広告・偏見・テクノロジー

昨年の12月から「波をかさねるvol.4」と題された読書会に参加していた。書籍は「アートとフェミニズムは誰のもの?」(村上由鶴 著)と「ジェンダー目線の広告観察」(小林美香 著)の二冊で、もともと関心を持っていたジャンルでもあったことからこのイベントが目に留まった。そしてそもそも考えると、読書という習慣は基本的に個人の中で収まっていて、他人と一緒に行うという経験が自分にはほぼない。例えば同じテレビ番組をみたり、プレイしたゲームの感想をシェアしあうことはよくあったけど、読書にはそれがないというか。だからそこにどんな体験があるのかにも興味が湧き、参加を申し込んだのだった。

会の形式は、書籍の概要や感想を各自が述べ、そこから全員でディスカッションを行っていくというもの。参加者は十数名いて、誰がどっちの本のどの部分を担当するか、各著収録の章単位で事前に決定していく。そして自分は「ジェンダー目線の広告観察」の第5-8章を担当することになった。この読書会では「教科書としてのフェミニズムやジェンダー学、アートを学ぶのではなく、日常を生き延びていく為にそれを身につけることを目指す」という旨も掲げられている。その点も踏まえながら、この本を通して感じていることをまとめたいと思い、書いていたものを以下に残しておく。

僕が最も関心を持った点は、広告を通して知る「受動的に見せられるものが持つ力」についてだった。広告は人々の価値観に影響を与える大きな存在であるという点から、それが物事や他者への理解、偏見といったことと通じる構造の一部でもあると思えて、興味を持っているのだと思う。

写真研究者であり美術館等での仕事も多く手がけている著者は冒頭で、その「広告」についてを「作品」と対比するように説明しているところがまず興味深かった。端的に言うと、作品とは能動的に鑑賞するもので、広告が受動的にみせられるもの。分かってはいつつも普段意識していなかった「みる」という態度のバリエーションの存在や、視覚を通した人と環境との相互作用なんかを思う。

“…「作品」としての写真とは、美術館やギャラリーのような展示空間の中でプリントとして展示されたり、写真集として編纂されたりして鑑賞に供されるものであり、写真を個人の制作物として価値あるものと認識し、鑑賞する行為に対して、積極的に時間を割き、対価を払う選択をする人が鑑賞者として想定されています。それに対して、この本で扱う「広告」は、商品やサービスの消費へと誘導する目的のために作られる表現物であり、見ることを積極的に選んでいなくても、自ずと視界の中に入ってくるようなもの、受動的に見させられているようなものも含まれます。

「作品」としての写真が、その価値を後世に伝えるために、プリントや書籍のような「もの」として作られ、鑑賞され、売買され、保管されるのに対して、広告は情報伝達の手段として、一時的な役割を果たせば取り替えられ、忘れられるような儚いものですが、その圧倒的な物量によって、見ていることを意識していないうちに、いつの間にかさまざまな人の脳内に価値観を刷り込むような役割を果たしています。時には存在することすら意識されていないイメージによって、どのような価値観が人々の中に刷り込まれているのか、いつしか私は関心を抱くようになりました。…(p2)”

2022年、日本の総広告費は7兆円越えだったらしい。この額は日本の公共事業や文教事業の各歳出を上回り、また現在の防衛費に匹敵する規模でもある。だからそれはある種インフラと同様、生活に浸透しているレベルだと捉えられる。そしてそれほどの大きな影響力を持つ事業に、しかし規制がほとんど行われていない実情がある。政治家の尾辻かな子さん(第7章)は大阪駅構内で張り出されたゲーム広告の問題を切口に、海外諸国の広告規制の動きなどを取り上げながら日本のメディアリテラシーの課題点を指摘している。実際、“日本の法律は、金儲けをしたい側、利益追求に偏っていて、消費者を守るようにはなっていない(p147)”ということを立法の側にいて痛感したという。

この問題には「公共空間への意識の低さ」が含まれている。ここに、”商品が売れれば良い、面白ければ良いという発想になりがち/代理店にすべて丸投げおんぶに抱っこ制作という構造/業界自体がおじさん社会であり、その偏った層が権威を握っていること” 等といった笛美さんの話(第6章)が重なってくる。つまり、私たちが日々浴びている視覚情報はかなり営利主義的なもので、かつその基盤の老朽化もリノベートされないまま現在に至っているということ。私たちは生活環境のインフラとして日々、水や電気を利用し、アスファルトで舗装された道路を歩いたりしているわけだけど、それと同じ規模でこうしたイメージも日々の視野に映り続けている。新聞やテレビ、PCやスマートフォンを通して、幼少の頃から現在にかけてずっと。

こうした構造の上に成り立つ、広告という「受動的に見せられるものが持つ力」。そしてそれが「理解」や「偏見」とも通じていると冒頭に書いた。このことは、著書の象徴的な項目である”脱毛広告”を例にすると分かりやすいかもしれない。”デキる男像”も然り、それらは「かくあるべし」を半脅迫的に刷り込む力を持っているわけだけど、これらは従って、”毛”や”デキない男”という存在を悪とする偏った価値観も生じさせていると言えるから。

僕にとって「偏見」が問題なのは、それが内在化した声として自身に降りかかるから。これまでとこれからの自分の生き方を否定する性質がそこには含まれていて、だから苦悩がある。そのせいで風景が限定的に見えたり、他者を断定的に見てしまうことの実感に、自分自身、なんというか、納得いかない感じがある。こうした「偏見」はいわば「社会の声」で、その構造が生産性に依拠しているから、自身に分裂的観点として内在していると今は捉えている。善悪に関わらず観点を複数持てるのは良いことだと考えてはいる。問題は、それによって自己が過剰に制限されるという、その実感だ。これは言い換えると、「なんであかんねん」「それでいいやん」といった自身の声や、同様の肯定をしてくれる知人友人の声が、どうしてこれほど弱められてしまうのかという問題になってくるのだけど、そこに今回の「広告」を結びつけることでヒントが見えてくる気がしている。

こうした問題に関連して、認知バイアス辞典(情報文化研究所 著)で読んだことも併せて書いておきたい。例えば、品川駅の住所は品川区と考えるのが自然だけど、実際は港区である。この判断方法(個別の事実に共通点を見つけ、一般的な結論を導き出す推論)を”帰納法”と呼び、またそうして起こる思い違いを”誤謬”と呼ぶ。認知科学は、人がなぜこうしたプロセスで思考を働かせるのかを研究しているらしい。

この本では論理学・認知科学・社会心理学という三つの観点からさまざまなバイアスが分析されている。例えば、流行や優勢なものに乗っかる心理はバンドワゴン効果(Bandwagon Effect)、未知のリスクを危惧して現状維持をとる心理はシステム正当化バイアス(System Justification Bias)と、日頃の行動心理、それ自体が一つの傾向に沿っていることが示されている。こうしたバイアスがなぜ稼働するのかの真相は定かじゃないけど、その方が脳のリソース的に楽になる、というのはありそうな気がする。

自分の意識であると認識できる感覚自体は、脳による既定のモニタリング(後追い)である、という話は前に受動意識仮説で触れた。じゃあそもそも、その意識以前にある行動の決定付けをもたらす要素はなんなのかという点に、テクノロジーとの相関性が思い浮かんでくる。それは、スマホや原発を手放せなくなった人々の意志の所在について、とも言えるだろうか。ハイデガーの技術論(森一郎 編訳の方)にあった一文を引用する。(以下、文中にある「挑発」という言葉は「かり立てる」という風に読んで良いと思う)

“人間自身が、自然エネルギーをむしり取るようにと、とうに挑発されているからこそ、徴用して顕現させるこのはたらきが生じうるのです。人間がそうするようにと挑発され、徴用して立てられているのであれば、人間もまた、徴用して立てられた物資に属しているのでは無いでしょうか。その証拠に、人材つまり人的資源という言葉が世に流通していますし、臨床例、つまり患者も資源のうち、といった言い方すら病院ではまかり通っています。山林で伐採された木材の測量に従事する森番は、見かけ上は、彼の祖父の頃と同じようにして同じ森の小道を通っていますが、今日では、本人が自覚しているか否かに関わらず、木材活用産業によって徴用して立てられているのです。森番は、セルロースの徴用可能性へと徴用して立てられており、セルロースはセルロースで、紙の需要によって挑発され、その紙自体は、新聞やグラビア雑誌用に配送して立てられるのです。では新聞雑誌はといえば、世論を駆り立てては印刷物をむさぶり読むようにさせ、徴用された世論がお膳立てされるのに向くように徴用可能となるのです。(p117-118)”

こうしたテクノロジーの舵を取るのは権威者な訳だけど、その権威者こそ最もそれに「徴用」された立場とも言える。「広告」の意志もその点で自律的にあって、だからそれも「権威」に作られているのではなく、そうした意志を超えた何かによって作らされている、とも言えるのではないか。そうした身元不明の情報に、そして私たちは影響を受けてしまう。

ユヴァル・ノア・ハラリが”人間はハック可能な動物(WIRED vol.32 P39)”と言っていたことを思い出す。ユーザー視聴時間の約70%がアルゴリズムによるレコメンドによるものだというyoutubeは良い例で、他にもカメラとスーパーコンピューターの組み合わせにより、顔の血管の脈動や瞳孔の拡大が読み取れ、そこからストレスレベルが検知できるという話もされている。この記事は2019年のものだから、生成AI台頭後の現在はきっと一層高度になっている。

そしてだからこそ必要なのは、自分自身をよく知ること(self-awareness)、そしてこのテクノロジー環境のことをよく知ること、という話でもあった。OSが自身のウイルス対策を日々アップデートするのと同様に、自分の頭も更新していかなくてはならない。自分はこの話を読んでいて、テクノロジーを自然環境として見立てることを想像する。ここまで書いてると、テクノロジーが絶対悪のようにも聞こえてしまうと思うのだけど、そうではない。要は「共生」ということだと考える。今回担当している著書の題に含まれた「観察」という言葉も、ここに結びついてくると思う。

引用しているWIREDの記事ではまた、組織活動に関わることの重要性も書かれていた。「広告」の問題も然り、その構造を転換させるような解決策は、個人で考えている限り途方も無いことだから。このこともまた「共生」であると思う。投票に行くとか、そうした政治参加が必須なのは言うまでもない。

四回にわたって行われた読書会は1月末に最終を迎え、自分の発表を無事(?)終えることもできた。振り返ってみれば、共通のテーマについてを複数の人達と考えた時間は、一人で同様のことをする時より学びが多かったように感じる。これは参加者の出自がさまざまだったことも大きい。自分は自身の写真を通しての人との関りが比較的多いけど、起点を本に置くことで関係性のチャンネルも変わるという実感は良い発見でもあった。

聞くこと、話すこと。を読んで (2)

ちょうどこの本を一度読み終えたあと、尹さんのウェブサイトを見ていたら近々大阪でワークショップを行うことが分かり、行ってきた。「閉じると開く」と題された内容で、前半は講義、後半は実際に身体を使った実践の時間だったのだけど、この身体を使うということに意外な発見があった。そのことについても書いておきたい。

当日は3つのパターンのそれを行ったのだけど、中でも「相手の手のひらを追いかける」というのが一番シンプルだったこともあり、余韻として強く残っている。その内容は、まずAとBが向かい合って座る。 次に、Aが手のひらを差し出し、Bはその上に手をのせる。そして、Aが手のひらを咄嗟に左右へ素早く動かすので、Bは手が相手から離れないようその動きを追う、というもの。実際にやってみると、Aが急に手を動かすわけなので、Bの手は若干遅れてAの手を追いかける格好になる、という当然の結果になる。

そして次に、Bが目を閉じた状態で、再び同じことを行う。するとなぜかBの反応の遅れがなくなる。Aの手の咄嗟の動きに対して、不思議とBの手がぴたりと連動するのだ。Bは相手の動きが見えないわけだから、相手の手がどこに行ったか分からなくなったりと、余計にうまくいかなくなると思いきや、なぜかそうはならない。当日は十数人の参加者がいて、それぞれがペアになって同じことを行っていたけど、みんなも同じ体験をしていたようだった。

これは多分、目で見て追おうとする意識による動作より、身体自体の反射に任せる方が反応が早い、ということなんだと思う。そうなんとなく合点がいくのは、過去に読んだ「脳はなぜ「心」を作ったのか(前野隆司 著)」に書かれていた受動意識仮説を思い出すから。1983年のその研究実験では、動こうと本人が意識するよりも0.35秒早く、大脳の随意運動野という場所から電気信号が発生しているということが分かったらしい。この結果が示しているのは、僕らは普段自らの行動を自身の意識で決定してると思ってるけど、実はそうではなく、行動は意識される以前に脳で決定されてるということ。自分の意識が全ての行動を決めてるという実感は錯覚というわけだ。意識下で起きているのは、だから判断といった能動的な感覚というよりも、そうした意識のめぐりを観測する受動的な機能と言った方がいいのかもしれない。

でも僕らは普段の行動を自身の意識によることだと感じている。それは「脳がある種のつじつま合わせを行なっているから」と書かれていた。どうしてそんな錯覚が起きるのかは、よくわからない(過去にここに書いた”責任と帰責”の話から心当たる事もあるけど、今回は深く触れない)。けど人間の感覚はそもそも錯覚だらけなのも事実。例えば網膜で受けた光が第一次視覚野に届くのに0.05秒、鼓膜に受けた音が第一次聴覚野に届くのに0.02秒らしいけど、僕らはそれを体感的に同時に(場合によっては光の方が早く)感じる。脳の時間解像度は0.01秒というから、その差分は感じ取れてもいいはずなのに。あと「錯視」と検索すれば、目で見えている実物に対して僕らは日常的にいろんな錯覚をいだいていることも分かる。

ともかく今回の体験を通して思ったのは、自分の身体は能動の意識が先行してめぐってるということ。「目で見て追うぞという意識がかえって身体本来の反応を邪魔している」という実感は、言い換えれば「本来の受動的な感覚は、思っていた以上に能動の意識によって覆い被されている」ということだ。

じゃあここで言う「能動の意識」とは一体なんなんだろうか。そこで言語の多くを担っている”警告、指示、命令”のことを思い出してみる。これらは常に他者へ向けて放つ/他者から放たれてくるものだから、典型的な能動の言葉だと言える。そしてこの性質によって社会のルールも作られている。狩猟や農耕も、なにかしらの連携や伝達が必要な技術だろうから、集団で生きる人間の生存にとってこの能動の機能は欠かせないとも言えそう。つまり社会性の生物として生きる上で、この性質は内在化せざるを得ない。これは言い換えれば、社会の声は個人にやどるということだ。自分はここから、「紀元前9000年頃、エイナンの王はその死後も民の中で幻覚となって相変わらず命令を下した」という話(神々の沈黙p176)や、「およそ150人が自然なコミュニティの限界値であるというサピエンスが認知革命によって虚構を獲得した結果としてのプジョー伝説」(サピエンス全史上巻p42-43)なんかを連想する。

近現代に入って人口の桁数も増加するに伴い、たとえば法律が重層化されたりと、社会の声としての”警告、指示、命令”は一層強く、また複雑化している。日本の自殺者数は内戦規模であるという話も当著には書かれていたけど、それはここで言う「社会の声」が他者、ひいては自己をも批判する構造に根差しているからとも言える気がしてくる。

ただ今回、身体をつかった実践での気付きにもあったように、能動的な感覚が自身のすべてではない。それよりもさらに深いところに、身体がもつ受動的な感覚があり、それもまた様々な「声」を持っている。そしてコミュニケーションの本来は、きっとそこから生じている。「聞くこと、話すこと。」において、このことを覚えておきたい。

余談だけど、こうした能動的な言語構造が、自分たちに様々なバーチャル(仮想)を見せているとも言える気がしている。このことをベースに、ドナルド・ホフマンやノーレット・ランダーシュを再読すべきかも。

聞くこと、話すこと。を読んで (1)

”他人の心の領域を想像力でもって推察し埋めていくようなことをついやってしまうけれど、それをなるべく控えようと思ったのは、わかりやすく言えばそこに交わりがないからだ。”

堀井さんがウェブサイトに公開しているダイアリーにあった一文。今はどうも、他者という存在、その認め方、向き合い方…そういったことに関わる内容が気になっている。そこでたまらずメッセージを送り、教えてもらった尹 雄大という人の著書「聞くこと、話すこと。」をしばらく読んでいる。そのことを整理してみたい。

序盤でまず感じていたのは、言葉は複雑な構造でできているということ。レイヤー構造に当てはめて考えると、言葉は多層のレイヤーでできているという感じ。単純に考えれば言葉=意味という単一のレイヤーでしかなく、それは何かしらの情報を伝える為のシンプルな記号である。だから会話の際、相手が話している言葉の意味を受け取れればなんの問題もない。けれど実際、その言葉=意味の下層には、話し手の表情や仕草、間や抑揚といった複数のレイヤーがある。つまり意味はそうしたベースによって支えられている。

言葉は意味を伝えるけど、その意味が、話し手が言わんとしていることを完全に表現できているとは限らないという話だ。自分だって、相手に話しつつも(うまく言えてないな…)と感じていることは多々あるわけで。そんな時、その会話が誤解で終わらないのは、相手側が(この人は言葉ではこう言ってるけどなんかうまく言えてなさそうだな)という雰囲気を察知してくれてるからだろう。尹さんはこのことを「音のズレ/その人の身体ではない声」と表現していた。

発話がはじまる前には、何かしらの感情のうごきがある。それを伝えたい、表現したいと思う時、相応しい言葉をさがすことになる(それが歌や踊りだったり、絵や詩だったりすることもある)。適切な言葉がそこで見つかればいい。けど見つからない、うまく言えない、ということは少なくない。そういう時に「ズレ」が起きる。私の中の本心を、私自身がちゃんと翻訳できていないという感じだろうか。その際、言葉の構造性をちゃんと踏まえれていれば -言葉の意味だけを捉えず、話し手の雰囲気全体を捉えながら聞く姿勢があれば- それを「ズレ」としてちゃんとキャッチできるのかもしれない。

そもそも言葉の表現領域は意外と狭い。人という生き物の感情の全てを完全に記述できるような代物ではない。このことに案外僕らは無自覚だと思う。言葉の権威は強力で、例えば現地語が流暢に扱えない限り、その社会に馴染むことが困難なのは想像に難くない。見方を変えれば言葉が社会を形作っているとも言える。例えば多くの言葉が担うのは“警告や指示や命令 (p4)だ。そういった名目で開発されてきている技術としての言葉としてみれば尚更、日常下でのコミュニケーションでうまく機能しないことがあるのはむしろ自然にも思えてくる。しかしこうした言葉が統制する社会で育ってきた私たちは、それによる意味の交換が絶対だと信じてしまいがちになる。

こうしたことに関連して、印象に残っていた言葉に「感情移入と投影の違い」がある。本では第5章で主に語られている。

“…本人は感情移入しているつもりでも、実は自分を投影しているに過ぎない。相手ではなく鏡を見ているのに等しい。そうなってしまうのは、共感することを理解だと思っているからではないか。(p225)

共感=理解のように自分も捉えていた。しかし辞書で「共感」を見てみると、「他人の考えや感情を、自分もその通りだと感じること」とある。「その通りだと感じる」ということはつまり、まず自分がそれを「わかっている」かどうかが前提条件としてあるということだろうか。一方で「理解」は「内容、意味などがわかること」で、また「他人の気持ちや物事の意味などを受けとること。相手の気持ちや立場に立って思いやること」とも辞書にある。ここには自分がそれをわかっているかどうかを前提とするニュアンスはない。むしろ、分からないものをそのまま受け取ろうとする姿勢が感じられる。共感と理解は確かに意味が違う。

“たとえば文化や慣習、セクシュアリティの違いなどで、少しでも共感できない出来事に出会うと「分からない」の言葉でさっさと片付けてしまう。場合によっては嫌悪感を付け足してしまう。そうした心の動きの背景には、共感によって「わかる」を積み上げれば理解できる段階に至れる、そんな偏った考え方があるのではないか。
と言うのも、共感できないとなると早々に切り上げてしまうとしたら、言外に表しているのは、「私は自分のこれまで知っている人や事柄しか理解しない」という態度だ。それはつまり答え合わせということで、自分の中の正解を投影しているに過ぎない。(p225)

もしすべての会話を共感ベースで、つまり投影で行なっているなら、その会話の中で「ズレ」が起こってもそれを拾い上げることはできないだろう。だから相手が真に言わんとしていることに気づけない。共感ベースという、自分が望ましいと思う理解が得られる関係性で話し合うおかげで、現状の自分がいつも肯定されるという結果が得られる。これが必要な時もあるとは思う。ただこれによって失っているものもあって、それは“未知であり可能性(p42)であると尹さんは書いている。大人の頭がどんどん凝り固まっていくことには、こうした構造も根深く関わっていそうな気がしてくる。

環世界とイメージメイキング

東京都写真美術館のポッドキャストを聴いて、原島大輔さんの環世界とイメージメイキングの話がとても印象に残っている。環世界というと、20世紀初頭の生物学者ユクスキュルが提唱した考え方。端的に言えば生物が各々のパースペクティブを持ち、その中で生きている世界観を言っている。自分達が様々な生物と共生しているという事は、よく知っているつもりだけど、その時イメージされるのは自分を含めた幾多の生物が並んだ一枚のマップのような感じだと思う。しかしそこで環世界の考え方を踏まえると、その一つ一つの生物自体に(アクセスするようにして)成り、その生物自体の視点から見えてくる風景が指向されるようになる。

この時、生物個々にイメージメイキングが存ることが見えてくる。生物が持つ視覚、それ以外の知覚、そしてその生物が生きる為に関係する、周辺の事物との関わり。その全てとのまじわりが、個々のイメージメイキングを生じさせている。

こうした、生命とその生命が関連する事物のことを、西垣通さんの基礎情報学では”Information”と呼ぶらしい。本来「情報」という意味で理解されている単語だけど、その根源的な意味は、生命にとって欠かせないもの、ということになってくる。言い方を変えればそれは、その生命自体を内側から形成しているもの、つまりは”In – Formation”である、ということだった。(西垣通さんはそれを生命情報と呼んでいる。)

原島さんはこう続ける「…そこではつまり言語のような社会情報とか、あるいはデジタルデータのような機械情報は、いずれも元々は生命情報、すなわち生き物にとっての意味、価値として算出された情報。これが抽象化されることで発生されたものであると考えられる。」

ポッドキャスト内ではもう一つ、「技術/テクノロジー」についても言及される。この時テクノロジーという言葉に注意されるのは、それがすなわち西洋近代技術であり、その発展の結果として人は自然が資源にしか見えなくなっているという事や、テクノロジーの進歩は自己発展的であり、人間はそれに巻き込まれているだけという事。テクノロジーによってモノの見方が拡張しているようで、実はそれに規定されている、といったことも語られる。その文脈においては写真も、主体が対象物を観察するということが、その最も一般的な用途としてある。その上で原島さんは、レーザーでのスキャニングが扱われている藤幡さんの作品についてを、写真の一般的なイメージメイキングとの相対化として捉え、そしてその相対化によって、日頃の自分自身のイメージメイキングのプロセスそのものにも思いをはせていく、という事を語る。

原島さんはこう続ける「テクノロジーはとかく人間を機械論的な世界観に閉じ込めてしまうものです。そこでは世界に存在する万物は機械的な法則に従っていて、その法則さえ使えばなんでもかんでも意のままにコントロールできるという幻想に人は惑わされてとらわれてしまう。でも生き物の世界はそういう風にできていないですよね、もっと偶然的で自由です。これは文字通り自然であると思います。そういうものは機械論的なテクノロジーの世界にとっては、逸脱として、まるで裂け目からあふれ出すようにして現れてきます。しかしそれはその逸脱であるがゆえにこそ強烈なイメージメイキングの力があるというわけでは、必ずしもないのではと俺は思います。なぜならむしろ生命論的な秩序からしてみれば、これは道を外してないからこそかえって溌剌たるイメージメイキングの力が素直に発露しているのだから。これを感覚的な意味での、見た目上の美しさっていうのとは違う意味で、美しいと思ったのだと、思います。」

15歳のテロリスト

15歳のテロリストという小説を勧められて読んだ。この物語を読んでいる間、利他学のなかで話されていた「責任」について思い返すことが多かった。そのことを整理したい。

物語の中ではしばしば個人対個人の対立構造が起こる。AがBの恋人や家族に危害を加えることで、BはAへ復讐心を抱く。安藤がユズルへ、篤人がヒイロへ、自身のかけがえない存在を奪われた恨みを晴らす為に報復を試みる。でもそれを受けた側は、それぞれが口を揃え「自分は悪くない」と言う。ヒイロはユズルに、そしてユズルは比嘉に唆されていたから。

個人対個人の対立は一般的に、対処的であり、やられたらやり返すのはその一つ。自分の大切ななにかに危害を加えられた時ほど、やり返そうとする気持ちは強まる。実際、安藤は自ら書いた記事によってユズルを社会から追いやったし、篤人はヒイロへ包丁を向けた。

そして結果として起こるのは悪循環だった。やり返されっぱなしでは気が済まない。前者の安藤によって社会から追いやられたユズルは、精神が荒れ果て、様々な事件を起こし、挙句の果てに比嘉の操り人形としてテロを起こすことになる。ウェブ上のコメントも含めた世論の罵詈雑言もまた、この悪循環の一部。これは被害者であり報復の念にとらわれた状態の篤人の背中を強く押す力にもなっていた。

けどこの物語の光は、その篤人から灯りはじめる。彼はヒイロに包丁を向けはするけど、すんでのところで留まる。そしてヒイロを指示した人物を突き止める為に動き出す。対処的な行動によって起こる悪循環の流れが、ここで留まっている。もう一つの光がある。それはユズルの妹のアズサとその母親。彼女たちはユズルの傍若無人によって周囲から激しい差別やいじめを受け続けていた。そしてそれに耐え続けていた。ここでも悪循環がせき止められている。

もしこの物語の中で、全員が反射的にやり返していたら、それこそ焼け野原のような地獄絵図が浮かんでくる(実際そうした歴史を人類は繰り返している)。じゃあその悪いエンディングを回避する鍵になった「光」って何なのか?そこで「責任」の話を思い出すのだった。

この小説の光としての篤人、アズサ、アズサの母に共通していたのは、「責任」を重んじる態度だったと思う。篤人は責任を追及する故にヒイロを殺さなかったし、アズサとその母は責任を感じているから辛い日々を耐え続けた。そうして事件の真相を目指し進み続ける主人公たちの姿が、責任の因果関係という線性をなぞる旅の物語のように、自分には思えていた。

(ここからは哲学者の國分攻一朗さんの言葉を引用しまくりで書いていく。)責任は英語でresponsibility、これは応答を意味するresponseに由来する。つまり責任とは本来、応答の精神が伴うべきことである。だから責任をめぐる物語は、応答をめぐる物語とも言い換えられる。対処的な帰責 – やられたからすぐやり返すこと – が悪循環の発端であることは先に書いた。これは、帰責すること(相手に責任を帰属させること)は簡単だけど、かといって相手がそれで責任を感じる(応答する)とは限らないことに由来してる。ヒイロやユズルのふるまいがその典型と言えるだろう。つまり、ここには責任と帰責の混同がある。そして対処的な帰責ではなく、責任(応答)を求める篤人は、だからその因果関係を辿り進んでいくことになる。

皆が篤人のように、やられたからとすぐやり返すのではなく、責任の因果を辿り、応答と出会うことができれば、世の中はもう少しましになるかもしれない。けど、実際はなかなかそうならない。それはいったいどうしてなんだろうか?とても難しいことだけど、先に書いた「責任と帰責の混同」という問題を考察してみると、そのメカニズムが少しずつ見えてくる。そこでは「意志」の概念がキーになる。

「意志」は、私達が責任の所在をジャッジする際の重要なポイントである。「あなたの意志でやったなら、それはあなたの責任」となるからだ。しかしここまでの話を踏まえれば、この論理には問題があることがわかる。それはすなわち、この論理の中のいったいどこに「応答」があるのか?ということ。だから「あなたの意志でやったなら、それはあなたの責任」という論理の本質は、「応答すべき人間が応答しないから、仕方なく意志の概念を使って無理やり責任を押し付けている」ということになる。ユズルは確かに安藤の恋人を殺し、テロを企てもした。そうした彼の行動は、彼自身がやったこと=彼の意志として捉えられる。これは紛れもない事実である。だから「帰責」され、裁かれた。しかし彼自身に「応答」の精神はなかった。彼は自身の行動の事実は認めたが、それは唆されたからであったとも続けた。そもそもは、週刊誌の記事によって吊るしあげられたことも影響していたし、更に元をたどれば、幼少期の過酷な体験が暗く根差してもいた。

これは、ユズルの人生を一本の線として見た時、問題を犯した現在に辿り着くまでの道のりに、幾多の因果があったということ。しかし、彼を裁くのは直近の彼の意志である。そしてこの時、直近の意志以前にあった過去は同時に捨象される。物事の因果関係は、遡ろうと思えば無限に遡ることができる。だから私達は「意志」の概念を使って、責任の所在を帰責する。

「意志」は、私達の言語が能動態と受動態とに二分された頃に発生した概念であるらしい。能動(する)と受動(される)の区分がクリアに定義されたことで、意志(責任)の所在も明確になったということ。そしてこれは言い方を変えれば、する/されるという区分がクリアではなかった時代があったということになる。そしてその時代を分析していく際のキーとして「中動態」がある。これは、現在の受動態の前身的なもの。つまり当時の言語は、能動態/中動態に二分されていたということらしい。

では受動態と、その前身的なものとしての中動態、その違いは何か?中動態の定義は「主語が動詞によって名指される過程の場になる」とある。通常、動詞が自分から発せられれば能動だし、自身がそれを受け取れば受動。だからその点で中動は、自身のなかで動詞が起こり、自身はただその動詞に突き動かされている状態、とでも言えるだろうか。だから、能動/受動がする/されるとすれば、能動/中動は外/内という対立と捉えて良い気がしてくる。

この定義をもとにファイノーという動詞が紹介される。能動態であれば「I show(見せる)」になるこの言葉は、中動態の活用でファイノマイになり「I appear(私が現れる)」と訳せることになる。そして「主語が動詞によって名指される過程の場になる」中動態であるから、私が現れるという事態は、同時に「I am shown(私が見せられる)」「I show myself(私が自分自身を見せる)」とも訳せる。なぜなら前者「私が現れる」は「私が見せられる」ことでもあるからだし、後者は、英語には再帰表現があることにもよる。つまり、中動態のファイノマイには、「私が現れる」「私が見せられる」「私が自分自身を見せる」という三つの事態が同居していることになる、という話。

現代の能動/受動の言語視点から見れば、ファイノマイの中には能動(I appear)と受動(I am shown)という対立する事態が混在していることがわかる。ファイノマイ…そこにただ現れているという状態があった。そしてその主体の意志をさらに問うことが、言語の移り変わりによって起きる。(逆の言い方をすれば、現代ではその物事を対立的に捉えているが、当初はそうした発想がそもそもなかった。)

言語体系の変化によって、物事の捉え方が変わった。それは、する/されるの明確化であった。でも、なんでそのような変化が起きたのか?国分さんはそれを、「意志」を問う為であると推測している(尋問する言語)。自分から現れたのか、強制されてあらわれたのかを区別する為だ。ファイノマイという状態に因果を問うことで、その出来事に因果の出発点という指標を打つ。そうすれば、誰かに唆されていようが、強制されていようが関係なく、その出来事はその当人から出発したものとして捉えられるようになる。そしてこのことは、過去にあった因果関係を、意志の概念によって切り捨てている、ということでもある。

古代ギリシャ時代には、こうした「意志」の概念が無かった、ということが言われている。これは仮説であって実証する方法は無いものの、このことについてを抑えておくのは、意志について考えるうえで必要に思えるので、引用と共にまとめておく。

まず、古代ギリシャがいつからいつまでというのは、諸説あるようで、とりあえず紀元前30世紀頃~紀元前2世紀頃と捉えておくとする。日本で言えば縄文時代の後期から弥生時代あたりまで。こうしてみると、紀元前が終わる頃に、中動態は衰退。能動/受動の概念へと移り変わり、そして「意志」の概念が台頭、ということになる。

「意志」の概念が台頭した頃としての紀元のはじまりは、イエスキリストの誕生の時期。哲学者のハンナ・アレントは、意志の概念の創設者はそのキリスト教哲学であり、特にパウロとアウグスティヌスがその主要人物であると言う。キリスト教には「無からの創造」という考え方があったらしい。それは「私の意志でやった」という受動/能動による作用と結びつく。

またアレントは、「意志」を得ることで「未来」という時制を得た、ということも言っている。彼女は精神の中にもいろいろな器官があると考え、そこで過去に関わる精神的器官を「記憶」と考えた。じゃあ未来に関わる器官は何かと考え、それを「意志」とした。その理由は、アリストテレスの可能態の話を参照するとわかる。端的に言えば、当時、実在する一切のものはすでに将来が決定していると考えられていた(可能態が先行しているから)。すなわち未来という時制は存在していなかった。しかし、能動/受動の対立によって「意志」が生じる。それは連綿とつづく可能態という名の線性に指標を打ち、そこからあらたな線を出発させること。当然その先は見えない。よって私達はその先を思考するようになる。それが「未来」という時制になる。

「責任」という概念は、それがresponseである以上、先天的にそなわった精神性と言える気がする。人は互いの痛みや喜びをある程度共感することができる生き物であるから。片や「意志」は、言語構造によって後天的に追加されたプログラムであるということが分かった。だからこの両者の間でしばしば齟齬が起きる。

15歳のテロリストが真の責任まで辿りつくことができたのは、その意味で、なんというか、「若さ」的な部分が力として働いていた、とも言えるかも。後天的に備わっていく指針としての意志を判断材料としては盲信せず、先天的な感覚としての応答へ進み続けたという点で。