また坂口氏のコンテンツを観ていた。ここまで引き込まれて、彼の術中にはまっているような気もしつつ、それでも目が離せない何かがある。なんなんだろう。人間らしさみたいな感じだろうか。例えば氏の話し方はいつも物語調で、それは言葉が体験に依拠してるからだと思う。実体験が伴っていない知識を物語として語ることはできない。語ってやろうとする能動性ではなく、身体の記憶から湧き上がる感覚に対する受動が言葉として発露されてる感じというか。だかれそれは歌のようでもあるし、実際によく歌ってもいる。氏という数十万のコミュニティを経由することで無名の中学生が書いた文章が即売れることを語っていたのも印象的だった。自助を促しつつその全体には循環がある。モースの贈与論では確か与える、与えないという一般的にイメージされる贈与の構図には権力構造の発芽が潜在してるという話があった。人類全体に従来あったはずのこうした循環のしくみが破綻した現代で、自力でその場を建築していることに一つの凄みがある。雨がしばらく降っていてやはり向かいの雨音に意識が引っ張られてしまう。窓をいっそ二重窓にすることを試みるか、費用を負担するという名目で音が静かになるよう施工をお願いするか、引っ越すか、精神科に行って感覚を抑える薬を処方してもらうかといったことが堂々と巡る。いずれにしてもお金も時間もかかるから腰が非常に重い為に、思考だけが巡ることをもうずっと繰り返してきている。この現象はなんなんだろう?いつぞやかのバイリンガルニュースのツイートで、午後にミーティングを控えている1日は、そのミーティングを終えるまで他のことが一切手につかない、みたいなのがあって、それに共感するリプライも多くて、ちょっと安心したことを覚えている。未来への志向が強いニューロダイバージェンス、それは農耕民族的ということにもなるんだろうか。となれば先の循環の話も含めて狩猟民族的な感覚に意識を向けていくことでどちらも解決しそうな気もする。*5/2追記 いや、未来への思考が強かったらそれは狩猟民族ということになるか?絶対的現在から獲物の機微を読み取る力。農耕は、大きな人口のシステム下で貯蔵を通して過去未来の時間軸を指向する。