山谷に滞在した時のこと

自分が山谷地区で過ごした二週間のことを書いておきたい。再来さんやという芸術祭のAIRに採択してもらえた為、現地へ向けて昼行バスで大阪から出発したのは8/21(火)の午前。6月に東京へ行った時と同様、三列シートの窓際の席を選ぶ。前回から少し書いている他者視線による酩酊(?)は回復したという実感こそ無いものの、前よりは幾分マシなようにも思いつつ、外を眺めたり、眠ったりしながらおよそ9時間を過ごしていた。

ただこの時点では山谷についてあまり下調べができてなかった。東川から2週間後のタイミングだったけど、色々溜めていた事に加えてスケジュールの都合上、山谷へ行くまでに実家への引越しを済ませる必要があって、結局ドタバタと自室へ詰め込んだ荷物の山を背に慌てて出てきたという始末だった。

山谷は「ドヤ街」であると聞いていた。しかしそれに対する僕の認識といえば、なんとなく言葉のイメージから「ドヤドヤガヤガヤした街」=なんか騒がしい場所なのかな、程度だった。少し調べれば「ドヤ」とは「宿」のことで、それが集まっているから「街」と呼ばれるようになったとわかる。ドヤ街は今も日本各地にあり、主に1960年代にでき始めたようなのだけど、山谷においてはもともと江戸時代より旅人の行き交う土地であり、木賃宿(木=調理の為の薪代ほどの価格で泊まれる宿。江戸時代において最下層の旅籠とある)の多い場所であったという歴史的背景も、無関係ではなさそう。時代は昭和に入ると、のち戦後の高度経済成長期からバブル期にかけて急速な都市建設が進み、人手は常必要とされた。戦後の様々な体制転換(第一次産業の改革や朝鮮特需など?)が同時に、多くの失業者を生み出していた背景もあり、全国各地から出稼ぎの労働者たちが都市圏へ集まってくるようになる。とはいえ企業側も先行きは不透明であり、その点で臨時的な雇用、つまり日雇いは都合がよかった。ドヤはそうした環境下で軒を並べ始め、労働者たちの寝床として利用される場となっていく。

「ドヤドヤガヤガヤ」という感覚的な認識は、だから意味的には間違ってるんだけど、当時の現場の空気を想像すると、あながち外れてはいない気もしてくる。実際、ドヤ街での暴動事件や抗議デモといった情報もググると出てくる。また後述する「寄せ場」の雰囲気のこともある。ただ、だから治安が悪い、と単に一言で片づけるのには違和感がある。というか、そもそも「治安が悪い」とはどういうことか?話は少し飛躍するが、山谷に集まってくるひとたちは、そろって過去を語りたがらないと言うし、だから聞くこともタブーらしい。その理由は、前述した山谷に来る必要に駆られた人たちの社会的背景も踏まえれば、なんとなくわかる気もする。暴動と聞くと集団の連帯を想起するけど、つまりは今書いたように、山谷の人々は安易に群れるような人たちでもなさそうだということ。山谷滞在12日目ごろの話にはなるけど、現地の泪橋ホールという映画喫茶に「山谷 ヤマの男」という本が置かれていて直感的に購入した。その場所の店主であり写真家の多田裕美子さんによるものだった。当著からの一文を引用する。

“…昭和の高度経済成長期に地方から出稼ぎできて、いつの間にか故郷に帰らなくなった人、結婚して家族がいる人もいたが、いろんな理由で、ひとりで生きている人がほとんどだった。そして日雇いの仕事が終われば、現場が都心でも途中下車することなく、まっすぐ山谷の町に戻ってくる。自分と同じひとりがいるこの街にだ。それぞれ境遇はちがえど、ここでは誰もがひとり、だからけんかはあっても、自分以外の他人にやさしい、やさしすぎるのは他人も同じ自分だから。 でも許せないことがあれば、ささいなことでも暴力的になり暴動がおこる。何も守るものが無く、身一つの人生なので、火がついたら激しいのだ。 山谷という街は、優しさと怒りが極端に強い街、自分と同じひとりがいる街、愚痴を言わず、過去を語らず、ひたすら酒を呑む男たち、滑稽なくらい最後まで、自分と生きた男たちがいた街。…”

こうしたことから、住人同士の喧嘩はあっても、それ自体が大きな問題に発展することも多くは無いようだった。ただ、相手が警察や暴力団といった集団となった場合、ひとり対ひとりという構図ではなくなる点もあって、過激化しやすくなる。それは自分と同じ「ひとり」の為でもあるのだろうし、個人個人がそれぞれに社会に対して抱えていた憤りも火種としてあったのではないかと想像したりもする。そうした背景を見越して影で糸を引く存在だっていたかもしれない。無論、「山谷-やられたらやりかえせ」にもあるようにヤクザ関連の闘争は事実としてあるようだった(映画自体はまだ観れてないけど…)。いずれにしてもメディアは、その結果としての暴動という過激なシーンのみを切り取って焚き付ける側面が強い。だから物騒な印象が必要以上に植え付けられているかもしれないことには注意したい。

暴動は、人と社会との軋轢とも言える。そしてそれは現代も様々な形で、至る所に存在している。ただ、山谷のように(当時も今も)堂々と表面化しているケースには、個人的にとても「人間くささ」を感じる。これは僕的に良い意味で言ってて、例えるなら小中学生的というか、なんというかこう、人間としてのピュアさを濃いめに感じる。自分は当時の山谷の空気を知らない。勝手に美化した呑気な事を言ってるとも思う。ただこの今、現地で言葉を交わした何人かの、おそらくここでの生活を続けているおじさん達との時間の余韻には、なぜか心地良い気分が含まれている。この感じは何なんだというのがずっと頭に張り付いてて、それがここで言う「人間くささ」から来てるんじゃないかと考えている。

山谷に着いてから、何人かのおじさんと言葉を交わす場面があった。それは例えば、ホテルに到着した翌朝、トイレに行こうと自室を出た時。すぐ左にあった洗面所の地べたにあぐらをかきぜえぜえ言っている清掃のおじさんがいた。「大丈夫すか?」と声を掛け、おじさんは「大丈夫」と、ちょっと疲れたから休んでるだけという様子だった。ただそれだけのやりとりだった。けどその時に自分の心のなかで「あぁ」という感嘆の声が漏れる感じがした。

そもそも僕は普段から声がかなり小さいし、どもりもある。ただこの時は言葉が相手へまっすぐ届くべく、自然に発声されていた。変な言い方に聞こえるかもしれないけど、それは僕の中では比較的稀な現象だった。例えば高級ホテルでそんな場面には出会わない。制服や所作、言葉遣いといったマナーが複層的な壁となって「人間くささ」は香ってこないだろう。そういった無菌質な空間には、僕自身変な警戒心すら抱いている。ただこのやりとりの際にそんな空気は一切なかった。だから緊張もなく「発声」されたということなのかもしれない。

その日の夜、夕飯にと入った中華料理屋では、「うまい、うまい」と言いながら一人定食をかき込み続けるおじさんがいた。「うまい。うまい。すみませんティッシュ下さい。お水ください。ああ、うまい。」広い店内の隅の席なのに、その声は悠に全体へ行き渡るほどでかい。お会計の時もその感じだったけど、店員さんは中華系の方のようで、日本語でのやりとりは流暢じゃなさそうなこともあり、会話が特に弾んでいたわけでもなかった。けどそれはおかまいなく、「うまかった、ありがとう」とおじさんは店を出て行く。声量なりの恰幅をした、短髪黒Tシャツハーフパンツの後ろ姿を見ながらまた僕は「あぁ」となった。その帰りしな寄ったスーパーでは、入ってすぐの生鮮コーナーを抜けたあたりで、後ろから走ってきたおじさんが僕を横切るところで派手に転んだ。おじさんは慌てて起き上がり、あたりに散らばった商品をあせあせと戻しはじめる。手伝おうと思って周辺に見落としが無いか少し見回すと、3個セットの豆腐が一つ落ちていた。豆腐コーナーは周囲に見当たらなかったから「これおっちゃんのとちゃいますか?」と僕はまた「発声」した。僕が手に持った豆腐を見たおじさんは「いや違う」と言う。その時のおじさんの両目は何だか不安に揺れているようにも見えた。もう少しよく周りを見てみると、2mぐらい手前に豆腐コーナーはあった。確かにそこそこ派手に転んでいたから、このあたりから陳列物に影響があっても不思議じゃないかと、豆腐をそこに戻した。一通り片付け終えたおじさんはそのまま慌てた様子で揚げ物のコーナーへ向かっていった。豆腐を戻した僕はそのまま納豆を買おうか少し悩み、おじさんの後に続く進路へ進む。するとその先の揚げ物コーナーの方から僕の方へ「すいませんでした」というようなことをおじさんが言った。距離的には5, 6mくらいあった割にその声は小さく、しかしその眼差しはまっすぐに僕と合っている。瞳の様子はさっきと変わらないので、もともとそういう人なのかもしれない。僕はいえいえの意で片手を挙げ頭を軽く下げた。そしてまた「あぁ」となっていた。

そういえば今年の春ぐらいだったか、京都市内を自転車で走っている途中、歩道との段差に引っかかってタイヤがスリップし、転けかけた時があった。確か四車線の道路沿いで車も人通りも多いところだったのだけど、その時、やや遠くから「大丈夫かー」と男性の声が人混みを飛び越えるように僕の耳に届いた。視界を向けた先にいたのはおじさんだった。「大丈夫ですー」と片手を挙げるとおじさんはそうかという笑みを見せた。また十数年前、レジで前に並んでいたおじさんがタバコの箱を落とした。しかし支払いに夢中だったのか、落としたことに気づいてない様子だった。会計がひと段落した様子を見て「落としましたよ」とそれを拾って渡した。わかばと書かれたそれを受け取った時の「ありがとー」と言うおじさんの笑顔がしわくちゃだった。これらの記憶が、山谷に来てからの「あぁ」と同じ感覚として想起される。

こうした出来事は、友人や家族との時間の単位とは違って、自分の記憶からいつ忘れられていってもおかしくない程度の、ちょっとした事。にも関わらず、何かが沁みとおってくる。逆に、日常生活でのやりとりにこの「あぁ」という感覚を抱くことが殆どないのはどうしてだろう。言葉は生活、ひいては社会と密接に結びついた記号交換的(マシン的な)コミュニケーションとしての側面が基本強いと思うから、当然といえば当然なのかもしれない。だからつまり、「あぁ」となるような場面で感じる「声」は感嘆的なもので、それは言い換えれば素肌のようなもの。であるとすれば、日頃交わされる言葉は概念的で、着衣的、仮面的でもある。つまるところは「人」を感じたということだろうか。規範的な言葉遣いや所作にとらわれない、身体から発される声。嘘か本当かを勘繰る必要が無い、不純物の無い音。そこに「人間くささ」がある。これが先に述べた、なぜか心地よく感じる一因ではないかと考える。

またもう一つ、別軸の心当たりもある。それは、僕にとっての「父性」と関わっているからではないか?ということ。先に述べた多田裕美子さんの著書に書かれていた山谷の人々のかつてが、僕にとっての父性と重なる気がしている。というのも、当時のいわゆる日雇労働者たちは、それぞれにその道を選ばざるを得ない切実さを持つ、いわば「訳ありの男たち」が多かったと暗に語られているのだけど、そういえば僕の父達も皆「訳あり」だった。一人は、僕が幼少の頃に突如失踪したらしく、家族や職場からも音信不通(その後存命は確認したらしい)。二人目は元ヤクザ。漁師だった母方の祖父は酒が入ると祖母に暴力。失踪、暴力団、DVと、「訳あり」ラベルが堂々貼り付けれてしまう僕の父達。他方、失踪父は僕や妹の面倒見は良かったらしいし、元ヤクザ父も再婚時はペンキ塗り職人で、またヤクザ当時も人情系(自称)だったらしく無理な取り立てはせず、いじめを見かけたら両成敗するような男だったらしい。家でも暴力は無く、むしろよく遊んでくれる人だった。祖父の酒癖問題は最近になって母から聞いた話で、僕にとってはいつも優しいじいちゃんだった。

こうした「父性」を思い返しつつ、同時に、それを失くして久しいことも思う。一人目の父はそもそも記憶がほぼ無いし、二人目の父も離別して20年近く経つ。祖父が亡くなったのも13年くらい前だろうか。父性への郷愁というか、なんというか、そういう感じが多分無意識にあって、またその影像に含まれた「訳あり」という人間性がどことなく、山谷のおじさんたちから感じる波長と重なる感じがするというか。

現地ホテルに到着した翌日から、ちょこちょこと周辺を歩いていた。路上生活をしている人たちの存在に気付いたり、また路上生活者では無さそうなものの、服装や行動の様子からいわゆる一般的な社会人とは違う雰囲気の50代や60代、それ以上の年代の男性の姿は目立つ。あとあと聞けば、生活保護を受けている人たちも多いという。かつての高度経済成長期を支えた人たちは、そもそも行き場もなく、何かしらの事情を持って一人山谷にやってきた個人が多かったらしいことを思えば、その全盛の時期から半世紀近い時間が過ぎた今もここを居場所としている人は少なく無いんだろう。現地の労働組合や福祉会館の発信を見ると、かつての山谷の労働者たちを巡る不当の主張が政府に対して続けられているのが分かる。炊き出しや衣類、消耗品の配布も定期的に行われている様子で、寄付も常時募られていることから事態の現状も伝わってくる。日雇いであった為に、健康保険や年金といった保証も得れないまま高齢になり、気づけば失業や野宿へ追い込まれるという現実は、前述した時代の体制転換のもと、そもそも建設業者等の大手が都合よく、人材(ハイデガーが文字通り言うところの)としてこの日雇いという形式を口実に、労働者を消費した事に一因がある。山谷の街並みの、社会の無責任が深く根差した側面としての光景が、自分の眼をジリジリと焼き付けてくる。

「日雇い」という言葉をここまでで何度か使っている。この労働形態自体は現代まで続いていて、僕自身も何度か経験したことがあるし、今後もあるかもしれない。ただ、現代の感覚と当時のそれには当然色々な違いがあることに注意しておきたい。玉井金五氏・大城亜水氏のある論文内ではそれを「新型」「旧型」と呼び分けていた。「新型」は、現代の僕らがイメージするそれに当てはまる。人員を求める企業と就労希望者とを繋ぐ役割として、各々の求める条件を登録し、マッチングさせるべく動く。僕が高校を出たあとしばらくして行った日雇バイトの事務所は雑居ビルの一室で、なんか色々雑な感じだった記憶があるけど、今は大抵が都心部の大きめのビルにオフィスを構え、なんというかクリーンな印象が一般化している気がする。また最近ではアプリ内で完結するものが普及してきてもいる。

では「旧型」とはなにか?最初にざっくり書くと、労働力の朝市。毎朝、駅前や公園といった適当な路上で、手配師(業者と労働者の仲介屋)と労働者らとが集まり、その場で働く契約が結ばれる。綺麗なオフィスで登録手続、といった感じでは当然なく、いわゆる青空市場だった。仕事内容としては建設以外に運輸や土木などがあり、業者は過酷な労働もこなせそうな若者を探し、対して労働者側は少しでも割の良さそうな仕事口を欲する。鳶の技術を持つ者は優遇される、といったこともあったようだし、ヤクザが取り仕切るケースもあって、不当な労働契約が暴力で横行されることもあったというから、緊迫した場であったとも想像する。こうした「旧型」の日雇い雇用現場は「寄せ場」や「寄り場」という風に呼ばれていた(前述の玉井氏は別の論文でこの「旧型」を「集合形式」、対して「新型」は「個別方式」とも表現していた)。建設ラッシュ当時、三大寄せ場と呼ばれたその一つが山谷だったわけだけど、他に大阪の釜ヶ崎(あいりん地区)、横浜の寿町があった。他にも名古屋の笹島、福岡の博多築港、また規模などはさまざまだがその他の都市にも存在していたらしい。

ちなみに山谷という地名自体は1966年に消滅しているらしい。もともとは台東区の町名として「浅草山谷1-4丁目」だったのが、住居表示の実施に伴って現在の清川・日本堤の一部および東浅草2丁目に変更されたとwikiに書かれている。また別の記事では、山谷地区で最大級のドヤを持つある実力者が山谷の地名を消したという話もあった。今回ここでは深く触れる機会がなかったものの、実際現地で幾度となく起きていた労働者とヤクザとの抗争の件もあり、一般にその町名が持つ印象は良いものではなかったからだという。それでも未だ「さんや」や「やま」と住民が口にする習慣が変わらないのは、ここまで書いてきた背景や、それよりもっと昔からの連綿とした歴史によるところがあるのだろう(山谷という地名は江戸時代以前からあったという記事もみた)。

今回僕が山谷に滞在したのは芸術祭キッカケだったこともあり、芸術祭メンバー(全員が中国籍で僕より若い人達)や、現地の一般社団法人代表の方、保護を受けつつ地域と関わりながら暮らしている方、研究対象として取材に来ていた大学生の方といった人々と意見を交わす時間もあった。中でも代表の方の話は特に印象深かった。その方は街を良くしていく為の具体的な実践を既に20年以上続けている。言語は虚無みたいなことを先に少し書いたけど、そうした心境の手前もあり、その場で語られていた言葉は真正性を持って染みとおってくる実感があった(のちラジオ収録をすることにもなる)。

芸術祭のメンバーも、日本人にはあまり無い不思議な活力がある。僕のように暗い部分だけを見てるばかりでもなく、中国での同様の問題とも重ねつつ、そしてここで何ができるかという好奇心も共に持って動いている様子がうかがえる。好奇心と言えば、代表の方もそうで、メンバーのそうした姿勢が面白く可能性も感じるから協力しているとも話していた。

自分はその後寄付を二度ほど行ってはみた。けどこの機会、自分ならではのことの披露が最もの役割であるという意も強まる、そんな滞在期間だった。

東川町でのAIRを終えて

7/9(火)大阪を発った日の深夜、北海道の東川町に到着した時のことを、大阪に帰ってきた翌日の今 8/6(火)から振り返ると、一ヶ月よりももっと前の日だったように感じる。東川町には滞在制作、いわゆるアーティストインレジデンス(AIR)の為に訪れていた。8年前に参加していたフォトふれという写真祭サポートスタッフからの縁で今年このポジションを得られたのだけど、その今回の制作経験は新しいことばかりだった。また現地の人々の生活、それをかこむ自然など、感じたことが色々とあった。それについて書き残しておきたい。

まず制作について。約一ヶ月に渡った滞在制作の成果展を、フォトフェスメイン会期でもある8/3(土) 4(日)に明治の家という場所で行った。大きく2つのシリーズを展示したのだけど、そのうちの一つは以前から継続しているLCD imageryで、AIサイアノの方に加えて、カメラルシダによる素描の方も展示した。もう一つはPhoto Drawing(写真素描)と題して、東川町で実際に出会う人々を、カメラオブスクラで描画したもの。モデルになってくれた人の数が百人に達したことも含め、今回もっとも時間を費やした。写真と絵の繋がりへの関心も手伝って、「人を写すことはできない」けど、「描くことならできるかもしれない」という期待はもともとあった。多分だからLCD imageryでは人を液晶画面越しに描いているのだけど、それによって、生身の人間と正対する形でもやってみたいという気持ちが膨らんでいた。AIRでは当初、カメラルシダでの実践を企画していた。例えばかつてドミニク・アングルさんもやっていたような感じで。けど現地で試行錯誤していく中で、エイトバイテンをカメラオブスクラとして使う方が、やりたいイメージに近いと気付く。大阪を発つ前週、学校の倉庫の奥から出てきたと学科長が見せてくれたジャンクのそれを借り、持参していたのだった。

しかし実際にカメラを携え町へ出てはみるものの、道ゆく人に声をかけることができない。そもそも人と目を合わせるのが苦手だし、声も小さいし、責任感とかだけで自身を突き動かせるほどの真面目な気力も持ち合わせておらずで、早速途方に暮れていたのが7/15のことだった。実は北海道へ飛ぶ前月、僕は人と対面できない状態に陥っていた。人と面するだけで意識が酩酊するようになって、それで五年続けていたバイトは結局退職。友人と会う予定は全てキャンセル。せめて1日3時間の学校仕事だけはと、薬で精神をごまかしながらかろうじてだった。人と目を合わせるのが苦手ということを先に書いたけど、コミュニケーション自体が嫌いなわけでは無く、バイトの同僚や学生の人たちと会うことはむしろ楽しみだった。それが多分、色々重なった私情もあり、反転してしまったのだと考えている。大阪出発の前日あらたに処方された薬を服用しつつも、不安の波は小刻みに巡ってくる。なんでこの今この時に、自分で自分の首を絞めるようなプロジェクトを掲げてしまったんだと、北の大地で一人自責の念に何度も駆られた。そんな状態下で、結果として百の人たちを描けた一因は、その場所が東川町という場だったからだと振り返る。

東川町は人口約8000の町で、その人々のコミュニティは、隣人と一切干渉がない都会とは違って人が人を呼ぶというようなことが、ごく自然に起きる。自分から声を掛けて描いた人は結局、全体の2割ぐらいで、あとはすべて、人と人との繋がりのなかで進んでいった。点と点が自然に結ばれていき、その広がりの流れの中で、自分はむしろ受動的に描き続けることになっていた。結果として、文化ギャラリーの吉里さん、AIR相方だった藤川さん、路上でのゲリラ的な実践時にむしろ広報含め手伝ってくれたせんとぴゅあの西島さん、といった方々が起点となり、写真祭を支える実行委員会、農協商工会、東川町日本語学校、こども、森田さんご夫妻、シニアセンター、旭川や東神楽といった隣町の人、観光客、写真甲子園、フォトふれといった多様な点へと結びついていく。東川が「写真の町」ということもあり、僕がやっていることに対して理解や関心を示してくれる感が強かったのも大きいと感じる。

先にも書いた酩酊への不安は、描き始めると薄まっていく。けど宿舎に戻り描いたものを見返していると、程度は若干低いものの再来する。絵はただの安い紙に適当なシャーペンで描かれた線の集まりで、画素数的には1メガピクセルにも満たない簡素な情報量なのに。それは一見特徴を押さえたり押さえなかったりしているヘタうまな似顔絵でありつつ、暗幕の中で微かに見える線を没我的に追い続けたことに、その時交わした言葉等もリンクされるから、立体的な記憶として立ち上がっているのかもしれない。目の前に立つ生身の人間が、スクリーンを通していったん線へと解体され、一枚の紙に再構成される、とか言うと大袈裟かもしれないけど、症状の波の順序とはかさなる。

もともと写真の前史に興味を抱いていたことも今回の実践の背景として大きい。たまに本を読んだりしている中で、写真と絵の繋がりへの関心は漠然とながらも持ち続けていた。だから例えば生物学者の福岡伸一さんがフェルメールさんについてを「写真技術が無かった頃のフォトグラファーを目指していた人」と言っているのも分かる気がしている(展示会場に足を運んでくれた北野さんはそれについての実践研究の話を聞かせてもくれた)。僕らは記憶を残す為に写真を撮ろうとするけど、視覚認知の実際としては逆に、むしろ写された写真が記憶を上塗りしてる。記憶を写真にしているのではなく、写真が記憶になっている。自分の記憶として定着された写真のイメージはまた支配的なものともなり、その統制力がかつてのイコン(聖像画)の力でもあったと想像するし、紙媒体から発光画面になっている今現在その力は複雑に増幅してるとも感じるし。

「人を写すことができない」と最初の方に書いた。具体的にそれは、他者を正対して写すことへの抵抗感なのかもしれない。なぜならそれはいわゆる肖像/ポートレートという表象がしばしば(主に?)権威の象徴でもあることに由来してるからなんじゃないかと、会場に足を運んでくれた原さん、菊田さんと話している時にふと思った。僕らはたいてい理想像を抱いていて、そこに自身を重ねたくもなる。しっかり重なった像ほど、だから嬉しいし、安心もする(僕自身もそう)。けど一元的にそうしたイメージを強く持つと、そこへ自分がフィットしない場合、悩んだり落ち込んだりするし、それでも写ってしまうものから目を逸らしたくなったりもする。だから、そうした規範の上で写真をするということには関与したくなかった。言い換えれば、正対して写真を撮るという不自然なコミュニケーションの中では、レンズの向こう側にいる個人よりも、イメージが持つ権威的な意志が前景化されやすく、その「空気」がなんか嫌だったから、ともなるのかもしれない。無論この事と人への関心は別問題で、だから今でもGR1vやiphoneでパッと友人を写すし、大橋仁さんや楢木逸郎さんの写真に惹かれるのは、そうした規範的なフィルターをパスしたり逆手にとったりしている故に写される「真」という前提があるように思えるからなのだとも思う。

もともと今回のカメラオブスクラによる写真素描は、自分にとっての写真を考えるための習作でもあり、かつての画家達がやっていたとされている現在の写真の構造を使った手順を、とりあえず自分でも実際にやってみよう、というのが主な発端だった。そしてやや脱線的かもしれないけど、ひと段落した今、新しいカメラを手に入れたという感じがある。地味にカメラ製品系のニュースは今でも時々見ているものの、ときめくものはずっと無い。フォビオンのフルサイズは未だアナウンスされないし(応援してます)、苦労して入手したNarrative clipは動かなかったし。カラーフォトグラムやサイアノタイプはその意味で自分にとっては一つのカメラのようでもある(と言うなら生成AIは風景)。そこに素描も加わった、みたいな感じ。写真素描に感じた属性の一つとしての「記憶」は、同じ空間に置いたLCD imageryのAIサイアノとも重なり、また「なぞる」という点でカメラルシダのそれとも重なることを、展示空間を通して実感した。言うまでも無くこの複層には「光」が強く介在している。こうした全体を広い意味での「イメージ」とも重ねあわせながら、引き続き日常を過ごしていきたい。

滞在中は色々な方にお世話になったけど、特に森田さんというご夫婦にはよくしてもらった。以前フォトふれ等で来ていた時も顔は合わせていたものの、今回みたいに色々と話したりはしておらず、初対面的な気分だった。けどだから云々ではなくパンや野菜をくれたりするし、家に伺えば好きなだけくつろいでいけば良いとも言う。かねてより畑に興味があった僕は、話の流れで森田のお父さん(僕の周りの人達は森田さん夫婦をそれぞれ「お父さん」「お母さん」と呼んでいた)のそこへ車で連れていってもらった日があった。4,50平米かはあり、周囲も田畑で景色が開けてもいるから解放感がある。四方にうっすらと見える山の稜線から運ばれてくる風も心地良い。オクラやとうきび、キャベツ、カボチャ、スイカにズッキーニに山わさびと、無造作に植えられた十数種類の野菜たちは、西陽に照らされ活き活きと見える。畑は先代からのことの成り行きで得たのだそうで、また森田家を出入りする人々から言われるがまま、色んな種を植えたりしつつ一人面倒を見てきているらしい。作物のない畦道の土以外には農薬等も使わず、また収穫物は販売もせず、僕にもそうしてくれたようにただ振る舞っているだけだという。森田家には特にこのフォトフェスの時期、色々な人が出入りし、宿にまでなっているようだけど、来客を歓迎しつつも特別気を遣うわけでもない佇まいに、善根宿のような雰囲気を思った。

東川での滞在制作中は前述した不安の波の中にいた一方、労働にスケジュールが束縛されず、写真をやることが義務という日々にふと、遊ぶことが仕事、みたいなこどもの頃を思い出してもいた。無論、こどもがそう在れるのはその生活を支える親などの存在があるからで、自立を強いられる大人が遊びだけで生きていくことは基本できない。しかし、あらためてその「自立」とはなんだろうか。労働の規範が指示への従属だった時代からAI台頭の現代に入るなかで尚更に思う。滞在中、たまたま連絡をくれたタイ在住の友人は暗号通貨に精通した人で、それにまつわる世論をリサーチしているようだった。そもそも貨幣経済の前身には物々交換が主にあった。3-7万年前に起きたと言われている虚構の発生は、例えばブランドを生み出し、その概念の一人歩きが等価交換のあり方を歪ませたりもしている。でも本来お金というのは一種のエネルギーのようなもので、等価に循環していくことがおそらく正しい。価値などは考えず高値の作品を節税アクセ的に買う成金は、そうした循環環境の破壊意志とも言える気がしてくる。森田さん一家のような在り方はその対極にあって、東川という小さな町に訪れる人々をただ受け入れ、もてなし、見送り、その一連に金銭授受もない。だからこちらもそれ以外のなにかで返礼したいという気持ちが自然に湧く。それはかつての物々交換的な感覚とも一見近い、けれどもそもそも見返りが顧みられていないところに「利他」を感じる。そこには物々交換以前の超自然的ななにかがある。「自立」なんてあまり考えすぎる必要はないのかもしれない。

余談だけど、AIRの相方だった藤川さんは森田さんの家で過ごしていた時間が長く、それを「家猫」と例えられていたのに対し、時々野菜をもらいにくるけど基本所在不明感があったという僕は「たまにご飯をもらいにくる野良」のようだったらしい。「最近来ないけどあの子大丈夫かしら」みたいな。その感じがちょっと居心地良くも感じた。

広告・偏見・テクノロジー

昨年の12月から「波をかさねるvol.4」と題された読書会に参加していた。書籍は「アートとフェミニズムは誰のもの?」(村上由鶴 著)と「ジェンダー目線の広告観察」(小林美香 著)の二冊で、もともと関心を持っていたジャンルでもあったことからこのイベントが目に留まった。そしてそもそも考えると、読書という習慣は基本的に個人の中で収まっていて、他人と一緒に行うという経験が自分にはほぼない。例えば同じテレビ番組をみたり、プレイしたゲームの感想をシェアしあうことはよくあったけど、読書にはそれがないというか。だからそこにどんな体験があるのかにも興味が湧き、参加を申し込んだのだった。

会の形式は、書籍の概要や感想を各自が述べ、そこから全員でディスカッションを行っていくというもの。参加者は十数名いて、誰がどっちの本のどの部分を担当するか、各著収録の章単位で事前に決定していく。そして自分は「ジェンダー目線の広告観察」の第5-8章を担当することになった。この読書会では「教科書としてのフェミニズムやジェンダー学、アートを学ぶのではなく、日常を生き延びていく為にそれを身につけることを目指す」という旨も掲げられている。その点も踏まえながら、この本を通して感じていることをまとめたいと思い、書いていたものを以下に残しておく。

僕が最も関心を持った点は、広告を通して知る「受動的に見せられるものが持つ力」についてだった。広告は人々の価値観に影響を与える大きな存在であるという点から、それが物事や他者への理解、偏見といったことと通じる構造の一部でもあると思えて、興味を持っているのだと思う。

写真研究者であり美術館等での仕事も多く手がけている著者は冒頭で、その「広告」についてを「作品」と対比するように説明しているところがまず興味深かった。端的に言うと、作品とは能動的に鑑賞するもので、広告が受動的にみせられるもの。分かってはいつつも普段意識していなかった「みる」という態度のバリエーションの存在や、視覚を通した人と環境との相互作用なんかを思う。

“…「作品」としての写真とは、美術館やギャラリーのような展示空間の中でプリントとして展示されたり、写真集として編纂されたりして鑑賞に供されるものであり、写真を個人の制作物として価値あるものと認識し、鑑賞する行為に対して、積極的に時間を割き、対価を払う選択をする人が鑑賞者として想定されています。それに対して、この本で扱う「広告」は、商品やサービスの消費へと誘導する目的のために作られる表現物であり、見ることを積極的に選んでいなくても、自ずと視界の中に入ってくるようなもの、受動的に見させられているようなものも含まれます。

「作品」としての写真が、その価値を後世に伝えるために、プリントや書籍のような「もの」として作られ、鑑賞され、売買され、保管されるのに対して、広告は情報伝達の手段として、一時的な役割を果たせば取り替えられ、忘れられるような儚いものですが、その圧倒的な物量によって、見ていることを意識していないうちに、いつの間にかさまざまな人の脳内に価値観を刷り込むような役割を果たしています。時には存在することすら意識されていないイメージによって、どのような価値観が人々の中に刷り込まれているのか、いつしか私は関心を抱くようになりました。…(p2)”

2022年、日本の総広告費は7兆円越えだったらしい。この額は日本の公共事業や文教事業の各歳出を上回り、また現在の防衛費に匹敵する規模でもある。だからそれはある種インフラと同様、生活に浸透しているレベルだと捉えられる。そしてそれほどの大きな影響力を持つ事業に、しかし規制がほとんど行われていない実情がある。政治家の尾辻かな子さん(第7章)は大阪駅構内で張り出されたゲーム広告の問題を切口に、海外諸国の広告規制の動きなどを取り上げながら日本のメディアリテラシーの課題点を指摘している。実際、“日本の法律は、金儲けをしたい側、利益追求に偏っていて、消費者を守るようにはなっていない(p147)”ということを立法の側にいて痛感したという。

この問題には「公共空間への意識の低さ」が含まれている。ここに、”商品が売れれば良い、面白ければ良いという発想になりがち/代理店にすべて丸投げおんぶに抱っこ制作という構造/業界自体がおじさん社会であり、その偏った層が権威を握っていること” 等といった笛美さんの話(第6章)が重なってくる。つまり、私たちが日々浴びている視覚情報はかなり営利主義的なもので、かつその基盤の老朽化もリノベートされないまま現在に至っているということ。私たちは生活環境のインフラとして日々、水や電気を利用し、アスファルトで舗装された道路を歩いたりしているわけだけど、それと同じ規模でこうしたイメージも日々の視野に映り続けている。新聞やテレビ、PCやスマートフォンを通して、幼少の頃から現在にかけてずっと。

こうした構造の上に成り立つ、広告という「受動的に見せられるものが持つ力」。そしてそれが「理解」や「偏見」とも通じていると冒頭に書いた。このことは、著書の象徴的な項目である”脱毛広告”を例にすると分かりやすいかもしれない。”デキる男像”も然り、それらは「かくあるべし」を半脅迫的に刷り込む力を持っているわけだけど、これらは従って、”毛”や”デキない男”という存在を悪とする偏った価値観も生じさせていると言えるから。

僕にとって「偏見」が問題なのは、それが内在化した声として自身に降りかかるから。これまでとこれからの自分の生き方を否定する性質がそこには含まれていて、だから苦悩がある。そのせいで風景が限定的に見えたり、他者を断定的に見てしまうことの実感に、自分自身、なんというか、納得いかない感じがある。こうした「偏見」はいわば「社会の声」で、その構造が生産性に依拠しているから、自身に分裂的観点として内在していると今は捉えている。善悪に関わらず観点を複数持てるのは良いことだと考えてはいる。問題は、それによって自己が過剰に制限されるという、その実感だ。これは言い換えると、「なんであかんねん」「それでいいやん」といった自身の声や、同様の肯定をしてくれる知人友人の声が、どうしてこれほど弱められてしまうのかという問題になってくるのだけど、そこに今回の「広告」を結びつけることでヒントが見えてくる気がしている。

こうした問題に関連して、認知バイアス辞典(情報文化研究所 著)で読んだことも併せて書いておきたい。例えば、品川駅の住所は品川区と考えるのが自然だけど、実際は港区である。この判断方法(個別の事実に共通点を見つけ、一般的な結論を導き出す推論)を”帰納法”と呼び、またそうして起こる思い違いを”誤謬”と呼ぶ。認知科学は、人がなぜこうしたプロセスで思考を働かせるのかを研究しているらしい。

この本では論理学・認知科学・社会心理学という三つの観点からさまざまなバイアスが分析されている。例えば、流行や優勢なものに乗っかる心理はバンドワゴン効果(Bandwagon Effect)、未知のリスクを危惧して現状維持をとる心理はシステム正当化バイアス(System Justification Bias)と、日頃の行動心理、それ自体が一つの傾向に沿っていることが示されている。こうしたバイアスがなぜ稼働するのかの真相は定かじゃないけど、その方が脳のリソース的に楽になる、というのはありそうな気がする。

自分の意識であると認識できる感覚自体は、脳による既定のモニタリング(後追い)である、という話は前に受動意識仮説で触れた。じゃあそもそも、その意識以前にある行動の決定付けをもたらす要素はなんなのかという点に、テクノロジーとの相関性が思い浮かんでくる。それは、スマホや原発を手放せなくなった人々の意志の所在について、とも言えるだろうか。ハイデガーの技術論(森一郎 編訳の方)にあった一文を引用する。(以下、文中にある「挑発」という言葉は「かり立てる」という風に読んで良いと思う)

“人間自身が、自然エネルギーをむしり取るようにと、とうに挑発されているからこそ、徴用して顕現させるこのはたらきが生じうるのです。人間がそうするようにと挑発され、徴用して立てられているのであれば、人間もまた、徴用して立てられた物資に属しているのでは無いでしょうか。その証拠に、人材つまり人的資源という言葉が世に流通していますし、臨床例、つまり患者も資源のうち、といった言い方すら病院ではまかり通っています。山林で伐採された木材の測量に従事する森番は、見かけ上は、彼の祖父の頃と同じようにして同じ森の小道を通っていますが、今日では、本人が自覚しているか否かに関わらず、木材活用産業によって徴用して立てられているのです。森番は、セルロースの徴用可能性へと徴用して立てられており、セルロースはセルロースで、紙の需要によって挑発され、その紙自体は、新聞やグラビア雑誌用に配送して立てられるのです。では新聞雑誌はといえば、世論を駆り立てては印刷物をむさぶり読むようにさせ、徴用された世論がお膳立てされるのに向くように徴用可能となるのです。(p117-118)”

こうしたテクノロジーの舵を取るのは権威者な訳だけど、その権威者こそ最もそれに「徴用」された立場とも言える。「広告」の意志もその点で自律的にあって、だからそれも「権威」に作られているのではなく、そうした意志を超えた何かによって作らされている、とも言えるのではないか。そうした身元不明の情報に、そして私たちは影響を受けてしまう。

ユヴァル・ノア・ハラリが”人間はハック可能な動物(WIRED vol.32 P39)”と言っていたことを思い出す。ユーザー視聴時間の約70%がアルゴリズムによるレコメンドによるものだというyoutubeは良い例で、他にもカメラとスーパーコンピューターの組み合わせにより、顔の血管の脈動や瞳孔の拡大が読み取れ、そこからストレスレベルが検知できるという話もされている。この記事は2019年のものだから、生成AI台頭後の現在はきっと一層高度になっている。

そしてだからこそ必要なのは、自分自身をよく知ること(self-awareness)、そしてこのテクノロジー環境のことをよく知ること、という話でもあった。OSが自身のウイルス対策を日々アップデートするのと同様に、自分の頭も更新していかなくてはならない。自分はこの話を読んでいて、テクノロジーを自然環境として見立てることを想像する。ここまで書いてると、テクノロジーが絶対悪のようにも聞こえてしまうと思うのだけど、そうではない。要は「共生」ということだと考える。今回担当している著書の題に含まれた「観察」という言葉も、ここに結びついてくると思う。

引用しているWIREDの記事ではまた、組織活動に関わることの重要性も書かれていた。「広告」の問題も然り、その構造を転換させるような解決策は、個人で考えている限り途方も無いことだから。このこともまた「共生」であると思う。投票に行くとか、そうした政治参加が必須なのは言うまでもない。

四回にわたって行われた読書会は1月末に最終を迎え、自分の発表を無事(?)終えることもできた。振り返ってみれば、共通のテーマについてを複数の人達と考えた時間は、一人で同様のことをする時より学びが多かったように感じる。これは参加者の出自がさまざまだったことも大きい。自分は自身の写真を通しての人との関りが比較的多いけど、起点を本に置くことで関係性のチャンネルも変わるという実感は良い発見でもあった。

聞くこと、話すこと。を読んで (2)

ちょうどこの本を一度読み終えたあと、尹さんのウェブサイトを見ていたら近々大阪でワークショップを行うことが分かり、行ってきた。「閉じると開く」と題された内容で、前半は講義、後半は実際に身体を使った実践の時間だったのだけど、この身体を使うということに意外な発見があった。そのことについても書いておきたい。

当日は3つのパターンのそれを行ったのだけど、中でも「相手の手のひらを追いかける」というのが一番シンプルだったこともあり、余韻として強く残っている。その内容は、まずAとBが向かい合って座る。 次に、Aが手のひらを差し出し、Bはその上に手をのせる。そして、Aが手のひらを咄嗟に左右へ素早く動かすので、Bは手が相手から離れないようその動きを追う、というもの。実際にやってみると、Aが急に手を動かすわけなので、Bの手は若干遅れてAの手を追いかける格好になる、という当然の結果になる。

そして次に、Bが目を閉じた状態で、再び同じことを行う。するとなぜかBの反応の遅れがなくなる。Aの手の咄嗟の動きに対して、不思議とBの手がぴたりと連動するのだ。Bは相手の動きが見えないわけだから、相手の手がどこに行ったか分からなくなったりと、余計にうまくいかなくなると思いきや、なぜかそうはならない。当日は十数人の参加者がいて、それぞれがペアになって同じことを行っていたけど、みんなも同じ体験をしていたようだった。

これは多分、目で見て追おうとする意識による動作より、身体自体の反射に任せる方が反応が早い、ということなんだと思う。そうなんとなく合点がいくのは、過去に読んだ「脳はなぜ「心」を作ったのか(前野隆司 著)」に書かれていた受動意識仮説を思い出すから。1983年のその研究実験では、動こうと本人が意識するよりも0.35秒早く、大脳の随意運動野という場所から電気信号が発生しているということが分かったらしい。この結果が示しているのは、僕らは普段自らの行動を自身の意識で決定してると思ってるけど、実はそうではなく、行動は意識される以前に脳で決定されてるということ。自分の意識が全ての行動を決めてるという実感は錯覚というわけだ。意識下で起きているのは、だから判断といった能動的な感覚というよりも、そうした意識のめぐりを観測する受動的な機能と言った方がいいのかもしれない。

でも僕らは普段の行動を自身の意識によることだと感じている。それは「脳がある種のつじつま合わせを行なっているから」と書かれていた。どうしてそんな錯覚が起きるのかは、よくわからない(過去にここに書いた”責任と帰責”の話から心当たる事もあるけど、今回は深く触れない)。けど人間の感覚はそもそも錯覚だらけなのも事実。例えば網膜で受けた光が第一次視覚野に届くのに0.05秒、鼓膜に受けた音が第一次聴覚野に届くのに0.02秒らしいけど、僕らはそれを体感的に同時に(場合によっては光の方が早く)感じる。脳の時間解像度は0.01秒というから、その差分は感じ取れてもいいはずなのに。あと「錯視」と検索すれば、目で見えている実物に対して僕らは日常的にいろんな錯覚をいだいていることも分かる。

ともかく今回の体験を通して思ったのは、自分の身体は能動の意識が先行してめぐってるということ。「目で見て追うぞという意識がかえって身体本来の反応を邪魔している」という実感は、言い換えれば「本来の受動的な感覚は、思っていた以上に能動の意識によって覆い被されている」ということだ。

じゃあここで言う「能動の意識」とは一体なんなんだろうか。そこで言語の多くを担っている”警告、指示、命令”のことを思い出してみる。これらは常に他者へ向けて放つ/他者から放たれてくるものだから、典型的な能動の言葉だと言える。そしてこの性質によって社会のルールも作られている。狩猟や農耕も、なにかしらの連携や伝達が必要な技術だろうから、集団で生きる人間の生存にとってこの能動の機能は欠かせないとも言えそう。つまり社会性の生物として生きる上で、この性質は内在化せざるを得ない。これは言い換えれば、社会の声は個人にやどるということだ。自分はここから、「紀元前9000年頃、エイナンの王はその死後も民の中で幻覚となって相変わらず命令を下した」という話(神々の沈黙p176)や、「およそ150人が自然なコミュニティの限界値であるというサピエンスが認知革命によって虚構を獲得した結果としてのプジョー伝説」(サピエンス全史上巻p42-43)なんかを連想する。

近現代に入って人口の桁数も増加するに伴い、たとえば法律が重層化されたりと、社会の声としての”警告、指示、命令”は一層強く、また複雑化している。日本の自殺者数は内戦規模であるという話も当著には書かれていたけど、それはここで言う「社会の声」が他者、ひいては自己をも批判する構造に根差しているからとも言える気がしてくる。

ただ今回、身体をつかった実践での気付きにもあったように、能動的な感覚が自身のすべてではない。それよりもさらに深いところに、身体がもつ受動的な感覚があり、それもまた様々な「声」を持っている。そしてコミュニケーションの本来は、きっとそこから生じている。「聞くこと、話すこと。」において、このことを覚えておきたい。

余談だけど、こうした能動的な言語構造が、自分たちに様々なバーチャル(仮想)を見せているとも言える気がしている。このことをベースに、ドナルド・ホフマンやノーレット・ランダーシュを再読すべきかも。

聞くこと、話すこと。を読んで (1)

”他人の心の領域を想像力でもって推察し埋めていくようなことをついやってしまうけれど、それをなるべく控えようと思ったのは、わかりやすく言えばそこに交わりがないからだ。”

堀井さんがウェブサイトに公開しているダイアリーにあった一文。今はどうも、他者という存在、その認め方、向き合い方…そういったことに関わる内容が気になっている。そこでたまらずメッセージを送り、教えてもらった尹 雄大という人の著書「聞くこと、話すこと。」をしばらく読んでいる。そのことを整理してみたい。

序盤でまず感じていたのは、言葉は複雑な構造でできているということ。レイヤー構造に当てはめて考えると、言葉は多層のレイヤーでできているという感じ。単純に考えれば言葉=意味という単一のレイヤーでしかなく、それは何かしらの情報を伝える為のシンプルな記号である。だから会話の際、相手が話している言葉の意味を受け取れればなんの問題もない。けれど実際、その言葉=意味の下層には、話し手の表情や仕草、間や抑揚といった複数のレイヤーがある。つまり意味はそうしたベースによって支えられている。

言葉は意味を伝えるけど、その意味が、話し手が言わんとしていることを完全に表現できているとは限らないという話だ。自分だって、相手に話しつつも(うまく言えてないな…)と感じていることは多々あるわけで。そんな時、その会話が誤解で終わらないのは、相手側が(この人は言葉ではこう言ってるけどなんかうまく言えてなさそうだな)という雰囲気を察知してくれてるからだろう。尹さんはこのことを「音のズレ/その人の身体ではない声」と表現していた。

発話がはじまる前には、何かしらの感情のうごきがある。それを伝えたい、表現したいと思う時、相応しい言葉をさがすことになる(それが歌や踊りだったり、絵や詩だったりすることもある)。適切な言葉がそこで見つかればいい。けど見つからない、うまく言えない、ということは少なくない。そういう時に「ズレ」が起きる。私の中の本心を、私自身がちゃんと翻訳できていないという感じだろうか。その際、言葉の構造性をちゃんと踏まえれていれば -言葉の意味だけを捉えず、話し手の雰囲気全体を捉えながら聞く姿勢があれば- それを「ズレ」としてちゃんとキャッチできるのかもしれない。

そもそも言葉の表現領域は意外と狭い。人という生き物の感情の全てを完全に記述できるような代物ではない。このことに案外僕らは無自覚だと思う。言葉の権威は強力で、例えば現地語が流暢に扱えない限り、その社会に馴染むことが困難なのは想像に難くない。見方を変えれば言葉が社会を形作っているとも言える。例えば多くの言葉が担うのは“警告や指示や命令 (p4)だ。そういった名目で開発されてきている技術としての言葉としてみれば尚更、日常下でのコミュニケーションでうまく機能しないことがあるのはむしろ自然にも思えてくる。しかしこうした言葉が統制する社会で育ってきた私たちは、それによる意味の交換が絶対だと信じてしまいがちになる。

こうしたことに関連して、印象に残っていた言葉に「感情移入と投影の違い」がある。本では第5章で主に語られている。

“…本人は感情移入しているつもりでも、実は自分を投影しているに過ぎない。相手ではなく鏡を見ているのに等しい。そうなってしまうのは、共感することを理解だと思っているからではないか。(p225)

共感=理解のように自分も捉えていた。しかし辞書で「共感」を見てみると、「他人の考えや感情を、自分もその通りだと感じること」とある。「その通りだと感じる」ということはつまり、まず自分がそれを「わかっている」かどうかが前提条件としてあるということだろうか。一方で「理解」は「内容、意味などがわかること」で、また「他人の気持ちや物事の意味などを受けとること。相手の気持ちや立場に立って思いやること」とも辞書にある。ここには自分がそれをわかっているかどうかを前提とするニュアンスはない。むしろ、分からないものをそのまま受け取ろうとする姿勢が感じられる。共感と理解は確かに意味が違う。

“たとえば文化や慣習、セクシュアリティの違いなどで、少しでも共感できない出来事に出会うと「分からない」の言葉でさっさと片付けてしまう。場合によっては嫌悪感を付け足してしまう。そうした心の動きの背景には、共感によって「わかる」を積み上げれば理解できる段階に至れる、そんな偏った考え方があるのではないか。
と言うのも、共感できないとなると早々に切り上げてしまうとしたら、言外に表しているのは、「私は自分のこれまで知っている人や事柄しか理解しない」という態度だ。それはつまり答え合わせということで、自分の中の正解を投影しているに過ぎない。(p225)

もしすべての会話を共感ベースで、つまり投影で行なっているなら、その会話の中で「ズレ」が起こってもそれを拾い上げることはできないだろう。だから相手が真に言わんとしていることに気づけない。共感ベースという、自分が望ましいと思う理解が得られる関係性で話し合うおかげで、現状の自分がいつも肯定されるという結果が得られる。これが必要な時もあるとは思う。ただこれによって失っているものもあって、それは“未知であり可能性(p42)であると尹さんは書いている。大人の頭がどんどん凝り固まっていくことには、こうした構造も根深く関わっていそうな気がしてくる。