お菓子の価格が1.5倍近く上がった頃からもう何年も経ってる気がするけど、価格が戻る気配は無いし仕事の給料も上がらない。普通に過ごしてても食費は毎月3万以内におさまっていたはずが、それも超えるのがすっかり普通になった。日本がすでに腐り切っていたことを気付くのが遅かった自分が悪い。昨日は学生の人達の感想への返信に結局一日かかってしまっていた。月曜に皆で観に行った京都グラフィーの展覧会の感想を各自、グループLINEにシェアしてもらっていて、その投稿8人分に対して一人ずつ返信を書いていた。義務では無かったけど、こうしてやりとりを重ねていくことで、写真にまつわる色々な言葉が少しずつでも彼ら彼女らの身近になっていく期待があるし、自分自身、書きながら得れる事もある。そして今日は昼からまた一人で会場を周っていた。しまだいギャラリーのルシアン・クレルグと京都文化博物館・別館のクラウディア・アンドゥハル、それから堀川御池ギャラリーのKG+SELECTに立ち寄った。クレルグの写真にはいわゆるロマの人々の日常が写されていた。根本君から話には聞いていたけど、こういう感じなのかと(写真は半世紀ぐらい前のものにはなるが)思いながら観ていた。その後に見たアンドゥハルの写真にはアマゾンの先住民ヤノマミの姿があった。ロマとは国も住む環境も異なるけど、どちらも「地」と共生的に生きていると自分の中で結び付きはじめる。ロマもヤノマミも資本主義構造からは完全に外側にいて、生きる為の最低限のものしか多分持っていない。KG+SELECTも印象的な作品がたくさんあったけど、中でも紀成道という人の作品には一番足をとめていた。見せ方が面白く、こんなシンプルな仕掛けで見え方を深められるのかと驚いた。写真のイメージの質は時代性も物語るものだけど、こうした見方をすることで、今後その質がどんな変化をしていくのかに思いを馳せれたのも良い体験だった。堀川御池ギャラリーを出て、今日はもう帰ろうと思い歩きはじめたところで外国人の老夫婦に呼び止められる。「Do you speak English?」「Very little…」この返しがどれだけ適切なのかに戸惑いつつ、相手は「Kyoto City Hall」が何処なのかを知りたいようだった。ああ、京都市役所って英語でそう言うのかと思いつつ、僕も土地勘は無いからGoogleマップにすぐさま頼る。すぐそこのバス停から15番に乗れば7分ぐらい、徒歩でもこの道をまっすぐ20分くらいで着く場所のようだった。幸いこれぐらいなら英語フレーズも詰まらずに出てくる。諸々を伝えると旦那さんの方がアリガトウと、胸に手を当てて軽く頭を下げて礼を言ってくれる姿が印象的だった。道を尋ねられる距離感は良いなと思う。フィリピンの思い出も蘇ってくる。今度はレジデンスとかそういった形で中長期の滞在がしたい。そういうことをまた想像した。色んな作品を一挙に観たせいか頭痛がする。けど嫌な感じは無い。良い刺激になっている証拠だ。そんなことを思いながら歩く自分に「36」という重力がかかる。前に進もうとする気持ちがそれに抑えつけられて楽しい妄想がみるみる遠ざかっていく。この重力はあと一ヶ月ちょっと経つと「37」になるらしい。思い返せばそうして事あるごとに自分へ烙印を押し続けてきた。少し冷静になればそれが社会の声であって本当の自分では無いと考えることはできる。でも完全に払拭できてはいないから、こうして足が止まってしまう。一方でこうも思う。自分へ烙印を押し続けてきた約20年の間、それでもなぜか好き勝手なことを続けてきている。「声」に染まり切れない自分がいる。その意味で「俺」は自分で思っている以上にしぶといのかもしれない。それに、自分自身を最も楽しませてきたのも「俺」だと思う。楽しいと思えることが無くなれば死ということになるんだろう。現代を生きることには現代特有の困難があって、自殺はその結果の一つである。つまり社会が人を犠牲にしているという風に最近は考える。いのっちの電話をする坂口恭平は現代の救命救急医にも見えてくる。こんなことを考え出す前も後も、この日は空一面が群青の快晴だった。少し視界を降ろせば山の稜線と雑多な人種が行き交う町並が見えることも変わらない。