学生の人達を引率して京都グラフィーの会場を周るという、いかにも先生っぽいことをやった。といっても決めていた段取りはまずヴィヴィアン・サッセンの会場に皆で入り、その後はメイン会場の中からもう一つを各自が選んで観てくるというもので一日中張り付くような必要もなく、また皆も子供ではないのでいくらか気持ちは楽だった。サッセンの会場に入ってすぐ、話しかけてきたスタッフの人がインストールにも携わっていたようで、そのエピソードを色々と話してくれた。「すみません、思わず話しちゃいました」というその人の距離感は、都心ではあまりない、またどこかフィリピンの記憶も思い出す気さくさがあって良い感じだった。こういう時、自分はいつも何かが妙に満たされる感じがする。自分自身も作品を観つつ、散り散りに鑑賞している学生氏と遭遇しては見解を交わす。どんな言葉を伝えればその人の見方を広げられるか、ということを一応念頭に置きつつ、誤った解説はできない。限られたボキャブラリーの中から目の前の作品とその学生氏とに応答しそうな言葉を選ぶ。今は断言する人物が求められがちであるという話が、そういえば昨夜観ていたyoutubeにあった。それは端的に言えばわかりやすいからで、例えばショート動画のTikTokが受け入れられる構造とも近いのかもしれない。歯切れが良いとそれだけで説得力がある感じがするのも分かる。英語系の質問をchatGPTにしようものならその回答なんてそうなんだとしか思えないし。一方で、例えば100年の歴史を知る為には100年かかる、みたいな言葉があって、どちらかと言うとそっちに自分は共感する。最低限の確実と思われることは伝えて、その上で各々の解釈の広がって行き方を楽しみつつ見守って(?)行けたらと今は考えている。こんな雑文でも、ある程度を書き終えた時の気分が制作時のそれと近い実感がある。発表を目的ともしていないし、とにかくまだ実験的なエクササイズ。ただ近いうちにこの文を元に当日の記憶を辿り、念写に役立てれないかということは考えている。素描は続けているし、その展示の話も進めている。肖像素描用のカメラオブスクラも早く作りたい。