ART iT リー・キット インタビューから

…僕は今ではもう民主主義の存在を信じていないんだ。そもそも現実世界において機能するとは到底思えない。だから、ものすごく怒りを覚えてしまう。だってそうでしょう? 僕をはじめ、香港の人たちはまさに「民主主義」のために今まで戦ってきたのだから。ただね、「時すでに遅し」だとしても、僕たちには民主主義以外の選択肢は残されていないということも事実で。こういう具合に、時々かなり悲観的になっている自分がいるんだ。そういうときは思わず「誰かを殺すべきだろうか?」って自分に問いかけてしまう。まぁ、できないことはないだろうけど、それが何かの解決になるとも思えない。要するに、悲観的であるということは、同時に楽観性を余儀なくされるということなんだ。そうでなければ、例え他者を殺さなくても、僕は自分自身の存在を抹消しようとするだろうね。このように、偶然にも芸術と政治とのあいだである種の結びつきが生まれる。僕は何か新しいことに取り組むことはできるけど、それを実行する前に誰かに他言することはできない。だから最終的には「自分に何かできるか」、もしくは「自分は何をすべきか」といった課題に直面してしまうんだ。…

芸術の中動態 P35-36

芸術は、われわれの生きるこの「現実」の地平とは別の次元に、もう一つ別の地平を生じさせる。絵画は、平面上の色や形という視覚に訴えるものだけで、ひとつの世界をつくり上げる。その世界は、現実と地つづきではなく、次元の異なる世界である。音楽は音で、文学はことばで、舞踊は身体の動きで、演劇はことばと所作で、映画はスクリーンに映し出される動く映像で等々、それぞれ用いる手段は違っても、別の次元にあらためてそれ固有の世界を生じさせることにおいては共通すると言えよう。そしてその世界は、単に対照的に別の次元として把握されるだけのものではなく、あくまでわれわれがそこに巻き込まれて生きるもう一つの地平である。

DUCHAMP カルヴィン・トムキンズ著 P405、408から

…わたしは物事の知的な側面に目を向けるのは好きなんだが、「知性」ということばは好かない。知性ではどうも無味乾燥で、表現力が弱すぎる。それよりは「信念」のほうがいい。ひとが「わかっている」というとき、たいがいはわかっているのではなく、信じているのだね。とにかく、人間は美術という営為にたずさわるときのみ、人間として、動物の状態を超える能力をそなえた真の自立した個人になれるとわたしは思う。美術は空間と時間に支配されない領域へ向かう門のようなものだよ。生きるとは信じること、これがわたしの信念だ。

もう三十年以上もまえに、本腰を入れて美術作品の制作にとりくむのをやめたことになっているひとの口から出たとは、とても思えないような発言だ。それに、この折り紙つきの不可知論者が「信念」について語っているのにも、意表をつかれる。はじめのうちはこのことばを漠然とした意味あいーー本当かどうか自信はなくとも、何かを真実と信じる(思う)ーーで用いていたようだが、「生きるとは信じること」とまで言いきって、この語にはるかに明確な解釈をあたえ、そうすることによって、美術を人間の営為のなかでももっとも高度なもののひとつとするみずからの確信の強化をはかる。この変化は、言語一般、とりわけ単語についてのデュシャンの思考の揺れを反映したものである。デュシャンは好んで唯名論者ーー抽象的な概念は実在せず、わたしたちがあたえる名称が存在するにすぎないと信じるひとーーを名乗った。テレビ番組が放送されてからまもなく、ミシェル・カルージュの『独身者の器機たち』に関する詳しい批判を手紙で展開したあるフランス人に対して、デュシャンは「わたしは言語を信用していません」と応じている。「わたしは文章による批評の大敵を自認する者です。カフカ等との対比やあれこれの解釈は、言葉の蛇口を開くきっかけにすぎないとしか思えません……したがって潜在意識のなかにある思考を説きあかすかわりに、現実には、ことばによって、ことばに引きずられるかたちで、思考を創りだしてしまう。」デュシャンによると絵画などの視覚芸術作品は、ことばに置きかえられないものである。それに、「これら駄弁の数々ーー神の存在、無神論、決定論、自由意志、社会、死、等々は言語と呼ばれるチェスの駒であり、それが楽しめるのは、『このチェスのゲームの勝ち負け』にこだわらない場合にかぎられます。」ところが、チェスの達人であったデュシャン本人も、言語のゲームが、中毒と呼んでもいいほど好きだった。ことばはどうも信用ならないとデュシャンが感じたのは、ことばには生みの親のもとを離れ、ひとりで生きていこうとする傾向があるからだろう。そのために、思考や思想を伝えるにはあまり役に立たないけれども、それが理性を超えた想像力の世界を開く鍵として働くことを妨げはしない。そしてその想像力の真の声を伝えるのは、詩をおいてほかにない。…

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…八百語からなる文章は主題も表題と同じ「創造的営為」で、まず「美術の創造には二つの極があり、一方に美術家、他方にやがて後世となる鑑賞者がいる」ことをあきらかにする。デュシャンにとって、ひとりまたはそれ以上の鑑賞者の目に触れ、思考の対象とならないかぎり美術作品が完成しないことは自明の理だった。したがって、知られざる傑作が存在する余地はない。そのおもな理由としては、デュシャンの見方によると、美術家は創造的な行為の一部をになうにすぎず、またそのさいにも、自分がしていることを意識のレベルで真に理解してはいないことが挙げられる。「どう見ても、美術家は時間と空間の迷路を超えたさきで、開けた場所へ出る道を探る霊媒のようにふるまうとしか思えない……」というのがデュシャンの言いまわし。「この霊媒としての役割を否定し、創造行為の最中のみずからの意識の有効性を重んじる美術家の多くが、わたしの考えに賛同しないことは承知している。ーーしかし美術史はつねに美術作品の価値を、美術家の合理的な説明とはまったく無縁な考証を経て確定してきたのである。」言いかえれば、美術家が自分は何をしていると考えようと、実際にできあがる作品は、本人が意識してどうこうしようにも手の届かない事柄によって決まってくる。そのために、作者の意図とできあがった作品のあいだ、デュシャンが機知を効かせて「意図されながら表現されなかったものと、意図せずに表現されてしまったもの」と呼ぶもののあいだにはかならずズレが生じる。鑑賞者のおもな役割はこの隙間に踏みこみ、目に映るものを解釈することによって、美術家がまず作動させた過程を一巡させることにある。…

DUCHAMP カルヴィン・トムキンズ著 P405、408から

 

「眼と精神」p103から

…幼児の想像力を考察した際も同じことであって、心像(イマージュ)と呼ばれているものは、幼児においては、先行する<知覚>の稀薄になったり微弱になった一種の<写し>のごときものでは決してないと思われました。想像と呼ばれるものは実は情動的行為であり、したがってここでもわれわれは<認識主観と認識対象との関係>の言わば手前にいたことになります。問題は、幼児が<想像的なもの>を組織し上げるその原初的操作にあるわけであって、それはちょうど、知覚においては<知覚されたもの>を組織し上げる原初的操作が重要であるのと同じことだったのです。

幼児の線描きについて調べたとき、有名なリュケの著書に抱いた不満の一つは、まさにその点でした。と言いますのも、その著書では、幼児の線描は欠陥をもった<成人の線描>と考えられていますし、また幼児の発達ということも、いろいろな年齢の線描を通して見ると、ちょうど成人が行なっている世界表象、少なくとも西洋の白人のいわゆる「文明化した」成人が行なっているような、言い換えれば古典的幾何学の遠近法の法則にのっとった世界表象の試みの、<一連の失敗>のようなものだとされているからです。だが、われわれが示そうとしたのは、その反対に、幼児の表現の仕方は、いわゆる「視覚的写実主義」の途上の単なる<あやまち>としては理解できないものだということ、それはむしろ、幼児には古典的スタイルの線描の遠近法的投影に見られるのとは全く違った<物や感覚的なものに対する関係>があることを証明するものだということでした。…

「眼と精神」p103から

クロード・レヴィ=ストロース「野生の思考」から

E・スミス=バウエンは自分がすっかり困惑した話を、ほとんど潤色なしでおもしろく語っている。アフリカのある部族のところへ行ったとき、彼女はまずことばを覚えようとした。ところがインフォーマントたちは、初歩の段階で、植物の見本をたくさん集めてきて、それを示しながらいちいち名前を行って教え、また彼らはそれがごくあたり前のことと考えた。ところがスミス=バウエンにはその識別ができない。それは植物が見なれぬものであったためではなくて、彼女がそれまで植物界の豊かさ、多様性にあまり関心を持ったことがなかったからである。それに対して現地人たちは、そのような興味は当然持っていると信じ込んでいたのである。
(クロード・レヴィ=ストロース「野生の思考」から)