成田舞さん個展「Home calling,’kiyakiya!’」

成田舞さん個展「Home calling,’kiyakiya!’」東京からの巡回展で写真と言葉の展示。写真は2つの壁面に分けて、すべて直張りで並べられてる。写ってるものは全体的に、視点の着地点があるようでない抽象的なイメージが多く、具象的な写真もあるけどそれすら不思議とどこか曖昧な印象をうける。言葉は、二枚の普通紙にそれぞれ綴られてる。一枚は今回の展示についての(作家自身による)ステートメントで、もう一枚はおよそ1000文字程度の物語。その二枚が赤い糸で一組に束ねられてる。

HPにも掲載されていた、ぼんやりあかりが灯った家を誰かがベロリと舐めてる写真はやっぱり気になる。家には、そこに住んでる自分はもちろん、無数にある自分の身の周りのもの、なにより一緒に暮らす家族を彷彿させられるけど、言うまでもなくとてもかけがえないそれを、得体の知れないとても大きな誰か(なにか)が、暗闇からぬっと現れ、大きな口をあけて、今にも唾液が滴りそうな舌で舐めてる光景に畏れを感じずにはいられない。ただ一方で妙な安堵感があることにも気付く。

もしそれが歯をむき出しにして大口を開けていたら、あまりにもハッキリとした結末を予想せざるを得なかった。しかし舐めるという行為の真意の不確かさが、不気味でありながらも、こちら側に思考をめぐらせる余地を与えてるようにも感じる。僕は舐められてる家がどこか飴玉のようにも見えてきて、もしかするとこの得たいの知れない誰かは、この家が持つあたたかさ(体温のような)に、なにかしら理由があって、少しだけそれを確かめたかっただけなのかもしれない、とか想像した。だから妙な安堵(穏やかさのような)も感じたのかもしれない。

写真全体を通して感じる、まるで意識が大きく弛緩したような浮遊感は、夜眠りにおちる間際、あるいは朝、夢と現実をまだ行ったり来たりしてる時のようでもある。触れた途端に消えてしまう、泡のように薄く半透明で繊細な非現実感は、実は観る側の誰しもに備わったイメージなのかもしれない。そこには常にやすらぎと不安が同居してる。

写真と言葉(物語のほう)はそれぞれ互いを支えあう、二つで一つの作品ですという空気をあからさまには感じないけど、例えば地中にあるひとつの種から(写真と言葉)それぞれは生えていて、ただ別々の場所から芽を出してるだけ、というような親近感がある。展示のタイトルでもある「きやきや」は、その二つ生えた芽の種につけられた名前のようにも思える。