Masashi Mihotani

Images are for illustration purposes

コンビニやスーパーマーケットに並ぶお菓子や日用品、そのパッケージに印刷されたイメージ写真を素材に、カラーの暗室で制作している。チョコレートの箱であったり、冷凍食品の袋といった類のものへ、写真のネガと同様に光を透過させる。物質を経由する光は、その材質や、折れ目やシワといった状態もイメージに変換し、また色は反転し定着される。もともとの文脈からも切り離されることで、本来容易に連想できたはずの具体的な情報はすでに無く、不可解な像だけが印画紙に残る。

光の性質の点から見れば、たとえばその反転した色彩は、物体に吸収されて私たちの目には届かなかった、いわば光の裏側であり、サーモグラフィーなどのように現実との物理的な接点を持つ光景とも言える。その意味で印画紙上のネガ像は、視覚媒質としての光を受け取るチャンネルが無数にあることの隠喩を写しているようでもある。被写体は、引き伸ばしやフレーミングの掛け合わせによって捉えられることで、それ自身を包括していた場や状況といった概念からも切断されている。その結果としての分からなさは、私達という主体の、その認識構造を逆説的に示しているようでもある。自然選択された生物の柄や形状、生態などがその環境自体を物語るように、大量生産される印刷物に潜在する不可解な像は、消費社会という名の自然を、たとえば網点の配列や、おいしそうな形といった表象によって映し出すいきもののようにも思える。

「※この写真はイメージです。」という文言が定型文としてあるように、私たちの社会環境のなかにある写真の多くは、常に何かしらのイメージへ強く結びつくものとして利用され、人々の目に消費され続けている。一方で、化学としてのその起源は物理的な痕跡にある。そしてその結果から、私たちは様々なことを感知してきた。その意味でこれらの像は、「イメージとして消費される写真」自体が写された写真、としての側面を含む。それはテクノロジーの進化と共に拡張する写真の概念の、その現代の異相としてのインデックスを持つものでもある。

写真を続ける理由に、こどもだった頃の虫取りの記憶はよく心当たる。身近に存在する不可思議なそれらを体験的に、また他者との共有も通して多角的に認識していく一連が似ているし、なにより暗室で出会うこれらのイメージに、まるで生まれてはじめて見た虫のように惹きつけられる感覚がある。そうした当時の記憶は一枚の版のようなものとして、自分の目に映る日常の風景を今も見続けている。

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