聞くこと、話すこと。を読んで (1)

”他人の心の領域を想像力でもって推察し埋めていくようなことをついやってしまうけれど、それをなるべく控えようと思ったのは、わかりやすく言えばそこに交わりがないからだ。”

堀井さんがウェブサイトに公開しているダイアリーにあった一文。今はどうも、他者という存在、その認め方、向き合い方…そういったことに関わる内容が気になっている。そこでたまらずメッセージを送り、教えてもらった尹 雄大という人の著書「聞くこと、話すこと。」をしばらく読んでいる。そのことを整理してみたい。

序盤でまず感じていたのは、言葉は複雑な構造でできているということ。レイヤー構造に当てはめて考えると、言葉は多層のレイヤーでできているという感じ。単純に考えれば言葉=意味という単一のレイヤーでしかなく、それは何かしらの情報を伝える為のシンプルな記号である。だから会話の際、相手が話している言葉の意味を受け取れればなんの問題もない。けれど実際、その言葉=意味の下層には、話し手の表情や仕草、間や抑揚といった複数のレイヤーがある。つまり意味はそうしたベースによって支えられている。

言葉は意味を伝えるけど、その意味が、話し手が言わんとしていることを完全に表現できているとは限らないという話だ。自分だって、相手に話しつつも(うまく言えてないな…)と感じていることは多々あるわけで。そんな時、その会話が誤解で終わらないのは、相手側が(この人は言葉ではこう言ってるけどなんかうまく言えてなさそうだな)という雰囲気を察知してくれてるからだろう。尹さんはこのことを「音のズレ/その人の身体ではない声」と表現していた。

発話がはじまる前には、何かしらの感情のうごきがある。それを伝えたい、表現したいと思う時、相応しい言葉をさがすことになる(それが歌や踊りだったり、絵や詩だったりすることもある)。適切な言葉がそこで見つかればいい。けど見つからない、うまく言えない、ということは少なくない。そういう時に「ズレ」が起きる。私の中の本心を、私自身がちゃんと翻訳できていないという感じだろうか。その際、言葉の構造性をちゃんと踏まえれていれば -言葉の意味だけを捉えず、話し手の雰囲気全体を捉えながら聞く姿勢があれば- それを「ズレ」としてちゃんとキャッチできるのかもしれない。

そもそも言葉の表現領域は意外と狭い。人という生き物の感情の全てを完全に記述できるような代物ではない。このことに案外僕らは無自覚だと思う。言葉の権威は強力で、例えば現地語が流暢に扱えない限り、その社会に馴染むことが困難なのは想像に難くない。見方を変えれば言葉が社会を形作っているとも言える。例えば多くの言葉が担うのは“警告や指示や命令 (p4)だ。そういった名目で開発されてきている技術としての言葉としてみれば尚更、日常下でのコミュニケーションでうまく機能しないことがあるのはむしろ自然にも思えてくる。しかしこうした言葉が統制する社会で育ってきた私たちは、それによる意味の交換が絶対だと信じてしまいがちになる。

こうしたことに関連して、印象に残っていた言葉に「感情移入と投影の違い」がある。本では第5章で主に語られている。

“…本人は感情移入しているつもりでも、実は自分を投影しているに過ぎない。相手ではなく鏡を見ているのに等しい。そうなってしまうのは、共感することを理解だと思っているからではないか。(p225)

共感=理解のように自分も捉えていた。しかし辞書で「共感」を見てみると、「他人の考えや感情を、自分もその通りだと感じること」とある。「その通りだと感じる」ということはつまり、まず自分がそれを「わかっている」かどうかが前提条件としてあるということだろうか。一方で「理解」は「内容、意味などがわかること」で、また「他人の気持ちや物事の意味などを受けとること。相手の気持ちや立場に立って思いやること」とも辞書にある。ここには自分がそれをわかっているかどうかを前提とするニュアンスはない。むしろ、分からないものをそのまま受け取ろうとする姿勢が感じられる。共感と理解は確かに意味が違う。

“たとえば文化や慣習、セクシュアリティの違いなどで、少しでも共感できない出来事に出会うと「分からない」の言葉でさっさと片付けてしまう。場合によっては嫌悪感を付け足してしまう。そうした心の動きの背景には、共感によって「わかる」を積み上げれば理解できる段階に至れる、そんな偏った考え方があるのではないか。
と言うのも、共感できないとなると早々に切り上げてしまうとしたら、言外に表しているのは、「私は自分のこれまで知っている人や事柄しか理解しない」という態度だ。それはつまり答え合わせということで、自分の中の正解を投影しているに過ぎない。(p225)

もしすべての会話を共感ベースで、つまり投影で行なっているなら、その会話の中で「ズレ」が起こってもそれを拾い上げることはできないだろう。だから相手が真に言わんとしていることに気づけない。共感ベースという、自分が望ましいと思う理解が得られる関係性で話し合うおかげで、現状の自分がいつも肯定されるという結果が得られる。これが必要な時もあるとは思う。ただこれによって失っているものもあって、それは“未知であり可能性(p42)であると尹さんは書いている。大人の頭がどんどん凝り固まっていくことには、こうした構造も根深く関わっていそうな気がしてくる。