広告・偏見・テクノロジー

昨年の12月から「波をかさねるvol.4」と題された読書会に参加していた。書籍は「アートとフェミニズムは誰のもの?」(村上由鶴 著)と「ジェンダー目線の広告観察」(小林美香 著)の二冊で、もともと関心を持っていたジャンルでもあったことからこのイベントが目に留まった。そしてそもそも考えると、読書という習慣は基本的に個人の中で収まっていて、他人と一緒に行うという経験が自分にはほぼない。例えば同じテレビ番組をみたり、プレイしたゲームの感想をシェアしあうことはよくあったけど、読書にはそれがないというか。だからそこにどんな体験があるのかにも興味が湧き、参加を申し込んだのだった。

会の形式は、書籍の概要や感想を各自が述べ、そこから全員でディスカッションを行っていくというもの。参加者は十数名いて、誰がどっちの本のどの部分を担当するか、各著収録の章単位で事前に決定していく。そして自分は「ジェンダー目線の広告観察」の第5-8章を担当することになった。この読書会では「教科書としてのフェミニズムやジェンダー学、アートを学ぶのではなく、日常を生き延びていく為にそれを身につけることを目指す」という旨も掲げられている。その点も踏まえながら、この本を通して感じていることをまとめたいと思い、書いていたものを以下に残しておく。

僕が最も関心を持った点は、広告を通して知る「受動的に見せられるものが持つ力」についてだった。広告は人々の価値観に影響を与える大きな存在であるという点から、それが物事や他者への理解、偏見といったことと通じる構造の一部でもあると思えて、興味を持っているのだと思う。

写真研究者であり美術館等での仕事も多く手がけている著者は冒頭で、その「広告」についてを「作品」と対比するように説明しているところがまず興味深かった。端的に言うと、作品とは能動的に鑑賞するもので、広告が受動的にみせられるもの。分かってはいつつも普段意識していなかった「みる」という態度のバリエーションの存在や、視覚を通した人と環境との相互作用なんかを思う。

“…「作品」としての写真とは、美術館やギャラリーのような展示空間の中でプリントとして展示されたり、写真集として編纂されたりして鑑賞に供されるものであり、写真を個人の制作物として価値あるものと認識し、鑑賞する行為に対して、積極的に時間を割き、対価を払う選択をする人が鑑賞者として想定されています。それに対して、この本で扱う「広告」は、商品やサービスの消費へと誘導する目的のために作られる表現物であり、見ることを積極的に選んでいなくても、自ずと視界の中に入ってくるようなもの、受動的に見させられているようなものも含まれます。

「作品」としての写真が、その価値を後世に伝えるために、プリントや書籍のような「もの」として作られ、鑑賞され、売買され、保管されるのに対して、広告は情報伝達の手段として、一時的な役割を果たせば取り替えられ、忘れられるような儚いものですが、その圧倒的な物量によって、見ていることを意識していないうちに、いつの間にかさまざまな人の脳内に価値観を刷り込むような役割を果たしています。時には存在することすら意識されていないイメージによって、どのような価値観が人々の中に刷り込まれているのか、いつしか私は関心を抱くようになりました。…(p2)”

2022年、日本の総広告費は7兆円越えだったらしい。この額は日本の公共事業や文教事業の各歳出を上回り、また現在の防衛費に匹敵する規模でもある。だからそれはある種インフラと同様、生活に浸透しているレベルだと捉えられる。そしてそれほどの大きな影響力を持つ事業に、しかし規制がほとんど行われていない実情がある。政治家の尾辻かな子さん(第7章)は大阪駅構内で張り出されたゲーム広告の問題を切口に、海外諸国の広告規制の動きなどを取り上げながら日本のメディアリテラシーの課題点を指摘している。実際、“日本の法律は、金儲けをしたい側、利益追求に偏っていて、消費者を守るようにはなっていない(p147)”ということを立法の側にいて痛感したという。

この問題には「公共空間への意識の低さ」が含まれている。ここに、”商品が売れれば良い、面白ければ良いという発想になりがち/代理店にすべて丸投げおんぶに抱っこ制作という構造/業界自体がおじさん社会であり、その偏った層が権威を握っていること” 等といった笛美さんの話(第6章)が重なってくる。つまり、私たちが日々浴びている視覚情報はかなり営利主義的なもので、かつその基盤の老朽化もリノベートされないまま現在に至っているということ。私たちは生活環境のインフラとして日々、水や電気を利用し、アスファルトで舗装された道路を歩いたりしているわけだけど、それと同じ規模でこうしたイメージも日々の視野に映り続けている。新聞やテレビ、PCやスマートフォンを通して、幼少の頃から現在にかけてずっと。

こうした構造の上に成り立つ、広告という「受動的に見せられるものが持つ力」。そしてそれが「理解」や「偏見」とも通じていると冒頭に書いた。このことは、著書の象徴的な項目である”脱毛広告”を例にすると分かりやすいかもしれない。”デキる男像”も然り、それらは「かくあるべし」を半脅迫的に刷り込む力を持っているわけだけど、これらは従って、”毛”や”デキない男”という存在を悪とする偏った価値観も生じさせていると言えるから。

僕にとって「偏見」が問題なのは、それが内在化した声として自身に降りかかるから。これまでとこれからの自分の生き方を否定する性質がそこには含まれていて、だから苦悩がある。そのせいで風景が限定的に見えたり、他者を断定的に見てしまうことの実感に、自分自身、なんというか、納得いかない感じがある。こうした「偏見」はいわば「社会の声」で、その構造が生産性に依拠しているから、自身に分裂的観点として内在していると今は捉えている。善悪に関わらず観点を複数持てるのは良いことだと考えてはいる。問題は、それによって自己が過剰に制限されるという、その実感だ。これは言い換えると、「なんであかんねん」「それでいいやん」といった自身の声や、同様の肯定をしてくれる知人友人の声が、どうしてこれほど弱められてしまうのかという問題になってくるのだけど、そこに今回の「広告」を結びつけることでヒントが見えてくる気がしている。

こうした問題に関連して、認知バイアス辞典(情報文化研究所 著)で読んだことも併せて書いておきたい。例えば、品川駅の住所は品川区と考えるのが自然だけど、実際は港区である。この判断方法(個別の事実に共通点を見つけ、一般的な結論を導き出す推論)を”帰納法”と呼び、またそうして起こる思い違いを”誤謬”と呼ぶ。認知科学は、人がなぜこうしたプロセスで思考を働かせるのかを研究しているらしい。

この本では論理学・認知科学・社会心理学という三つの観点からさまざまなバイアスが分析されている。例えば、流行や優勢なものに乗っかる心理はバンドワゴン効果(Bandwagon Effect)、未知のリスクを危惧して現状維持をとる心理はシステム正当化バイアス(System Justification Bias)と、日頃の行動心理、それ自体が一つの傾向に沿っていることが示されている。こうしたバイアスがなぜ稼働するのかの真相は定かじゃないけど、その方が脳のリソース的に楽になる、というのはありそうな気がする。

自分の意識であると認識できる感覚自体は、脳による既定のモニタリング(後追い)である、という話は前に受動意識仮説で触れた。じゃあそもそも、その意識以前にある行動の決定付けをもたらす要素はなんなのかという点に、テクノロジーとの相関性が思い浮かんでくる。それは、スマホや原発を手放せなくなった人々の意志の所在について、とも言えるだろうか。ハイデガーの技術論(森一郎 編訳の方)にあった一文を引用する。(以下、文中にある「挑発」という言葉は「かり立てる」という風に読んで良いと思う)

“人間自身が、自然エネルギーをむしり取るようにと、とうに挑発されているからこそ、徴用して顕現させるこのはたらきが生じうるのです。人間がそうするようにと挑発され、徴用して立てられているのであれば、人間もまた、徴用して立てられた物資に属しているのでは無いでしょうか。その証拠に、人材つまり人的資源という言葉が世に流通していますし、臨床例、つまり患者も資源のうち、といった言い方すら病院ではまかり通っています。山林で伐採された木材の測量に従事する森番は、見かけ上は、彼の祖父の頃と同じようにして同じ森の小道を通っていますが、今日では、本人が自覚しているか否かに関わらず、木材活用産業によって徴用して立てられているのです。森番は、セルロースの徴用可能性へと徴用して立てられており、セルロースはセルロースで、紙の需要によって挑発され、その紙自体は、新聞やグラビア雑誌用に配送して立てられるのです。では新聞雑誌はといえば、世論を駆り立てては印刷物をむさぶり読むようにさせ、徴用された世論がお膳立てされるのに向くように徴用可能となるのです。(p117-118)”

こうしたテクノロジーの舵を取るのは権威者な訳だけど、その権威者こそ最もそれに「徴用」された立場とも言える。「広告」の意志もその点で自律的にあって、だからそれも「権威」に作られているのではなく、そうした意志を超えた何かによって作らされている、とも言えるのではないか。そうした身元不明の情報に、そして私たちは影響を受けてしまう。

ユヴァル・ノア・ハラリが”人間はハック可能な動物(WIRED vol.32 P39)”と言っていたことを思い出す。ユーザー視聴時間の約70%がアルゴリズムによるレコメンドによるものだというyoutubeは良い例で、他にもカメラとスーパーコンピューターの組み合わせにより、顔の血管の脈動や瞳孔の拡大が読み取れ、そこからストレスレベルが検知できるという話もされている。この記事は2019年のものだから、生成AI台頭後の現在はきっと一層高度になっている。

そしてだからこそ必要なのは、自分自身をよく知ること(self-awareness)、そしてこのテクノロジー環境のことをよく知ること、という話でもあった。OSが自身のウイルス対策を日々アップデートするのと同様に、自分の頭も更新していかなくてはならない。自分はこの話を読んでいて、テクノロジーを自然環境として見立てることを想像する。ここまで書いてると、テクノロジーが絶対悪のようにも聞こえてしまうと思うのだけど、そうではない。要は「共生」ということだと考える。今回担当している著書の題に含まれた「観察」という言葉も、ここに結びついてくると思う。

引用しているWIREDの記事ではまた、組織活動に関わることの重要性も書かれていた。「広告」の問題も然り、その構造を転換させるような解決策は、個人で考えている限り途方も無いことだから。このこともまた「共生」であると思う。投票に行くとか、そうした政治参加が必須なのは言うまでもない。

四回にわたって行われた読書会は1月末に最終を迎え、自分の発表を無事(?)終えることもできた。振り返ってみれば、共通のテーマについてを複数の人達と考えた時間は、一人で同様のことをする時より学びが多かったように感じる。これは参加者の出自がさまざまだったことも大きい。自分は自身の写真を通しての人との関りが比較的多いけど、起点を本に置くことで関係性のチャンネルも変わるという実感は良い発見でもあった。