Masashi Mihotani

写真素描 / Photo Drawing (camera lucida)

もともと「写真」という言葉は、日本にそれが技術として輸入されたとされる1848年頃より以前から存在していた。「写」に続く「真」とは「すがた」を意味し、つまりは肖像画ということだったらしい。写真の前史へと遡る時、そこから連綿と続く絵画史は、私たち人間がなにをどんな風に「見て」きたのか、その語り部のようでもある。光景は一元的ではなく、カメラは少なくともその一種にすぎない。

タルボット氏はかつて自身の画力を嘆き、またそのコンプレックスがネガポジ法発明の一助でもあったと聞いた。けど、そんな彼による絵をみた時、僕は「なんか良い絵だな」と感じた。簡素な線の押し付けがましくなさ、とかだろうか。他方、お陰様で写真を撮ることは日常になり、レンズから生成へと時代も進み、氾濫を極めるイメージの環境に人々の眼と脳は従属を続けていく。

タルボット氏のその素描には、カメラルシダという描画機器が使われていたらしい。その道具を入手した自分は、日常的に何気なくみているyoutubeやリールといった映像の素描を日課とすることにした。選別はせず、ただ自身の視聴履歴として描いている。幾多のコンテンツが再生される液晶画面上の映像も、現代の社会的風景の一つだと捉えている。アルゴリズムによって脈略立てられ、彩られた光景は、資本主義の末期的な様相のようでもある。

もとは写真の起源とも言える絵を通して、逆に写真をみている感覚も気になっている。この描画器具の黎明期に、こうした実感は存在もしなかっただろう。