ダメもとで制作したレジデンス申請書類を添付したメールを送信した時は既に日をまたいだ深夜だった。締切が今日28日の17時までということを3日前に知り、慌てて準備していた。そのまま一晩眠り、朝にもう一度見直してから送付するのが通常だけど、少し迷ってそのまま送信することにした。今はとりあえず次、次と進めていく感覚を優先させたい。最高気温が31度だった今日は半袖でバイト先へ向かう事にした。ちょうど手に取りやすい場所に掛けてあったものがファックくんTシャツというもので、中指を立てている風のキャラクターがたくさん描かれている。5年くらい前に東京で偶然知り合ったギタリストの日高さんによるもの。有名なバンドにも関わっていつつ、個人の作品はいわゆるギター弾きそれとは一線を画しているものだった。京都での彼の演奏を聴いた日、自分の感想を伝えると「音にある情緒とかをそもそも疑っている」という旨のことを話してくれた。その時の口調には現世への大衆的な価値観に対する憤りのようなものがあるような気もしていた。ファックくんという発想にも合点がいく。それを着て出た道中に限って、欧米人の観光客団体が向かいから歩いてきており、狭い道だったからそのなかを逆流せざるを得ず気まずかった。バイトの最後のポジションがテラスの近くで、少し動けば東山の山並みが一望できる場所だった。客もほとんどいないタイミングだったので定位置から離れ、新緑にそまった連邦を網膜に映し続ける。眼が回復する感じがする。「何されてるんですか?」と近くにいた看視さんに聞かれ「山を眺めています」と言うと笑われる。規則が多く固い空気感の職場だから、職務中に山を眺めるということをおかしく思われたのかもしれない。今月から看視の人と関わる機会が増えている。それはポジション配置の都合で、そのことを知った当初は億劫な気持ちだった。総合案内とは共通認識が微妙に異なる中で、阿吽を合わせる為の労力を割かないといけない配置設定が効率的と思えなかったし、全体で100人くらいいそうな看視さん一人一人に毎回、はじめまして的な気を遣わないといけないのも憂鬱だった。実際僕は愛想が悪い。いちいち挨拶することは極力避けている。挨拶は常識的なコミュニケーションである、ということを分かっていながらできない。20代半ばの一時の自分はそれを問題視して、矯正してやろうと思っていたけど結局変わらなかった。思い返せば小学生の頃から人の言うことが聞けず先生にしょっちゅう怒られていたからもはや遺伝的な性質なのかもしれない。でも先生のことは好きだったし、可愛がってもらえていた自負もある。つまり他人が嫌いという訳ではなく、ただ形式的な慣習に自分も乗っ取る理由が分からないというだけなのかもしれない。今日の1日で個展とグループ展と話が動き始めた。自分が写真にのめり込むルーツ的な土地でもある大阪での久々の個展は、学校のギャラリーだから学生の人達との新たな関わりの機会にもなればなとも思える。グループ展は自分が理想としていた形の開催になりそう。