畠山直哉「話す写真」P77-78から

今日の僕の話は、あまり芸術家らしい話ではなかったかもしれません。でも、これが偽らざる「私の場合」の話なのです。今日は、僕がしゃべる「芸術」が、いわゆる「芸術」全体の、ほんの一部の、「私の場合」の芸術の話でしかない。そんなことを念願におきながら話そうと努めました。タイトルの「私の場合」とは、あくまで、この僕の場合であって、世界には、人間の数だけ「私の場合」がある、ということは、僕も承知しています。でも最後に一つだけ、あえて断定的な調子で、僕の芸術一般に対する考えを述べておきたいと思います。僕はこの「私の場合」というタイトルから、たとえば「私は私」といった、よく聞くフレーズを連想してもらいたくはないな、という風に思っていました。「私は私。」という言葉は、確かにいい響きを持っています。「私は私」と語る人がもしアーティストなら、「アーティストらしい台詞だ」と人から思われることでしょう。気分が落ち込んだ時に「私は私」と唱えれば、自分を元気にしてくれる効果もあるかもしれません。SMAPの『世界で一つだけの花』みたいなものです。なかなか立派な態度です。でもその反面、この言葉には、どこかになんとなく寂しさのようなものも同時に感じられませんか?「私は私」と言った途端に「私」の輪郭が決まってしまって、そのまま内側に閉じ込められるような、そんな寂しさです。「人それぞれ」という言葉もそうですね。何か大切なものを諦めたようで、その言葉を聞くと、僕はちょっと寂しくなってしまいます…。

僕は、この手の寂しさが嫌いなのです。僕にとって、芸術作品に接する楽しみとは、このような寂しさから脱出するために、いくつかの作品が示してくれている、その方法を味わう楽しみにほかなりません。そのような作品は、決して「私は私」とか「人それぞれ」という表情をしていないのです。むしろそんなことは忘れてしまって、もっと大きなものの方を向いて、それに驚いているような表情をしている。

だからたいがい、すぐれた芸術作品は孤独に見えます。しかしこの孤独は、「私は私」という言葉の持つ寂しさとは、まったく違う場所にある。つまり、それを作った芸術家自身が孤独であるかどうかという話題とは関係がないものなのです。

芸術作品は、世間的な意味でのコミュニケーションに基づいて生まれるものではありません。あらかじめ自分と同じような人間を想定して、そこにボールを投げるような、そんな種類のコミュニケーションに基づいて生まれるものでは、決してないのです。コミュニケーションを当然のものとすれば、それが不可能になった時には、当然寂しさがやってきます。それは「私は私」という言葉の持つ寂しさと同じ質のものです。

そうではなく、芸術作品とは、誰が聞いてくれるかはわからないけれど、とにかく大きな世界に向かって、自分の驚きや、心の底から大切だと思うことを、声にして呼びかける、そのようにして生まれるものです。この時に叫ぶ必要は、あまりありません。ただし、黙っていないで、声にする必要は絶対にあります。そうすると、他の無数の「私」からの呼びかけも、自然に聞こえるようになってきます。

呼びかけにはいつも問いが含まれています。「あなた」という呼びかけには、同時に「あなた(?)」という風に、必ず見えない疑問符、つまり問いがくっついているものです。どういうことでしょうか?呼びかけには、”返事が約束されていない”からですね。だからそれは、同時に問いかけでもあるのです。

すぐれた作品は、そのことを知っています。「返事があるかどうか分からない」、ということを知っている。これがすぐれた作品の持つ孤独の正体じゃないでしょうか。僕たちが作品に感動する瞬間というのは、「返事があるかどうか分からない」状態で、それでもなおその作品が呼びかけを止めようとしない。そして、その呼びかけが、なんと驚くべきことに確かにこの自分には届いていると思われる、まさにその瞬間なのじゃないでしょうか。これが世間の言う「コミュニケーション」とは、別の次元にある出来事であることは、お分かりかと思います。

繰り返しますが、呼びかけには、必ず問いかけが含まれます。つまり呼びかけと問いかけは、ひとつのものだと考えるべきです。芸術の世界に身を置く、ということは、人類の歴史上連綿と続く、このような絶えざる呼びかけと問いかけの渦巻く場に、身を置くことであると、僕は信じています。そして、そこには寂しさなどではなく、大きな意味での連帯と、それがもたらす喜びしか存在しないはずです。
(畠山直哉「話す写真」P77-78から)