特に3月はキツかった。学校も休みだし(あったとしても週に2回ぐらいなのだけど)、とにかく外出の必然がなかった。逆週休2日とでも言ってしまえるぐらいに、家にいることがほとんどで、その時間が余計に自分を蝕んでいく実感があった。忙しすぎても気が病んでしまうけど、暇すぎることも同様なんだなと。時間があるからたくさん本を読めたりできるとか思っていたけど、実際は滅入る一方で身体が思うように動かなかった。京都から大阪に戻ってきてというか、墜落してきてというか、そんな中でようやく学校と掛け持つバイトを探しはじめ、先日やっと決まった。髭タトゥー金髪OKのローカルカラオケ店。これが無事継続できれば、最低限のお金の心配もひと段落はつく。
ざっと書いたこれらの事には、他方である問題意識が根深く刺さっている。端的に言えばそこに将来設計的な見通しは何もないということだ。学校の講師業は非常勤だし、掛け持つ仕事も普通のアルバイトなわけだから。本来の自分なら、そうした状況ではいけない、そう考えていた。けれども今は、そこまでは断定的に考えてはいない。それが絶対にダメなわけではないと思いはじめてきている自分がいる。この感覚の変動は、自分の身の周りにいる人たちからの影響も大きいと思う。そしてこの点について考えることは、40代を手前にした今後を生きていく上で重要のことのように思う。
幾つかの著書を読んだり、展覧会等を訪ねたりしたことも、この感覚の変動の後押しになっている。その中で、直近で読んだ「暇と退屈の倫理学(國分功一郎氏著)」という本についての個人的な消化もまたここに書いてみたい。