ルトガー・ブレグマン著「Humankind 希望の歴史」の上巻を読んだ。「人間は、実は良い生き物なのではないか?」。録音の肉声というポッドキャストに出演していた森旭彦さんが言ったその一言は、当著に由来することらしく、気になってポチったのだった。
この数年の自身の感覚は、この本に書かれている「ミーン・ワールド・シンドローム」による傾向と一致していた。1970年代にメディア研究者のジョージ・ガーブナーという人が作った言葉らしい。ミーン・ワールド・シンドロームとは、「マスメディアの暴力的なコンテンツに繰り返し晒されたせいで、世界を実際より危険だと信じてしまうこと」を指し、「症状は、冷笑的な考え方、人間不信、悲観的な見方」であり、「ほとんどの人は自分のことしか考えないといった意見に同意しやすい」「個人としての人間は無力で、世界をより良くすることはできないと考えがち」「ストレスが強く、落ち込むことも多い」とのことだった。どれも当てはまる…。
ただ、実際に世情は混沌としていて、それが人間によることというのは事実。なにより思うのは戦争、自殺、日常的に起きている犯罪、あるいは犯罪とまではいかなくとも、ちょっとした嫌がらせなど、色々ある。地球環境にとっても、人間という生き物は危機的な負荷をかけ続けている。幾多の種を絶滅に追い込んできたのも人間だ。自分個人にも様々な後悔があり、こんな風に生まれてしまって葛藤を覚えることも少なくない。ざっと書いたが、思いっきりミーン・ワールド・シンドロームなのかもしれない。けど、そう考えてしまうことにどんな間違いがあるというんだろうか?
「世界を実際より危険だと信じてしまうこと」とあるけども、「実際より」とは、どういうことなんだろう。自分が事実だと感じているものが、そもそも過剰な反応だということなのかもしれない。けど、そこにはどんなメカニズムがあるというのか?
それが少しでも分かればと思うので、特に印象に残った箇所を引用しながら自分なりに整理してみる。
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まず、この本で繰り返し主張されているのは、人間は本来、友好的な動物であるということ。そして同時に、人間は心理的に臆病で、惑わされやすい動物でもあるということ。
惑わされやすい、ということについては、以前にジェンダー目線の広告観察や認知バイアス辞典等を読みながらフムフムと感じていた部分だった。広告観察の本では、人間の意識とメディアの相関関係についての記述が印象に残っている。当著には現代の、たとえば美容や、男性性主張等の広告が多く取り上げられていて、過剰な”かくあるべし”の啓発でもあるそれらが人々の価値観を歪ませている。そうした営利主義的な視覚情報が過度に発信されてしまう背景には、倫理観が昭和から未更新の業界構造の存在によるところが大きいという話もあった。
Humankindも、同様にメディアについての言及が多く見られる。メディアを受理する視覚は人間の脳のパフォーマンスの約8割を占めてるという話もよく聞く。だからこそ、見るものは意識的に選ばないといけないとあらためて思う。当著は、前述の内容とは違って、言及するメディアは主にジャーナリズムによるもの。だから例えばニュースをちゃんと見るとか、そういうことが大事という話なのかと言うと、そうではなく。答えはそう単純じゃなかった。
実際、著者のブレグマン氏は、ニュースを見ることに警鐘を鳴らす。なぜか?端的に言えばその情報はインプレ数を稼ぐ為であることが殆どだから。氏が言うには、過去数十年の間に、極度の貧困、戦争犠牲者、小児死亡率、犯罪、飢饉、児童労働、自然災害による死、飛行機墜落事故は全て急激に減少していて、自分達はかつてないほど豊かで安全で健全な時代を生きている。しかしそのことが報じられることはない。例外的な事故事件ほど人々は注目し、ニュースとしての価値は高まるからだ。
例えば飛行機事故は1991年から2005年までの間で一貫して減少したという。けどそれによって逆に、1件の事故へのメディアの関心は高まる。飛行機は年々安全になってるにも関わらず、人々はそれに乗ることを恐れるようになる。別の研究では、移民、犯罪、テロに関する400万超の新聞記事を含むデータベースを調べ、「移民や暴力の数が減ると、それらに関する記事が増える」というパターンを見つけたらしい。「従ってニュースと現実の間に相関はなく、むしろ負の相関があるようだ」と結論づけられていた。(ちなみに氏の言う「ニュース」はセンセーショナルな事件を報じる最も一般的なジャーナリズムであり、その全てを否定してるわけではない。「多くのジャーナリズムはわたしたちが世界をより理解するのを助ける」と書いている)
上記の事実があるにも関わらず、ニュースで報じられる負の側面ばかりが前面に出てきて、それに影響されてしまいやすい要因には、一つに生物学的な特性がある。それは、人間は良いものより、悪いものに敏感だということ。狩猟採集民族時代、蜘蛛やヘビなどを怖がった人間の方が生き残ることができた。「人は、怖がりすぎても死なないが、恐れ知らずだと死ぬ可能性が高くなる」。これはネガティビティ・バイアスと呼ぶらしい。インプレ稼ぎも、このバイアスあってのことではないかと思う。
またもう一つのバイアスとして、アベイラビリティ・バイアスというのも書かれている。手に入りやすい情報だけをもとに意思決定する傾向。何らかの情報が思い出しやすいものだと、それはよく起きることだと思い込む。世の中は悲惨で卑劣で無惨な事件の数々が取り上げられるが、そうしたことは記憶に残りやすい。従って個人の世界観に浸透しやすく、またそれが日々のなかで無意識に増幅し、いつのまにか自身の意思の構成要素の一部になっているという感じだろうか。ニュースによるある種の焚き付けが、いかに人々の意識を構築していっているのかがよくわかる。(実際、30カ国の人々に行われた取材で、どの国もその圧倒的多数が「世界は悪くなっている」と答えたという。)
余談、ニュースは例えば日本国内のテレビであれば、前述した広告観察の本の話みたいに、発信する業界構造自体の問題もありそう。他方、ネットで入ってくる情報には、XやGoogleをはじめとして、シリコンバレーが送ってくるターゲティング広告なんかもある。AIの隆盛もあり、マイクロインタラクションといった機能によってかなり高い精度で興味を引かれる情報が届くようになった。「現代のメディアの狂乱は、平凡に暮らす人々への攻撃に他ならない。正直に言って、ほとんどの人は平穏だが退屈な生活を送っている。」「心にとってのニュースは、体にとっての砂糖に等しい」といった一文がここに沁みる感じがする。
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さっき狩猟採集民族という言葉を使ったけど、この本では、人類を考える上での根源的なキーとしてそれが多く言及されている。しかし今こうして都会で暮らす自分にとって、狩猟採集民というのは遠い遠い昔で、世代も離れすぎているゆえに遺伝的にも遠く、全くの他人事のように感じる。だから当時の感覚を現代へ引き合いに出すことにどれだけ意味があるのだろうかと思う。ただこれに関しては第3章にも書かれているように、もっと巨視的な視野で人類というものを捉える必要があることに気付かされる。
「地球上の生物の40億年におよぶ歴史を、一年に置き換えてみよう。10月中旬まで、バクテリアが地球を占領していた。11月になってようやく、わたしたちが知る生物が現れた。脳と骨を持つ動物や、蕾と枝を持つ植物だ。そして人類は?私たちが登場したのは12月31日の午後11時頃だ。その後の約1時間を、狩猟採集民として過ごし、午後11時58分にようやく農業を発明した。ピラミッドと城、騎士と貴婦人、蒸気機関とロケットなど、私たちが「歴史」と呼ぶことの全ては、午後0時直前の60秒間に起きた。」
人類史ってそんな最近の話なの?と感じるけど、そういえばサピエンス全史には、およそ600万年前には人とチンパンジーの最後の共通の祖先がいたとされ、250万年前にはホモ(ヒト)族の進化と石器の使用が確認されていたとあった。その頃からを狩猟採集民と数えるなら、農業革命は約1万二千年前とあるから、人類は99%以上の期間を狩猟採集で暮らしていたということになってくる(諸説あるが、おおかた9割は超えているということで間違いなさそう)。そうした情報を読んでいると、自分達のDNAはまだまだ当時の環境を生きていると考えても良さそうな気がしてくる。飽食の時代に自分がお菓子を買い込んでしまう癖も、それで説明がつく(?)。
サピエンス全史といえば、サピエンスはネアンデルタール人を絶滅させた張本人である的なことが書かれていたのを覚えている。だから我々の祖先はつまり、やっぱり残忍な素性を持っているんだなと。しかしブレグマン氏はこの説に異論を唱える。というのも、サピエンスが生き延び、ネアンデルタール人が滅びたのは、氷河期(11万五千年〜1万五千年前)を耐え凌げる協調性があったからだと言う。これは著書内では天才族と模範族という例えで説明される。つまるところ、ネアンデルタール人は脳も大きく、サピエンスから見れば天才族なのだが、社会性(コミュニケーション能力)がなかった。だから例えば釣竿を発明したとしても、その発明をシェアできる友人は平均一人ぐらいしかいない。一方サピエンスは社交性がある。脳は小さいから釣竿を発明できる個体はかなり少ないものの、一度発明すればシェアするし、多くの友人もそれを模範できる。結果として、天才族よりも模範族の方が、全体としてスキルを持った集団になる。氷河期を生き延びれたのもそうした社会性、協調性があったからなのではないか?という話。
化石研究で人類同士が争っていた痕跡がある系の話も、近年ではそれが捕食動物や大型の猛禽類による傷跡だったりなど、いろいろとわかってきていることがデータとして書かれている。人類同士が殺し合うことは確かにあったかもしれないらしい。けどそれは小さな集団の中で、その調和を乱すような性格の者がいて、そうした者が同族から殺されたという話。この話は同時にこうも受け取れる。獰猛な遺伝子は淘汰され、穏やかな遺伝子が残っていく、と。ギンギツネの研究の話にもあるように、人類はこうした流れに沿ってより温厚な種族になっていった、と。
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ここまで書いて、人類が根本的に協調性があり基本温和な生物であるということは、なんとなくわかった。また、そうした人類が世情を暗く見ていることには現代のメディアと人間の心理が関係していることも知った。じゃあしかし、もともと協調性、社会性をもって生き延びてきたはずの人類が、なぜ今日も戦争をしているのか?
これについては、人類が移動をやめ、定住しはじめたことに端を発しているらしい。定住をはじめたことで、格差が生じ、また今でいうプライバシーの概念が誕生したりした。それが人類史に最初の、そして修復不可能な亀裂を生むという話だ。
狩猟採集民は常に移動を続けていた訳だけど、豊穣な土地と出会ったことで、人類は団結して厳しい自然に立ち向かう必要がなくなり、移動するよりそこにとどまるほうが得策だと判断する者が出てきた。そこまでは良かったのだろうけど、定住を本格的にはじめたことで、人は各々の敷地を主張するようになっていく。家が建てられ、村が形成されて人口も増える。そして人々の所有物も増えていくことになる。ルソーはこのことを、「最初に誰かが、杭や溝で土地に囲いをして、これは俺のものだ、ということを思いついた。」と言って嘆いた。実際、ここから全てが悪い方向に進み出す。
もともと狩猟採集民に所有の概念はあまりなかったという話がある。食料は常に分け与えていたし、自身が自然と一体であるという感覚がベースにあるということを想像すると、不思議では無い。だから定住がはじまった当初、最初に陣地を主張した者は異端だったのかもしれない。けれども土地は広いから、じゃあ私も、となって(模範族であるから)、自然とそのムーブメントが定着していったのかもしれない。
そしてこの頃に、最初の戦争が起きた。人類が定住を始めた時期に、最初の軍事要塞が築かれたこと。弓の射手が互いを狙う洞窟絵画が最初に描かれたこと。暴力の傷跡がはっきり残る人骨が見つかりはじめたこと。これらが時期的にも重なっているという。なぜ戦争が起きたのかを学者陣が考える理由は少なくとも二つあり、一つは争いの原因になるものを人が所有するようになったこと。もう一つは定住し始めたことで、見知らぬ人に対し不信感を抱くようになったこと。狩猟採集民はオープンマインドで、見知らぬ集団と出会っても争うようなことはなかったらしい。しかし定住がはじまると、自身のコミュニティや所有物への関心が強まり、逆にコミュニティ外から来るものに対して警戒心を抱くようになった(確かに、クローズドマインドな旅人の話はあまり聞いたことがない)。
やがてその警戒心から、見知らぬ他者や集団に対して団結し、戦うといったことが起きていったとある(今でいう分断の起源とも言えそう)。そこではリーダーが出現し、戦場で活躍しカリスマ性を見せると、その地位は固まっていく。いわゆる権力の登場。1%の人が99%の人を抑圧し、口先のうまい人間なんかも出世していく。農耕革命の裏側では、こうした定住と私有財産の出現による新しい人類史が生まれていた。これは現在まで続く「社会」の起源でもあるように思う。
それまで大きな争いを起こすことはなかった人類が、土地やモノを所有するようになったことで時に凶暴化するようになった、という話に関連する、科学的な事例がある。それはホルモンの一種であるオキシトシン。
「人間を最も優しい種にしているメカニズムは、人間を地球上で最も残酷な種にもする」と言ったのは、子犬の研究者ブライアン・ヘア氏。ここで言及されるオキシトシンというホルモンは、愛情ホルモンとも言われ、出産や授乳に重要な役割を果たしていることは以前から知られているらしい。またオキシトシンは人間をより優しく穏やかで、のんびりした気性にさせるという。実際そのホルモンが獰猛な狐を人懐っこい子犬のように変えてしまう。
しかし2010年アムステルダム大学の研究者たちが、オキシトシンは友人に対する愛情を高めるだけでなく、見知らぬ人に対する嫌悪を強める、ということを発見したという。同じ人類として狩猟採集民の頃からオキシトシンはあったと想像するけど、定住がはじまり生活環境が変わったことで(主に所有やコミュニティの概念が強まったことで)、そのホルモンの負の性質が前面に出始めたということだろうか。このことは増々つまり、人類が変わったのではなく、環境の変化が人類を変えた、と言えてきそうな気もしてくる。
実際、マーシャル大佐の話(戦争に参加する兵士たちの殆どは殺意がない)や、ミルグラムの実験の被験者達の話(致死に至る電気ショックを与える指示を受ける被験者の動機は善意的な同調性)を読んでいると、人間の根源的な部分は現在も変わっていないように思える。他方で環境というものは本当に大きく変化してきた。15万年前頃、サピエンスの数はおよそ100万人ほどだったらしい。そののち定住生活がはじまると、村同士の衝突が起こり、コミュニティは街へ、市へと拡大しやがて国家が誕生する。そして現在、人口は80億を超え、機械技術の発明と普及による余剰が人類の生活をさらに変革させている現状がある。今からその80億人が狩猟採集民に戻るという考えは現実的ではないだろう。
話がやや込み入ってきたけど、本来温和な種であるはずの人間がなぜ戦争を続けているのか?という問いについては、下巻に引き続き書かれているようなので、また読んでみて整理を続けたいと思う。
ざっとこれを書いていて、あらためて思うのは、テクノロジーの注視だろうか。環境の変化が人を変えるということを書いたけど、テクノロジー、例えば金づちや弓矢といった起源的な技術も、それを手にするだけで人の意識を変化させる力がある。協調性が特性であるサピエンスにとって、技術という、自身のアイデアを外部化させた発明品は、おのずと幾多の人々によって利用される。利用されることで時に環境が彫刻され、そうして生まれる新たな環境に応じて技術は改良され、進化していく。その意味でテクノロジーは人類と一見して相補的である。しかしテクノロジーは人類の意志を超えて自律的に発展しているようにも見える。