朝の4時半に目が覚めてこのまま起きようかと一瞬迷って結局寝る。バイトも無い今日は午前中にジョギングと洗濯、食事を済ませて友人の展示を観に行くことを計画していた。結局二度目の目覚めは11時前だった。昨夜はいつもより異様に眠気があり、19時頃には夕食前に30分ほど寝落ちしていたし、布団に入ったのも22時頃だった。そういえばこの一週間ずっと動悸がしている。心臓を内側から不意にノックされるような感覚で、痛みなどはまったく無いのだけど、普段は無いことだから不安感はつのる。ストレスや疲れのせいなのかもしれない。何年か前にも同じ事があって、その時は数週間経って自然となくなった。動悸と言えば救心が連想される思考回路はメディアの影響によるものと思いつつネットで調べてみて、なんとなくそれは一種の漢方という印象だった。場合によっては試してみてもいいのかもしれない。咳もまた続いている。これも2年くらい前のこの時期にあって、明確な原因も結局はよく分からなかった。何かしらの身体からのメッセージであることには違いない。西洋医学で押さえ込むことはできると思うから日常に支障が大きく出てくる場合は頼るしか無いと思いつつ、その繰り返しで今後の人生をやり過ごしていくのかもしれないと思うと、根本的な何かに進路の重心を置く必要性も考えたりする。ストレッチを軽く終わらせて20分だけ走る。気になった道を見学していく感じで走っていると時間はあっという間に過ぎる。高台であるこの土地はもともと全部が山だったんだろうか。どこを走っていても視界にはよく緑が映る。ジョギングから帰り風呂で汗を流し、適当なシリアルで腹を満たして(これは体調にとっての悪用意その1なのかもしれない)友人の展示場へ向かう。展示物は案外に少なく、テキスト等もなく出展者も居なかったので滞在時間は想定していたより短かった。せっかくなのでその足で京セラ美術館の京都グラフィーも見にいく。平日だったがGW期間ではありやはり混んでいる。川田喜久治展に入る。世界の終焉を物語るようなイメージの連続。一見平穏な日常に潜在する不穏が可視化されているようで、美術館全体の大型連休ムードとのギャップとも相まって一瞬眩暈がする。後でメモを見返すと、情緒をひきさく意味でのコントラスト、ロゴスの写真家、写真という画具画材、といったことをメモしていた。最後のメモに関しては自分が思っていたより氏は写真のメディウム性へも意識を向けている人なんだということ。銀塩からインクジェット、手漉きの和紙やインスタグラムという流れを見ながらそうメモしたのだと思う。「データに変換された映像は、みな古い光と訣別したように見えるのが不思議です。モニターにあらわれる不意の顔には新しい影をしたがえ、私と同時性の空間を漂っているのです」という言葉が最後の部屋にあって印象は確信に変わる。真剣に見ている様子の人もいれば、デートのつまみのように流していく人もいる。連休中の館はどこかショッピングモールのような空気すら漂う。ジブリや村上隆といった有名な展示が行われていることもあるだろう。色々な人の目に触れることの意義は大きい。けど例えば動物園ではパンダが注目される一方で野生生物の生活環境について書かれたキャプションに足を止める人はごく少数であるように、こうした効果の単位で繰り返される運営は消費という大きな構造の中で宙吊りになっているも同然とさえ思えてしまう。これを書きながらも時々、不意に鼓動が脈打ち、あまり集中することができない。久々に抗うつ剤を一錠飲んでみると気持ち治った気はした。ある作家の友人は通っている精神科の先生が精神疾患と芸術との関わりに理解のある人らしく、創造性が失われない程度に処方された薬を服用していると言っていたことを思い出す。京都にもそういうところは無いものかと少し探してみて、少し悩んである精神科医の人へメールを送ってみた。その人は研究者で、一般の診察をしている人では無いし、そういった連絡はお断りの旨も書かれていたけど、過去に作品の件でちょっとした接点があったことから良い事を教えてもらえそうという確信はあり、ダメ元で。今日は他にも大橋仁さんにファンメッセージ的に連絡を送ったり、柳沢英輔さんのWSが参加したかったけど関東で無理だったことを呟いたりした。返信を期待せずこちらから何か伝えたいと思うこの感覚の大切さを思い出して行きたい。