Masashi Mihotani

PICTURE/FOCUSに寄せて


2020年の秋、僕は城下浩伺さんと奈良県立図書館にいた。FOCUSというシリーズを制作していた当時の僕達は、撮影したその作品データを出力する為に、ラボ設備のあるオーサリングルームで準備を進めていたのだった。印刷するための最終調整をPhotoshop上で済ませ、データの送信を完了させると、大判プリンターの低い作動音が部屋中を包み込みはじめる。しばらくして、その大きな出力機の内部で等間隔に行き来し始めるプリントヘッドから吐出される顔料インクが、紙面へ像を編んでいく。やがてその全体が定着されたA2のファインアートペーパーが出てくる。それをはじめに手にとった時、僕はこんな「写真」初めて見たと思った。そしてすぐさま、これが「絵画」であるということを思い直した。



城下浩伺という人の、僕にとっての第一印象は「虫」だった。Facebookのメッセンジャーを遡ると、ハナムグリについて話す場面が、もう10年近く前、はじめて会った頃のログに残されている。僕は自身の制作に関して、虫取りという行為を当時から比喩に用いていた。そして浩伺さんの絵画は、新種のそれを見つけたような感覚を僕にもたらす。だから話題もそこからはじまっていたんだろうか。


現在も継続されているその無題のシリーズ<Completely Untitled>は、Gペンもしくは筆で描かれているという。特異で、時に緻密なその画面を構築するのは、小さな線や染みといった痕跡の反復である。気が遠くなるほどの繰り返しによって出来上がる全体に、計画性はおそらくない。ケント紙の表面に触れた筆先から黒い粒子たちがつたわり、紙の繊維へと染み込んでいく。そうして生まれる一つの徴(しるし)を起点にするようにして、また別の場所に新たな徴が生まれる。その過程には、無意識の領域での幾多の判断が内包されているのだろう。都度その結果は脳から指先の神経へと伝えられ、一つまた一つとあらたな痕跡が生みだされていく。そうした直感の連鎖としての全体像は、先の虫の話に引きつけて捉える事もできるかもしれない。100万は超えると言われるその種全体の俯瞰図にも、個々の種自体にも、設計者というものは存在せず、そこではただ当て所ない更新だけが続いているという点で。


PICTUREというシリーズを構想しているという連絡をもらったのは、2020年に入りしばらく経った頃だったと思う。「無題のシリーズを描き続ける中で、その経過を留めたくなる時がある。写真でならそれを実現できるかもしれない。」そうこうして、浩伺さんの絵画にカメラを通して向き合う日々がはじまる。


墨汁と筆によって描き上げられた直後のその絵は、まだ水分が紙面上を表面張力していて、少しでも振動を加えればその全体が流れ動いてしまいそうな状態である。蛍光灯の無機質な光に黒々と浮かび上がるその画面を、写真で留めていく。


のちにこのシリーズはウェブ上で発表される事になるのだけど、背景には言うまでもなく、現在まで続いている歴史的なパンデミックがある。日本でも最初の緊急事態宣言が発令されていた当時、感染者数は日々増加し、外出自粛のムードも高まる中で、人々は一層液晶画面と共に過ごす時間を持つようになる。美術界隈においては、オンラインエキシビジョンが自然の流れのように隆盛へ向かおうとしていた頃だ。勿論、元々確定していたPICTUREの展示会期は、単に開催自体を延期することもできた。その中で、ウェブ上で発表を行うという、当初は予期していなかった選択肢が受け入れられたのだった。


この決断の中に、今回の制作の背景にもある、浩伺さんにとっての「絵画の本質がなんであるのか」の一端を見出すことができるだろう。



液晶画面という、その発光する平面が持つリアリティは、現代の私たちの日常に深く浸透していて、それは作家にとっても例外では無い。画面に表示される映像と、実物として目の前にある写真/絵画。この両者はメディウムとしては異なる一方、網膜に受理されると、続いて視神経へ流れていく過程で同じ電気信号へ変換されるという*1。この時に、それを見たということ、例えばそれが反射光による像だったのか、それともそれ自体が発光している像だったのか、といった区別も統合的に知覚される側面がある。そうして頭の中に生まれる映像的な記憶の場のことを、ここでは<イメージ>*2と呼ぶ。そしてこの<イメージ>は、一方で今作の描き手の感覚的源泉でもあり、動力とも言えるもの。とすれば、絵画の本質に意識を向ける姿勢において、液晶画面という新規のメディウムと関わる機会に目をそらす理由はなかっただろう。


またこのことは、絵画の本質をメディウムに即しては捉えない態度であるとも言い換えられる。今作をあらためて見てみると、それはカメラで撮影されたデジタルデータを、顔料インク搭載のプリンターで、インクジェットプリントに最適化された写真用紙に印刷したものだ。これがなんというメディウムかと聞かれたら、誰もが写真であると答えるだろう。一方で、これを作品として実体化させる、その火種となったのは、浩伺さん自身にあった<イメージ>であり、それは絵を描くという行為を続けている、自身のアイデンティティに依拠している。



同じ背景を持つFOCUSというシリーズは、PICTUREの発表後しばらくして着手される事になるのだけど、この作品は先に述べた液晶画面への意識も地続きになっている。そうしたことを思わせるエピソードに、通信速度制限の話がある。要は、ネットのやりすぎでインスタグラムのタイムラインがなかなか読み込まれず、ぼやけた画像がずっと表示されるというあれだ。他にも、Netflixで見る映画のワンシーン、何気なくスマホで撮られた一枚、そうした画像の背景の一部分であったりもする。シリーズ全体のモチーフとなっているものは、そうした液晶画面上の像なのである。


ある種それは現代の社会的風景とも呼ぶことができる。この言葉は、ロバート・フランク以降、日常への私的な眼差しを取り上げた1966年開催の展覧会名*3 から、個人的に彷彿させられているものだ。そこから50年以上の月日が流れ、社会風景はまた大きく変容している訳だけど、その象徴の一つに無数の基地局があり、そこから地球を包み込む電磁波の存在がある。その不可視の波を映像へとデコードするスマートフォンは、今年の時点で世界人口の70%に所持されると、少し前に言われていたそうだ*4。2014年の時点で、それはまだ40%程に留まっていたという事実を思うと、その伸びの勢いは凄まじい。今の未曾有の社会状況も考慮に入れれば、実際のその値はさらに伸びていてもおかしくないだろう。世界で撮影された写真の年間総数は、2020年の時点ですでに1兆を超えていたという*5 。正確な数値をここで掘り下げていく余裕は無いけど、これはおおまかに言って、この世に写真が誕生してからのおよそ30年分の撮影枚数の合計が、現在はたった2分くらいで撮られているということだ。


その膨大なデジタルイメージの地平に、画家である浩伺さんのカメラロールも含まれている。そしてそこから選ばれた画像を基に、ぼやけた絵は描かれていく。「これをさらにぼかして撮って欲しい」というのが作家の意向だ。無個性な50mmの単焦点レンズを絵画に対して真俯瞰にセットし、ピントリングを少し回してはシャッターを切るということを繰り返す。そうして撮影した複数のパターンを浩伺さんに渡し、最終的なセレクトがそこで決定されていく。


なぜカメラでぼかすのか?という質問は、既に作家のSNS上で回答されている。そして僕はその内容を一種の「現像」過程とも言える気がしている。この制作において写真は、目的としては予め脳裏に存在する潜像を表出させる為でありながら、そのプロセス自体は当事者の身体・意図を離れたところで作用する、ある種のブラックボックスとして機能していると思えるからだ。


そうした写真の原理としての光学は、中世には実用的な普及もはじまっていたとされるカメラオブスキュラによる産物である。旧石器時代にその起源が見られる絵画の歴史は、この登場によって新たな局面を迎え、現在に至るまで絶対的な規律の一つとなっている。


そうなった背景には、視覚を生じさせる構造の共通性が数えられるだろう。木洩れ陽に映る太陽の姿をみとったアリストテレスの時代に芽吹いたとも言われる遠近法の視座は、視覚メディアのパラダイムとして迎え入れられると、テクノロジーの発展とも並走するように社会へ深く展開していく。これがもしフォトグラム*6などのような二次元の像であったなら、実生活と即さない点で、これほど浸透することは無かっただろう。


では、そこに見るブラックボックスとしての機能とはどういうことか。その主たる由来は、肉眼との根本的な構造の違いについての話になる。


私たちがこの眼で直接見ている視界は、イメージセンサーや写真感材のような、光による物理的な発現とは異なる、ということに今一度注意したい。こうしたことに関しては様々なエピソードが例に挙げられるけど、総じて「脳の補正機能」に由来すると言えるかもしれない。例えば、網膜を通して光を受け取る視神経は、撮像素子で言うところのピクセルに相当する。そしてその数は片目あたりおよそ100万本だと言われているけど、画素数に置き換えれば、これは20年前のガラケーに付いているカメラのスペックだ。にも関わらず私たちの視界はカクカクでは無い。こういった、いわゆる欠けた情報を補う機能は「動き」についても同様で、パラパラ漫画などのアニメーションを想像するとわかりやすいかもしれない*7。


加えて言えば、視神経を経て第一次視覚野に辿り着く情報は、直様その先にある四つの視覚野、また二つの回路を通過していくことなどを経て、今みたその映像に形象や彩り、空間性や意味が重ねられていくのだという。つまり、私たちが普段当たり前のように(この文章を読んでいる今も)見ている視界は、単なる網膜上の出来事ではない。頭の中のその複雑な構造によって、水晶体越しの光景が、自分という主体と接続されている。無論、主体がそこで何をいかに感取するかは一人一人また異なる。


対して写真はそうした知覚構造の一切を捨象し、光学的現実としての風景を映し出す。暗箱とは文字通りに、そうして写真化された風景によって、肉眼(という脳の補正機能という制約)では見ることができなかった、幾多の事象が画像として外部化される。ここで言う「現像」の一端はこの点にある。



こうしたプロセスによって発生する、作者と作品との特有の距離こそ、無題のシリーズを派生させ、同時にPICTUREとFOCUSに通底する要素という事になる。直接描いた人/描かれたものというダイレクトな関係のあいだに、その要素が挿入されることで、二つが引き離される。しかし、その関係が引き千切られることはない。少なくとも、すでに作品として発表されているものたちがそうだ。仮に千切れ落ちてしまったものを、描き手は自身の絵とは捉えないだろう。だから、点と点を結ぶその接続の維持のことを、作者がそれを自身の作品とみなす所以だと言い換えることもできる。


絵画の境界(そう言うとやはり僕には大層な言葉に感じてしまうが)という遠いところへ向けて、描き手がその絵を伸ばし放つ様が、あるいは凧揚げをしている光景にも思えた。遠くから見ると、もはやほぼ見えないくらいな細い糸を、しかし描き手は握りしめ、その視線の先の空を背景にはためく化体を見つめる。この一連の行為の源泉としての<イメージ>は、その揚力ともなっていることだろう。糸の先で空をなぞるように、作家はその本質の感触を確かめている。


こんな「写真」初めて見た。と僕が感じたのは、一枚に定着されていた像が、そうした営為でもあったからなのだと今は思う。同時に、僕自身もその行いの中に居たことが「絵画」を通して見えてくる。





*1 *7 「進化しすぎた脳 中高生と語る[大脳生理学]の最前線」池谷裕二 著・講談社


*2 ここで言う<イメージ>は、中川邦昭著「映像の起源 -目の思索〈写真鏡〉-カメラ・オブスキュラ- が果たした役割」(美術出版社)に倣っている。著者は「映像」という言葉の意味をイメージ、リフレクション、ピクチュアの三つに分類する。その中で<イメージ>は、「人間の頭の中で想像する主観的または主体的な像を指し、対象は現実に存在するものや架空のものである」とし、光学的な装置によって客観的に映し出される像<リフレクション>、また連続的に動く画像<ピクチュア>と区別した。


*3 アメリカのジョージ・イーストマン・ハウス国際美術館で、キュレーターのネイサン・ライアンズにより企画された写真展。3回に渡りシリーズ開催され、ここではその第一回に開催された「Toward a Social Landscape(社会的風景に向かって)」を指している。写真家のロバート・フランクはそれより前の1958年に「The Americans」という写真集を出版するが、これが現在まで写真史の大きな指標に数えられている理由の一端には、前述した展覧会へも通ずる、写真家の私的な眼差しがあった。


*4 「インスタグラムと現代視覚文化論 レフ・マノヴィッチのカルチュラル・アナリティクスをめぐって」レフ・マノヴィッチ著 久保田晃弘・きりとりめでる編・訳 ・ ビー・エヌ・エヌ新社


*5 How Many Photos Will Be Taken in 2021?


*6 写真技法の一つで、カメラを用いないことが大きな特徴。感光性を持った写真印画紙の上に直接物を置き、そこへ光を当てることで物の影を像として定着させたものを一般にそう呼ぶ。古くは、イギリスの写真家、科学者、数学者のウィリアム・フォックス・ヘンリー・トルボット(1800-1877)が1835-39年に実践した植物標本のフォトグラム(氏はそれをフォトジェニック・ドローイングと呼んでいた)が知られている。







Reflections on Picture-Focus / translated by Yuki Matsushima


The fall of 2020, I was at the Nara Prefectural Library and Information Center with Mr. Koji Shiroshita. We had been working on a series of works called “Focus”, and to print the photograph data of the works, we were in the authoring room which has lab facilities. Once the final adjustment on Photoshop is done and the data is sent, the low hum of the large format printer starts to fill the room. After a while, the printhead begins to come and go at equal intervals in the large machine, and the pigment inks ejected from it form an image on the paper. Then, the A2 fine art paper with the whole image fixed on it comes out. When I took that in my hand, I thought “I had never seen that kind of photo before”. Right away, I remembered that it was a painting.



The first, and lasting, impression of Koji Shiroshita has caused me to associate him with insects. Scrolling back through Facebook Messenger, the scene where we were talking about flower beetles still remains there, a part of the conversation from when we first met almost 10 years ago. I’d been already using the phrase “catching insects” to figuratively describe my creation, and Koji’s pictures make me feel like I’ve found a new species. I wonder that’s why we started our conversation from that.


His continuing series of untitled works, “Completely Untitled” are drawn either with G-pen or brush. The unique, sometimes elaborate picture is constructed with repeated traces such as short lines or blots. The work on the whole is completed with mind-boggling repetition and there’s, probably, no plan behind it. The tip of the brush touches the surface of the Kent paper, through which black particles fall and soak into the paper fibers. A mark is born, just like that and as though that mark is a starting point, a new mark is born in another place. I believe that process should entail numerous unconscious judgements. Every time the result is communicated from his brain to the nerves in his fingertips, new traces are born one after another. The whole picture as a chain of his intuition can be perceived in relation to the story of insects I mentioned above – in that there is no designer for the overview of an entire genus with over a million of species nor for each species, but there are just continuing aimless renewals.


I recall that it was early 2020 when he contacted and told me about his idea for the “Picture” series. He said, “While I keep drawing the untitled series, there’re some moments that I want to stop the process and preserve. Photograph might be able to realize that.” One thing led to another and the days of confronting Koji’s paintings through a camera started.


The painting using India ink and brushes is right after it’s finished, and I can still see the surface tension of the water on the paper so much that the entire work would flow and move with just a little shake. I keep those pictures gleaming black under the cold fluorescent light in a photo one by one.


Later, this series was released online, and the story behind, of course, includes the historic pandemic which continues still today. At that time Japan was under its first “state of emergency declaration”, and the number of infected people was growing every day, which encouraged people to stay at home and spend more time in front of screens. Around the art industry, online exhibitions were starting to gain popularity as if that was the natural flow. Of course, he could simply postpone the “Picture” exhibition as the exhibition itself was definite, but the idea of publishing them online, which wasn’t even an option at the beginning, was chosen.


In this decision, we can see part of “what is actually a picture” to Koji, which underlies in this project.



The reality that the LCDs, the luminous plane, have has permeated deeply into our modern daily lives, and artists are no exception to this as well. The image displayed on a screen and the real photographs in front of our eyes – while those two are different mediums, it’s said once they’re received on the retina, they are converted into the same electric signals when they go through the optic nerves*1. At the same time, how we saw it – whether it was an image created by reflected light or what we saw itself radiated the light – is comprehensively perceived. Here, I call the image memory in our brain as “image”, and this “image” is the sensory source of inspiration and the power of the artist in this project. Given that, there would have been no reason for him to look away from the chance to involve himself with LCDs as a new medium, considering his attention towards the essence of picture.


We can also say that this attitude shows that he doesn’t see the essence of picture in line with mediums. When we see his work for this project again, they are a digital data shot by a camera, which is printed onto photo paper optimized for inkjet printing using a printer with pigment inks. Everyone would say that it’s a photograph if they’re asked what medium it is. Meanwhile, it’s the “image” inside Koji that motivated him to realize it as an artwork, which is relying on his identity that is to keep the act of drawing.



The “Focus” series, which started a little after “Picture” was released, shares the same background and the above-mentioned idea on LCDs. His episode with the “limited communication speed” reminds me of that. It’s about those blurry images on Instagram that your smartphone keeps showing when you have used the Internet too much, because it takes time to load the timeline. Images behind the motifs also include part of the background in an image such as a scene from a movie on Netflix or a picture casually taken with a smartphone. The motifs throughout the series are those imageries on the LCDs.


In a sense, we can call it the social landscape of modern life. I’m personally reminded of the word from the name of an exhibition held in 1966 featuring the personal look on everyday life which can be seen after Robert Frank’s contributions. *3 It’s been more than 50 years since then, and the social landscape has drastically changed; one of its symbols now is the numerous base stations and the electromagnetic waves from them that surround the Earth. Smartphones decodes the invisible waves into images, and a little while ago, it was said that 70% of the world’s population would have one by this year. *4 Considering the fact that it was still 40% in 2014, the surge after that is drastic. If we further take into account this unprecedented social situation, there’s no surprise if the number has grown larger since. A survey shows the total number of pictures taken in the world in a year was over a trillion in 2020. *5 I won’t get into an accurate number here, but broadly speaking, it means the total amount of pictures that were taken for 30 years after the birth of photography are now taken within two minutes or so.


The artist, Koji Shiroshita’s camera roll is also included in the realm of this enormous digital image. Based on an image chosen from that, a blurry painting is created. “I want you to shoot it blurrier.” That’s the artist’s wish. I set a regular 50mm single focus lens at a bird’s-eye view of the painting, and repeatedly turn the focus ring a little and release the shutter. I give those multiple patterns of shot to Koji, then he makes a final selection.


He has already answered the question on his social media about why it is blurred by the camera, and it feels to me that what he says is a kind of “developing” process. Because, in this project, it seems that the photo functions as sort of a black box: although its purpose is expressing a latent image existing in his brain, the process itself is performed away from his body and will.


The optics, as we see them, of the principle of photography is a product of “camera obscura”, whose practical use is said to have already started in the Middle Ages. The emergence of the optics marked a new phase in the history of painting whose origin can be seen in the Old Stone Age, and it has been a consistent discipline to the present day.


Some commonalities with the system of our visual perceptions can be seen in the background. The perspective, which is said to have appeared in the era of Aristotle, who saw the shape of the Sun reflected in the light filtering through the trees, was welcomed as a paradigm of visual media and deeply developed into society running side by side with the development of technologies. If it had been a two-dimensional image such as photogram*6, it wouldn’t have permeated this well as it doesn’t fit in the real life.


Then, how do we see the “function as a black box” there? The main reason comes from the fundamental difference from the structure of our eyes.


Now we’d like to pay attention again to the fact that the vision that we see with our eyes is different from the physical appearance by light such as the image sensors or photosensitive materials. Although various episodes can be raised as examples for that, generally we could say that it is resulting from our “brain’s correction function”. For example, the optic nerves which receive lights through the retina corresponds to the pixels of an imaging device. The number is said to be about a million nerves per eye, and that’s the spec of a camera that was installed in a cell phone 20 years ago. Nonetheless, our vision is not angular. This kind of function which makes up for the lost information works the same as when see something in motion; imagining an animation of a flip book might help you understand that. *7


In addition, the information that got to the primary visual area through the optic nerves soon goes through the four visual areas and two circuits which layers forms, colors, spatiality, and meanings onto the image we saw. That is, the vision we usually, and right now while reading this text, see naturally is not merely what occurs on the retina. The scenery through the crystal lens is connected with the main body i.e., ourselves by the complex structure in the head. Of course, what the main body feels and receives is different depending on each person.


On the other hand, a picture cuts off all those perceptual structures and shows the landscape as optical reality. The dark box externalizes numerous things we couldn’t see with our bare eyes (which cause the limitation by brain’s correction function) as an image on the photographed landscape. The reason I saw the “developing process” in his answer has come from this.



The unique distance between the artist and his works these processes create has derived the untitled series, and at the same time, it’s also the underlying element which runs through both “Picture” and “Focus”. By the element being inserted between the picture and the person who painted it, those two are drawn apart. However, that relationship is never torn apart. At least, for those works that have already been published. A painter will not regard what has been torn and fallen from them as their picture. Therefore, in other words, the act of maintaining that connection between those dots is the reason why they regard that work is their work.


I saw the artist reach his arm out and release his picture to the boundary of picture (although this still sounds like a big word to me) faraway, which seemed like he was flying a kite. The string is so thin that it’s almost invisible from far away, but the artist is holding it tightly and gazing at the embodiment flapping in the sky across his view. The “image” that is the source of this series of acts must have lifting power. He is getting the feel of the essence, just like tracing the sky with the string.


Now I think the reason why I felt I had never seen a “picture” like that is that the image fixed there was also that series of acts. At the same time, I start to see that I, too, was in that series acts through the “picture”.





*1*7 Iketani, Yuji. Our over-evolved brain: A Talk about the frontline of cerebrophysiology with teenagers. Kodansha.


*2 The “image” here follows “The origin of image: Eyes in speculation: The role “camera obscura” has played” written by Kuniaki Nakagawa (Bijutsu Shuppan-Sha). The author categorizes the meanings of “image” into “image”, “reflection” and “picture”. Among them, “image” is described as a “subjective image imagined in a human brain, which can be something existing in reality or imaginary”, and differentiated from an image objectively projected by an optical device (“reflection”) and an image that sequentially moves (“picture”).


*3 A photo exhibition curated by Nathan Lyons held at the George Eastman House in Rochester, New York, USA. It was three consecutive shows, and here it refers to the first show, “Toward a Social Landscape”. The photographer Robert Frank had published a photographic book “The Americans” before that in 1958, and part of the reason that this book has been marked as a notable in the history of photography is the photographer’s personal look, which is also seen in the exhibition mentioned above.


*4 Manovich, Lev. Instagram and contemporary visual culture: on Lev Manovich’s cultural analytics. Translated and edited by Akihiro Kubota, Kiritori-mederu. BNN


*5 How Many Photos Will Be Taken in 2021?


*6 One of the photographic techniques. The biggest feature is that it doesn’t use a camera. Generally, they are created by putting an object directly on photo-sensitive printing paper and casting a light to fix the shadow of the object. It traces back to William Fox Henry Talbot (a British photographer, scientist and mathematician), (1800-1877), who created photograms of plants (1835-39, he called them photogenic drawings).




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