ゲルハルト・リヒター「写真論/絵画論」から

「悪というものの平凡さ」に言及しましたが、それは平凡さとは、ある点でなにか恐ろしいものでありうることを示すためです。平凡ということを、人をぞっとさせるなにかとしてひょうげんすることが問題なのです。シャンデリアの作品《フランドルの冠》は怪物です。私はわざわざ本当の怪物を描く必要などない。この物体、このダサくて小さくて平凡なシャンデリアを描くだけで十分なのです。この物体は恐ろしい。フランシス・ベーコンと自分のちがいをいうために、かつてのべたことがありますが、私なら顔を変形する必要などない。人々の顔を写真に写っているそのままに平凡に描くことのほうがずっと恐ろしいですよ。そうすることで、平凡なものはたんなる平凡以上のものになるのです。

壁画をおもしろいと思うのは、そこに見知ったなにかに似たものを探すからにほかなりません。なにかをみて、頭のなかのなにかとくらべ、なんに関連しているかをみいだそうとする。たいてい、類似のものをみいだすので、それを名づけます。テーブルとか、毛布とかね。類似のイメージがなにもみいだせないときは欲求が満たされないので、神経は興奮しつづけ関心も持続し、やがて飽きると我々は絵のそばを離れるのです。ブクローとの議論で私がのべたのはこういうことでした。マレーヴィチだろうがライマンだろうが同じです。そういうふうにしかみるほかない。マレーヴィチの《黒い正方形》の解釈は好きなだけあるでしょうが、作品は一つの挑発でありつづけます。挑発されたあなたは対象を探し、なにかをみいだすでしょう。

(ゲルハルト・リヒター「写真論/絵画論」から)