士が予診を取るようところは気を付けた方が良いということだった。藁にも縋る思いで訪れる場でもあるからこそ、こうした点は案外見逃しやすいのかもしれない。大橋さんからもメッセージが返ってきていた。見ず知らずの人間からのコンタクトに対する返信はたいていが淡白になるもの。むしろ、そうで無い人は稀な方だと思うのだけど、大橋さんは作品集の印象にたがわずその稀に当てはまる文面だった。氏のトークイベントで足を運んだのは今は無き心斎橋のスタンダードブックストアで、確か12年ぐらい前だったと思う。また関西でもイベントをやってくれるという話で、「その時はまた会いましょう!お互い生きて。」という文末に思わず涙腺が緩む。これまで見てきたすべての写真集。そこにインスタグラム上の個人メッセージやりとりという画面が加わって、作家の存在の立体感が一段増す。本気で生きている人の存在が自分の身体の中で一瞬カッと煌めくような、とか書くとちょっと大げさかもしれないけど、でもそれくらいに熱いものを感じた瞬間だった。俺も本気で生きてかないと。バイト先で看視の人達と直に連携する機会が増えた事が兼ねてより億劫だったけど、日々色々な気付きもある。当たり前だけど、見た目以外に話し方、動作、手順、間、視線、話す話題、全てが違う。ものすごく当たり前の事なのだけど、自分にとってはちょっと新しい気付きになったりしている。15時半過ぎに一緒になった人は、看視の中で最も個性がにじみ出ているように思われる人だった。話した事はあまりなかったけど、客が一瞬引いたタイミングが良い機会だと思い「救心って飲んだ事ありますか?」と唐突に聞いてみると、よく飲んでいる、お勧め、ということだった。既に6、7人に聞いていた中ではじめての服用者だった。「だって社会不適合者やろアンタぁ」と言われたところで入場客の波がやってくる。ハンドヘルドでチケットを読み込む係のその人は「ハイッ、ピッってしますねー。チケットワンバイワーン、って岡田君の仕事まで奪っちゃってピッ、ピッで、ターンレフトですー。あ、ターンライトやった。」と張りのある声で小気味よく入場処理をこなしていく姿が可笑しく、自分は軽く腹を抱えて笑っていた。

朝の4時半に目が覚めてこのまま起きようかと一瞬迷って結局寝る。バイトも無い今日は午前中にジョギングと洗濯、食事を済ませて友人の展示を観に行くことを計画していた。結局二度目の目覚めは11時前だった。昨夜はいつもより異様に眠気があり、19時頃には夕食前に30分ほど寝落ちしていたし、布団に入ったのも22時頃だった。そういえばこの一週間ずっと動悸がしている。心臓を内側から不意にノックされるような感覚で、痛みなどはまったく無いのだけど、普段は無いことだから不安感はつのる。ストレスや疲れのせいなのかもしれない。何年か前にも同じ事があって、その時は数週間経って自然となくなった。動悸と言えば救心が連想される思考回路はメディアの影響によるものと思いつつネットで調べてみて、なんとなくそれは一種の漢方という印象だった。場合によっては試してみてもいいのかもしれない。咳もまた続いている。これも2年くらい前のこの時期にあって、明確な原因も結局はよく分からなかった。何かしらの身体からのメッセージであることには違いない。西洋医学で押さえ込むことはできると思うから日常に支障が大きく出てくる場合は頼るしか無いと思いつつ、その繰り返しで今後の人生をやり過ごしていくのかもしれないと思うと、根本的な何かに進路の重心を置く必要性も考えたりする。ストレッチを軽く終わらせて20分だけ走る。気になった道を見学していく感じで走っていると時間はあっという間に過ぎる。高台であるこの土地はもともと全部が山だったんだろうか。どこを走っていても視界にはよく緑が映る。ジョギングから帰り風呂で汗を流し、適当なシリアルで腹を満たして(これは体調にとっての悪用意その1なのかもしれない)友人の展示場へ向かう。展示物は案外に少なく、テキスト等もなく出展者も居なかったので滞在時間は想定していたより短かった。せっかくなのでその足で京セラ美術館の京都グラフィーも見にいく。平日だったがGW期間ではありやはり混んでいる。川田喜久治展に入る。世界の終焉を物語るようなイメージの連続。一見平穏な日常に潜在する不穏が可視化されているようで、美術館全体の大型連休ムードとのギャップとも相まって一瞬眩暈がする。後でメモを見返すと、情緒をひきさく意味でのコントラスト、ロゴスの写真家、写真という画具画材、といったことをメモしていた。最後のメモに関しては自分が思っていたより氏は写真のメディウム性へも意識を向けている人なんだということ。銀塩からインクジェット、手漉きの和紙やインスタグラムという流れを見ながらそうメモしたのだと思う。「データに変換された映像は、みな古い光と訣別したように見えるのが不思議です。モニターにあらわれる不意の顔には新しい影をしたがえ、私と同時性の空間を漂っているのです」という言葉が最後の部屋にあって印象は確信に変わる。真剣に見ている様子の人もいれば、デートのつまみのように流していく人もいる。連休中の館はどこかショッピングモールのような空気すら漂う。ジブリや村上隆といった有名な展示が行われていることもあるだろう。色々な人の目に触れることの意義は大きい。けど例えば動物園ではパンダが注目される一方で野生生物の生活環境について書かれたキャプションに足を止める人はごく少数であるように、こうした効果の単位で繰り返される運営は消費という大きな構造の中で宙吊りになっているも同然とさえ思えてしまう。これを書きながらも時々、不意に鼓動が脈打ち、あまり集中することができない。久々に抗うつ剤を一錠飲んでみると気持ち治った気はした。ある作家の友人は通っている精神科の先生が精神疾患と芸術との関わりに理解のある人らしく、創造性が失われない程度に処方された薬を服用していると言っていたことを思い出す。京都にもそういうところは無いものかと少し探してみて、少し悩んである精神科医の人へメールを送ってみた。その人は研究者で、一般の診察をしている人では無いし、そういった連絡はお断りの旨も書かれていたけど、過去に作品の件でちょっとした接点があったことから良い事を教えてもらえそうという確信はあり、ダメ元で。今日は他にも大橋仁さんにファンメッセージ的に連絡を送ったり、柳沢英輔さんのWSが参加したかったけど関東で無理だったことを呟いたりした。返信を期待せずこちらから何か伝えたいと思うこの感覚の大切さを思い出して行きたい。

ダメもとで制作したレジデンス申請書類を添付したメールを送信した時は既に日をまたいだ深夜だった。締切が今日28日の17時までということを3日前に知り、慌てて準備していた。そのまま一晩眠り、朝にもう一度見直してから送付するのが通常だけど、少し迷ってそのまま送信することにした。今はとりあえず次、次と進めていく感覚を優先させたい。最高気温が31度だった今日は半袖でバイト先へ向かう事にした。ちょうど手に取りやすい場所に掛けてあったものがファックくんTシャツというもので、中指を立てている風のキャラクターがたくさん描かれている。5年くらい前に東京で偶然知り合ったギタリストの日高さんによるもの。有名なバンドにも関わっていつつ、個人の作品はいわゆるギター弾きそれとは一線を画しているものだった。京都での彼の演奏を聴いた日、自分の感想を伝えると「音にある情緒とかをそもそも疑っている」という旨のことを話してくれた。その時の口調には現世への大衆的な価値観に対する憤りのようなものがあるような気もしていた。ファックくんという発想にも合点がいく。それを着て出た道中に限って、欧米人の観光客団体が向かいから歩いてきており、狭い道だったからそのなかを逆流せざるを得ず気まずかった。バイトの最後のポジションがテラスの近くで、少し動けば東山の山並みが一望できる場所だった。客もほとんどいないタイミングだったので定位置から離れ、新緑にそまった連邦を網膜に映し続ける。眼が回復する感じがする。「何されてるんですか?」と近くにいた看視さんに聞かれ「山を眺めています」と言うと笑われる。規則が多く固い空気感の職場だから、職務中に山を眺めるということをおかしく思われたのかもしれない。今月から看視の人と関わる機会が増えている。それはポジション配置の都合で、そのことを知った当初は億劫な気持ちだった。総合案内とは共通認識が微妙に異なる中で、阿吽を合わせる為の労力を割かないといけない配置設定が効率的と思えなかったし、全体で100人くらいいそうな看視さん一人一人に毎回、はじめまして的な気を遣わないといけないのも憂鬱だった。実際僕は愛想が悪い。いちいち挨拶することは極力避けている。挨拶は常識的なコミュニケーションである、ということを分かっていながらできない。20代半ばの一時の自分はそれを問題視して、矯正してやろうと思っていたけど結局変わらなかった。思い返せば小学生の頃から人の言うことが聞けず先生にしょっちゅう怒られていたからもはや遺伝的な性質なのかもしれない。でも先生のことは好きだったし、可愛がってもらえていた自負もある。つまり他人が嫌いという訳ではなく、ただ形式的な慣習に自分も乗っ取る理由が分からないというだけなのかもしれない。今日の1日で個展とグループ展と話が動き始めた。自分が写真にのめり込むルーツ的な土地でもある大阪での久々の個展は、学校のギャラリーだから学生の人達との新たな関わりの機会にもなればなとも思える。グループ展は自分が理想としていた形の開催になりそう。