聞くこと、話すこと。を読んで (2)

ちょうどこの本を一度読み終えたあと、尹さんのウェブサイトを見ていたら近々大阪でワークショップを行うことが分かり、行ってきた。「閉じると開く」と題された内容で、前半は講義、後半は実際に身体を使った実践の時間だったのだけど、この身体を使うということに意外な発見があった。そのことについても書いておきたい。

当日は3つのパターンのそれを行ったのだけど、中でも「相手の手のひらを追いかける」というのが一番シンプルだったこともあり、余韻として強く残っている。その内容は、まずAとBが向かい合って座る。 次に、Aが手のひらを差し出し、Bはその上に手をのせる。そして、Aが手のひらを咄嗟に左右へ素早く動かすので、Bは手が相手から離れないようその動きを追う、というもの。実際にやってみると、Aが急に手を動かすわけなので、Bの手は若干遅れてAの手を追いかける格好になる、という当然の結果になる。

そして次に、Bが目を閉じた状態で、再び同じことを行う。するとなぜかBの反応の遅れがなくなる。Aの手の咄嗟の動きに対して、不思議とBの手がぴたりと連動するのだ。Bは相手の動きが見えないわけだから、相手の手がどこに行ったか分からなくなったりと、余計にうまくいかなくなると思いきや、なぜかそうはならない。当日は十数人の参加者がいて、それぞれがペアになって同じことを行っていたけど、みんなも同じ体験をしていたようだった。

これは多分、目で見て追おうとする意識による動作より、身体自体の反射に任せる方が反応が早い、ということなんだと思う。そうなんとなく合点がいくのは、過去に読んだ「脳はなぜ「心」を作ったのか(前野隆司 著)」に書かれていた受動意識仮説を思い出すから。1983年のその研究実験では、動こうと本人が意識するよりも0.35秒早く、大脳の随意運動野という場所から電気信号が発生しているということが分かったらしい。この結果が示しているのは、僕らは普段自らの行動を自身の意識で決定してると思ってるけど、実はそうではなく、行動は意識される以前に脳で決定されてるということ。自分の意識が全ての行動を決めてるという実感は錯覚というわけだ。意識下で起きているのは、だから判断といった能動的な感覚というよりも、そうした意識のめぐりを観測する受動的な機能と言った方がいいのかもしれない。

でも僕らは普段の行動を自身の意識によることだと感じている。それは「脳がある種のつじつま合わせを行なっているから」と書かれていた。どうしてそんな錯覚が起きるのかは、よくわからない(過去にここに書いた”責任と帰責”の話から心当たる事もあるけど、今回は深く触れない)。けど人間の感覚はそもそも錯覚だらけなのも事実。例えば網膜で受けた光が第一次視覚野に届くのに0.05秒、鼓膜に受けた音が第一次聴覚野に届くのに0.02秒らしいけど、僕らはそれを体感的に同時に(場合によっては光の方が早く)感じる。脳の時間解像度は0.01秒というから、その差分は感じ取れてもいいはずなのに。あと「錯視」と検索すれば、目で見えている実物に対して僕らは日常的にいろんな錯覚をいだいていることも分かる。

ともかく今回の体験を通して思ったのは、自分の身体は能動の意識が先行してめぐってるということ。「目で見て追うぞという意識がかえって身体本来の反応を邪魔している」という実感は、言い換えれば「本来の受動的な感覚は、思っていた以上に能動の意識によって覆い被されている」ということだ。

じゃあここで言う「能動の意識」とは一体なんなんだろうか。そこで言語の多くを担っている”警告、指示、命令”のことを思い出してみる。これらは常に他者へ向けて放つ/他者から放たれてくるものだから、典型的な能動の言葉だと言える。そしてこの性質によって社会のルールも作られている。狩猟や農耕も、なにかしらの連携や伝達が必要な技術だろうから、集団で生きる人間の生存にとってこの能動の機能は欠かせないとも言えそう。つまり社会性の生物として生きる上で、この性質は内在化せざるを得ない。これは言い換えれば、社会の声は個人にやどるということだ。自分はここから、「紀元前9000年頃、エイナンの王はその死後も民の中で幻覚となって相変わらず命令を下した」という話(神々の沈黙p176)や、「およそ150人が自然なコミュニティの限界値であるというサピエンスが認知革命によって虚構を獲得した結果としてのプジョー伝説」(サピエンス全史上巻p42-43)なんかを連想する。

近現代に入って人口の桁数も増加するに伴い、たとえば法律が重層化されたりと、社会の声としての”警告、指示、命令”は一層強く、また複雑化している。日本の自殺者数は内戦規模であるという話も当著には書かれていたけど、それはここで言う「社会の声」が他者、ひいては自己をも批判する構造に根差しているからとも言える気がしてくる。

ただ今回、身体をつかった実践での気付きにもあったように、能動的な感覚が自身のすべてではない。それよりもさらに深いところに、身体がもつ受動的な感覚があり、それもまた様々な「声」を持っている。そしてコミュニケーションの本来は、きっとそこから生じている。「聞くこと、話すこと。」において、このことを覚えておきたい。

余談だけど、こうした能動的な言語構造が、自分たちに様々なバーチャル(仮想)を見せているとも言える気がしている。このことをベースに、ドナルド・ホフマンやノーレット・ランダーシュを再読すべきかも。