2017.12.02

駅で電車を待っている人たちの多くの視線はスマートフォンに向いている。操作や鑑賞に夢中になっている様子を観ていると、まるで人々が(少なくともその意識は)スマートフォンに吸い込まれていっているように見えた。バイトでVRの体験案内をしていると、体験する人たちは、若い人ほどその仮想現実に意識を自然と委ねる傾向が伺える。たまたまバイト先で観た大手自動車製造工場の現場では、むしろ人が機械の補助をしているような風景があった。人工的につくられた、人間の知性によるそれらのものは、いまや僕らの生活に欠かせない。その”欠かせなさ”というのが、実は僕らに潜伏する菌的ななにかで、一見人間がそれを創り、発展させているように見えて、本当は宿主として利用されていて、欠かせなくなっている、というところまで、そのなにかは順調に増殖してきているんじゃないか。そんなことを想像した。

AIは人類という種の子孫で、やがて星を継ぐものになる、みたいな話がずっと頭に残っている。確かに将来脳や肉体に代わるなにかしらが実用的に生まれ、やがて人による操作からの自立もはじまりそう。それは人類の全知を標準装備しているから、それがなにに悩み、なにを思うかを想像できない領域も当然できてくる。犬や猫がなにを考えているのか僕らが完全には把握できないことと同様に。地球が寿命によって、あるいは隕石の衝突とかで消滅するような出来事が訪れた場合でも、肉体という制約の無いAIは生き延びられる可能性がおおいにある。だから人間に思いを託されて、例えばロケットでどこか遠く四方八方へ飛ばされると、着陸したどこかで繁栄を開始できるグループもありそう。それはまるで人類が想像する生命の起源の話に舞い戻るようでもある。

Ragnar Kjartansson「The Visitors」をみて

先日観に行った横浜トリエンナーレでいくつかの作品に強く感動したことをメモ。Ragnar Kjartanssonの「The Visitors」はミュージシャン一人ずつが違う部屋に別れ、無線のヘッドフォンを通して音のみを共有しながら、全員で一つの曲の演奏を試みる、その様子を映像でとらえたもの。展示室の入口は遮光カーテンで仕切られていて、入ってみると中はかなり暗く、またとても広い。100インチ超の大きなモニターが計9つ、十分な感覚で点在するように設置されている。1つのモニターに一人の演奏者がほぼ等身大で映されていて、少し離れたところからだと、その演奏者一人一人の様子が、暗闇にぽつりぽつりと浮かび上がっているように見渡せる。

会場の中心あたりに立っていると全体のハーモニーを感じられる一方、個々の映像の付近にそれぞれのスピーカーがおそらく設置されていて、ひとつの映像に近づくとその演奏音もよく聴こえるようになり、演奏者の動作や表情を詳細に観ることもできる。本来セッションは、ひとつひとつの音がミックスされた状態で鑑賞者に届く。しかしこのインスタレーション的空間の場合に、自分の足でそのひとつひとつへ任意に”近づく”事も出来る。

会場は、投影された映像以外に明かりは無い為、映像ひとつひとつに目を移していく時、その真っ暗という”間”が、個人と個人の間に横たわる深い隔たりのようでもあり、演奏者一人一人の孤独さをより強く感じさせるし、その個人から発せられるエネルギー的なものを適切に引き立てるフレームのようにも見えた。映像から伝わるリアルさは、演奏者が等身大に近い大きさで投影されていることも手伝っていたと感じる。

畠山直哉さんが言っていた、今回のトリエンナーレのテーマの一つである”接続性”とは、”孤立”があるからこそ成立するもの(「一人一人が地に足を着けて生活している、それが前提になって手をつなぎ合うということ。」と言っていた)という言葉や、先日このブログにも引用した言葉が何度も頭を過った。そして孤独というものがいかに孤独ではないか、を少しだけ理解できた気もした。

この作品を鑑賞している間、なぜだか涙がぼろぼろ出た。今回のトリエンナーレでは他にもいくつかの作品でうるうるしていた。The Visitorsを含めどこかメランコリックな成分に弱い自分を感じたし、「音」というエネルギーの鑑賞に慣れていなかったせいもあったかもしれない。ただそれらを差し引いても強い作品だった。人間も生きものであり、生きものそれぞれが持つ純粋なエネルギーの迫力、あるいは心地よさみたいなもの(例えば演奏者の、叫ぶように歌う様子はオオカミの咆哮、弦楽器を奏でる様子は鈴虫の鳴く姿とも重なった)の余韻がずっと残っている。そのエネルギーを”孤独”と呼べること、そしてそれが”調和”することに対しての感涙でもあったのかもしれない。

畠山直哉「話す写真」P77-78から

今日の僕の話は、あまり芸術家らしい話ではなかったかもしれません。でも、これが偽らざる「私の場合」の話なのです。今日は、僕がしゃべる「芸術」が、いわゆる「芸術」全体の、ほんの一部の、「私の場合」の芸術の話でしかない。そんなことを念願におきながら話そうと努めました。タイトルの「私の場合」とは、あくまで、この僕の場合であって、世界には、人間の数だけ「私の場合」がある、ということは、僕も承知しています。でも最後に一つだけ、あえて断定的な調子で、僕の芸術一般に対する考えを述べておきたいと思います。僕はこの「私の場合」というタイトルから、たとえば「私は私」といった、よく聞くフレーズを連想してもらいたくはないな、という風に思っていました。「私は私。」という言葉は、確かにいい響きを持っています。「私は私」と語る人がもしアーティストなら、「アーティストらしい台詞だ」と人から思われることでしょう。気分が落ち込んだ時に「私は私」と唱えれば、自分を元気にしてくれる効果もあるかもしれません。SMAPの『世界で一つだけの花』みたいなものです。なかなか立派な態度です。でもその反面、この言葉には、どこかになんとなく寂しさのようなものも同時に感じられませんか?「私は私」と言った途端に「私」の輪郭が決まってしまって、そのまま内側に閉じ込められるような、そんな寂しさです。「人それぞれ」という言葉もそうですね。何か大切なものを諦めたようで、その言葉を聞くと、僕はちょっと寂しくなってしまいます…。

僕は、この手の寂しさが嫌いなのです。僕にとって、芸術作品に接する楽しみとは、このような寂しさから脱出するために、いくつかの作品が示してくれている、その方法を味わう楽しみにほかなりません。そのような作品は、決して「私は私」とか「人それぞれ」という表情をしていないのです。むしろそんなことは忘れてしまって、もっと大きなものの方を向いて、それに驚いているような表情をしている。

だからたいがい、すぐれた芸術作品は孤独に見えます。しかしこの孤独は、「私は私」という言葉の持つ寂しさとは、まったく違う場所にある。つまり、それを作った芸術家自身が孤独であるかどうかという話題とは関係がないものなのです。

芸術作品は、世間的な意味でのコミュニケーションに基づいて生まれるものではありません。あらかじめ自分と同じような人間を想定して、そこにボールを投げるような、そんな種類のコミュニケーションに基づいて生まれるものでは、決してないのです。コミュニケーションを当然のものとすれば、それが不可能になった時には、当然寂しさがやってきます。それは「私は私」という言葉の持つ寂しさと同じ質のものです。

そうではなく、芸術作品とは、誰が聞いてくれるかはわからないけれど、とにかく大きな世界に向かって、自分の驚きや、心の底から大切だと思うことを、声にして呼びかける、そのようにして生まれるものです。この時に叫ぶ必要は、あまりありません。ただし、黙っていないで、声にする必要は絶対にあります。そうすると、他の無数の「私」からの呼びかけも、自然に聞こえるようになってきます。

呼びかけにはいつも問いが含まれています。「あなた」という呼びかけには、同時に「あなた(?)」という風に、必ず見えない疑問符、つまり問いがくっついているものです。どういうことでしょうか?呼びかけには、”返事が約束されていない”からですね。だからそれは、同時に問いかけでもあるのです。

すぐれた作品は、そのことを知っています。「返事があるかどうか分からない」、ということを知っている。これがすぐれた作品の持つ孤独の正体じゃないでしょうか。僕たちが作品に感動する瞬間というのは、「返事があるかどうか分からない」状態で、それでもなおその作品が呼びかけを止めようとしない。そして、その呼びかけが、なんと驚くべきことに確かにこの自分には届いていると思われる、まさにその瞬間なのじゃないでしょうか。これが世間の言う「コミュニケーション」とは、別の次元にある出来事であることは、お分かりかと思います。

繰り返しますが、呼びかけには、必ず問いかけが含まれます。つまり呼びかけと問いかけは、ひとつのものだと考えるべきです。芸術の世界に身を置く、ということは、人類の歴史上連綿と続く、このような絶えざる呼びかけと問いかけの渦巻く場に、身を置くことであると、僕は信じています。そして、そこには寂しさなどではなく、大きな意味での連帯と、それがもたらす喜びしか存在しないはずです。
(畠山直哉「話す写真」P77-78から)

朝永振一郎「鏡の中の物理学」から

(中略)…この量子力学の体系は非常に数学的なものであるが、それは、この種の奇妙なものの行動を律するのには必然的なことである。すなわち電子や光子のように、日常われわれがみたことのある、通常の粒子と非常に異ったものの行動を述べるには、われわれの日常的な言葉をもってすることはできないのは当然なことである。何故なら通常の言葉は日常的な考え方と密接に結びついているので、こういう日常的なものとは全く別種の奇妙なものの行動を記述するには、全く不適当だからである。言いかえれば日常的な考え方から全く自由な、より純粋な言語によらなければ、そういうものの記述はできない。こういう、全く自由で純粋な言語というのは、すなわち数学である。量子力学が数学的にならざるを得ない理由はここにある。
(朝永振一郎「鏡の中の物理学」から)

湯川秀樹 「宇宙と人間 7つのなぞ」から

ところで、兵卒の数をかぞえるという場合、兵卒のひとりひとりの個人としての人格、個性は無視されているということがあります。兵卒はみな同じものと見なされ、何人いるか、百人か千人かということが問題になっているわけです。敵は五百人しかおらぬのに、こっちは千人いるとか、五百人損害をうけてもまだ五百人いるということが問題であって、個人としての生き死にが問題ではない。そこに非人間化があるわけです。ここでは兵卒としてかぞえられる人間という共通の内容だけをとり出す。つまり抽象すると同時に、個々の人間がもっている特徴は捨てる。つまり捨象するという操作が行われているわけです。(中略)

ところで数をかぞえるというのは、牛なら牛、犬なら犬、それから人間の場合もあるでしょうし、ビスケットやコップでもよろしいわけです。数をかぞえるというだけなら、もはやそれが牛であろうと、ビスケットであろうと、コップであろうと、そんなことに関係なく、同じかぞえるという操作をしているわけです。それは同種というだけで、かぞえられているものの性質は忘れてしまってよろしい。そういう意味でのものすごい抽象化が行われていることでもあります。この場合、抽象化ということは、同時に普遍化にもなっている。つまり数というものは、個々の事物よりも抽象的であるがゆえに、どこにでも使えるようになるわけです。抽象化することによって一般化するといってもよい。とにかく似たようなものがいくつかあれば、それをかぞえることができるわけです。
(湯川秀樹 「宇宙と人間 7つのなぞ」から)