大阪で写真をやっている知り合い二人のトークイベントに参加することになっていた今日を終えて、それが終わった帰りの京阪電車でこの文章を打っている。渡辺橋で別れ、そこから乗り換えで降りた京橋駅のホームはまだ人が結構多く、それもそうで今は22時過ぎだけど土曜日だった。どの列も十数人は並んでいるから座れそうにはない。そうして適当に並んだ列のちょうど目の前で10人ぐらいのグループが記念写真を撮ろうとなっていた。40代から50代くらいのフォーマルな服装の男女。一人の女性がスマホを持った腕を目一杯に掲げると全員がぎゅっと身を寄せ合い、かがんだ姿勢から四角い画面に収まる自分の姿を確かめるように見上げていた。トークイベントを終えた分かったことは、自分は他者を牽引することがやっぱり苦手ということと、言葉を即座に出す事ができないということ。分かってはいたし、その為にできる対策も講じた。けどそれ以上にその場では柔軟に立ち振る舞うことができなかった。主役の2人に目を向ける。2人から視線が投げ返される。しかし自分から言葉が出てこない。数秒の沈黙に対する焦りは、川や海で溺れかけた時のそれと似ていた。一回り下の世代の二人に対して、不甲斐ない。よくそんな感じでラジオをやっているなと思う。トークに高校の同級生が参席していた。十五年くらいぶりで、イメージが変わっていたこともあり、言われなければおそらく気付けなかった。当然ため口がベースの会話になるが、それ自体もかなり久しぶりだった。今はもう結婚をしていて、パティシエの仕事も続けていて、酒も相変わらずよく飲んでいるらしい。彼女から聞く共通の友人一人一人の名前が懐かしく思えて、それだけ誰とも会ってなかった事にも気付いたのだった。出町柳駅から自宅までの道中にふと電話をかけた彼は個展を間近に控えていて、今日も制作中のようだった。「アートがあってよかったですね。」自分の行く末が分からなくなっている話をした時に彼はそう言った。街頭に浮かぶ吉田山の麓道をしばらく歩き、やがて大文字山が見えてくる。かれこれ5年目になっているバイト先に自分の居場所をもはや感じれてもいなくて、もう辞めたいとぼやく。最近は漁港での運送仕事をしているという彼はしかし、むしろ歯車になっていることを良いと言った。皿洗いや工場での仕分けといった単純作業の経験をしばしば語ってきた彼は、そうした社会の典型的な歯車としての仕事と、個人的な美術作品制作、この相関に何か思い当たることがある様子だった。

いつぞやかに千葉雅也さんがXで「日常の出来事や、そこで展開された関係性や感情の割り切れない複雑さを、要するに、と切り捨てるのではなく丁寧にデッサンするような日記を書くこと」を勧める投稿をしていた。それを継続することで思考が単純では無くなる、と。一時だけだが、自分もそういう事をしていた事があった。そしてあの時の感覚は、ここで言われている「デッサン」という言葉によって腑に落ちる気がした。自分は文筆の人間でもなんでもないが、過去、この作業を継続していた時があって、その時感じていた感覚の変化のことを思い出し、またやってみる価値についてが頭の片隅にはしばしあった。やっていた当時は、なんというか、日常を普段よりも理性的にみれていた感があった。普段、頭では分かってるけど咄嗟の反応ではうまくいかない、みたいなことがよくある。そういうことが少し減ってた気がする、というか。明日、阪東さんと水野さんのトークショーに参加することになっていて、しかし世代も作風も違うなかで自分が話せることはなんだろうとなり、あらためて二人の写真について振り返ってみようと思い至り、これを書き始めた中で冒頭の千葉さんの件を思い出した。このブログはあまり誰もアクセスしないような場所にリンクしてあるし、そもそもそのリンク自体も入れたり消したりしているという、公開意欲がかなり不安定な場である。そんなことを地味に10年以上続けている。続けていると言っても更新はかなり不定期。下書き止まりや、削除した投稿も数知れない。1年近く全く触ってなかった期間もあった気もする。ただそれでもおそらく、今後も自分には必要な場となっていく気がしている。今朝は6時頃に目が覚めた。この季節の目覚めはいつも決まって鼻が詰まり気味で、おそらく眠っている間に落ちてきて喉に絡みついている感じも不快。今週はじめからずっと微熱がある。そのせいなのか花粉のせいなのかは分からない。昨晩は大阪の実家に帰っていて、23時頃には寝ようとしたけど、隣の部屋で既に眠っている母のいびきと寝言が丸聞こえで耳につき、結局一睡もできないまま学校へ向かっていたから、身体はまだ重たい感じがする。朝陽に背を向け再び目を閉じ、10時になってやっと身体が元にもどった感じがした。昨日投稿したインスタグラムには3人が反応してくれている。明日に控えている例の件に際して募集したおたよりだった。二人の唯一の共通の知人ということもあって声をかけてもらい、そこから自分ができる唯一の一つはラジオではとなり、提案してみたところ二人も乗ってくれたのだった。二人の写真についてをこの場であらためて考えてみる。二人は同校同学年で、カラーフィルムのスナップ、また日常が舞台になっているという点が共通している。またいわゆるストリートスナップのそれとは違って、瞬間というよりは場面場面を写してる感じである。ぱっと眺める感じだと、何気ない日常のシーンだなという印象。その中で水野さんは比較的、対象を発見的に撮っている傾向を感じる。派手さは無い。日々の中での風景との出会いをぽつぽつと集めていっているというか。阪東さんはどこか内面の投影のようにも見える。発見的というよりも、内側にある何かと場面とが呼応した時にシャッターを押してる感じというか。人は写ってるけど表情が見えなかったりするし、しばしばある逆光からはノスタルジーもやっぱり感じるし。こんなことを書きながらしばらくしてタイプする指は止まった。そして今回の写真展は、実は写真自体についてをとやかくと言うような機会ではないのかもしれないと思った。まだ展示自体も観てないし。世情に山積する社会の問題も彼女たちは意識していて、おたよりテーマはその上で決まったものでもあった。写真とは一見関連性が無い、けれどもその根底にある態度の話を膨らませていけたらいいのかもしれない。11時過ぎ、念のため近所の耳鼻科で診療を受ける。「男の人は微熱でも大騒ぎする生物なんです」「三保谷さん元気ないのはいつも通りやね」待合室まで響き渡る声量で今日も快活に話す先生にじわじわと好感を抱いている。

広告・偏見・テクノロジー

昨年の12月から「波をかさねるvol.4」と題された読書会に参加していた。書籍は「アートとフェミニズムは誰のもの?」(村上由鶴 著)と「ジェンダー目線の広告観察」(小林美香 著)の二冊で、もともと関心を持っていたジャンルでもあったことからこのイベントが目に留まった。そしてそもそも考えると、読書という習慣は基本的に個人の中で収まっていて、他人と一緒に行うという経験が自分にはほぼない。例えば同じテレビ番組をみたり、プレイしたゲームの感想をシェアしあうことはよくあったけど、読書にはそれがないというか。だからそこにどんな体験があるのかにも興味が湧き、参加を申し込んだのだった。

会の形式は、書籍の概要や感想を各自が述べ、そこから全員でディスカッションを行っていくというもの。参加者は十数名いて、誰がどっちの本のどの部分を担当するか、各著収録の章単位で事前に決定していく。そして自分は「ジェンダー目線の広告観察」の第5-8章を担当することになった。この読書会では「教科書としてのフェミニズムやジェンダー学、アートを学ぶのではなく、日常を生き延びていく為にそれを身につけることを目指す」という旨も掲げられている。その点も踏まえながら、この本を通して感じていることをまとめたいと思い、書いていたものを以下に残しておく。

僕が最も関心を持った点は、広告を通して知る「受動的に見せられるものが持つ力」についてだった。広告は人々の価値観に影響を与える大きな存在であるという点から、それが物事や他者への理解、偏見といったことと通じる構造の一部でもあると思えて、興味を持っているのだと思う。

写真研究者であり美術館等での仕事も多く手がけている著者は冒頭で、その「広告」についてを「作品」と対比するように説明しているところがまず興味深かった。端的に言うと、作品とは能動的に鑑賞するもので、広告が受動的にみせられるもの。分かってはいつつも普段意識していなかった「みる」という態度のバリエーションの存在や、視覚を通した人と環境との相互作用なんかを思う。

“…「作品」としての写真とは、美術館やギャラリーのような展示空間の中でプリントとして展示されたり、写真集として編纂されたりして鑑賞に供されるものであり、写真を個人の制作物として価値あるものと認識し、鑑賞する行為に対して、積極的に時間を割き、対価を払う選択をする人が鑑賞者として想定されています。それに対して、この本で扱う「広告」は、商品やサービスの消費へと誘導する目的のために作られる表現物であり、見ることを積極的に選んでいなくても、自ずと視界の中に入ってくるようなもの、受動的に見させられているようなものも含まれます。

「作品」としての写真が、その価値を後世に伝えるために、プリントや書籍のような「もの」として作られ、鑑賞され、売買され、保管されるのに対して、広告は情報伝達の手段として、一時的な役割を果たせば取り替えられ、忘れられるような儚いものですが、その圧倒的な物量によって、見ていることを意識していないうちに、いつの間にかさまざまな人の脳内に価値観を刷り込むような役割を果たしています。時には存在することすら意識されていないイメージによって、どのような価値観が人々の中に刷り込まれているのか、いつしか私は関心を抱くようになりました。…(p2)”

2022年、日本の総広告費は7兆円越えだったらしい。この額は日本の公共事業や文教事業の各歳出を上回り、また現在の防衛費に匹敵する規模でもある。だからそれはある種インフラと同様、生活に浸透しているレベルだと捉えられる。そしてそれほどの大きな影響力を持つ事業に、しかし規制がほとんど行われていない実情がある。政治家の尾辻かな子さん(第7章)は大阪駅構内で張り出されたゲーム広告の問題を切口に、海外諸国の広告規制の動きなどを取り上げながら日本のメディアリテラシーの課題点を指摘している。実際、“日本の法律は、金儲けをしたい側、利益追求に偏っていて、消費者を守るようにはなっていない(p147)”ということを立法の側にいて痛感したという。

この問題には「公共空間への意識の低さ」が含まれている。ここに、”商品が売れれば良い、面白ければ良いという発想になりがち/代理店にすべて丸投げおんぶに抱っこ制作という構造/業界自体がおじさん社会であり、その偏った層が権威を握っていること” 等といった笛美さんの話(第6章)が重なってくる。つまり、私たちが日々浴びている視覚情報はかなり営利主義的なもので、かつその基盤の老朽化もリノベートされないまま現在に至っているということ。私たちは生活環境のインフラとして日々、水や電気を利用し、アスファルトで舗装された道路を歩いたりしているわけだけど、それと同じ規模でこうしたイメージも日々の視野に映り続けている。新聞やテレビ、PCやスマートフォンを通して、幼少の頃から現在にかけてずっと。

こうした構造の上に成り立つ、広告という「受動的に見せられるものが持つ力」。そしてそれが「理解」や「偏見」とも通じていると冒頭に書いた。このことは、著書の象徴的な項目である”脱毛広告”を例にすると分かりやすいかもしれない。”デキる男像”も然り、それらは「かくあるべし」を半脅迫的に刷り込む力を持っているわけだけど、これらは従って、”毛”や”デキない男”という存在を悪とする偏った価値観も生じさせていると言えるから。

僕にとって「偏見」が問題なのは、それが内在化した声として自身に降りかかるから。これまでとこれからの自分の生き方を否定する性質がそこには含まれていて、だから苦悩がある。そのせいで風景が限定的に見えたり、他者を断定的に見てしまうことの実感に、自分自身、なんというか、納得いかない感じがある。こうした「偏見」はいわば「社会の声」で、その構造が生産性に依拠しているから、自身に分裂的観点として内在していると今は捉えている。善悪に関わらず観点を複数持てるのは良いことだと考えてはいる。問題は、それによって自己が過剰に制限されるという、その実感だ。これは言い換えると、「なんであかんねん」「それでいいやん」といった自身の声や、同様の肯定をしてくれる知人友人の声が、どうしてこれほど弱められてしまうのかという問題になってくるのだけど、そこに今回の「広告」を結びつけることでヒントが見えてくる気がしている。

こうした問題に関連して、認知バイアス辞典(情報文化研究所 著)で読んだことも併せて書いておきたい。例えば、品川駅の住所は品川区と考えるのが自然だけど、実際は港区である。この判断方法(個別の事実に共通点を見つけ、一般的な結論を導き出す推論)を”帰納法”と呼び、またそうして起こる思い違いを”誤謬”と呼ぶ。認知科学は、人がなぜこうしたプロセスで思考を働かせるのかを研究しているらしい。

この本では論理学・認知科学・社会心理学という三つの観点からさまざまなバイアスが分析されている。例えば、流行や優勢なものに乗っかる心理はバンドワゴン効果(Bandwagon Effect)、未知のリスクを危惧して現状維持をとる心理はシステム正当化バイアス(System Justification Bias)と、日頃の行動心理、それ自体が一つの傾向に沿っていることが示されている。こうしたバイアスがなぜ稼働するのかの真相は定かじゃないけど、その方が脳のリソース的に楽になる、というのはありそうな気がする。

自分の意識であると認識できる感覚自体は、脳による既定のモニタリング(後追い)である、という話は前に受動意識仮説で触れた。じゃあそもそも、その意識以前にある行動の決定付けをもたらす要素はなんなのかという点に、テクノロジーとの相関性が思い浮かんでくる。それは、スマホや原発を手放せなくなった人々の意志の所在について、とも言えるだろうか。ハイデガーの技術論(森一郎 編訳の方)にあった一文を引用する。(以下、文中にある「挑発」という言葉は「かり立てる」という風に読んで良いと思う)

“人間自身が、自然エネルギーをむしり取るようにと、とうに挑発されているからこそ、徴用して顕現させるこのはたらきが生じうるのです。人間がそうするようにと挑発され、徴用して立てられているのであれば、人間もまた、徴用して立てられた物資に属しているのでは無いでしょうか。その証拠に、人材つまり人的資源という言葉が世に流通していますし、臨床例、つまり患者も資源のうち、といった言い方すら病院ではまかり通っています。山林で伐採された木材の測量に従事する森番は、見かけ上は、彼の祖父の頃と同じようにして同じ森の小道を通っていますが、今日では、本人が自覚しているか否かに関わらず、木材活用産業によって徴用して立てられているのです。森番は、セルロースの徴用可能性へと徴用して立てられており、セルロースはセルロースで、紙の需要によって挑発され、その紙自体は、新聞やグラビア雑誌用に配送して立てられるのです。では新聞雑誌はといえば、世論を駆り立てては印刷物をむさぶり読むようにさせ、徴用された世論がお膳立てされるのに向くように徴用可能となるのです。(p117-118)”

こうしたテクノロジーの舵を取るのは権威者な訳だけど、その権威者こそ最もそれに「徴用」された立場とも言える。「広告」の意志もその点で自律的にあって、だからそれも「権威」に作られているのではなく、そうした意志を超えた何かによって作らされている、とも言えるのではないか。そうした身元不明の情報に、そして私たちは影響を受けてしまう。

ユヴァル・ノア・ハラリが”人間はハック可能な動物(WIRED vol.32 P39)”と言っていたことを思い出す。ユーザー視聴時間の約70%がアルゴリズムによるレコメンドによるものだというyoutubeは良い例で、他にもカメラとスーパーコンピューターの組み合わせにより、顔の血管の脈動や瞳孔の拡大が読み取れ、そこからストレスレベルが検知できるという話もされている。この記事は2019年のものだから、生成AI台頭後の現在はきっと一層高度になっている。

そしてだからこそ必要なのは、自分自身をよく知ること(self-awareness)、そしてこのテクノロジー環境のことをよく知ること、という話でもあった。OSが自身のウイルス対策を日々アップデートするのと同様に、自分の頭も更新していかなくてはならない。自分はこの話を読んでいて、テクノロジーを自然環境として見立てることを想像する。ここまで書いてると、テクノロジーが絶対悪のようにも聞こえてしまうと思うのだけど、そうではない。要は「共生」ということだと考える。今回担当している著書の題に含まれた「観察」という言葉も、ここに結びついてくると思う。

引用しているWIREDの記事ではまた、組織活動に関わることの重要性も書かれていた。「広告」の問題も然り、その構造を転換させるような解決策は、個人で考えている限り途方も無いことだから。このこともまた「共生」であると思う。投票に行くとか、そうした政治参加が必須なのは言うまでもない。

四回にわたって行われた読書会は1月末に最終を迎え、自分の発表を無事(?)終えることもできた。振り返ってみれば、共通のテーマについてを複数の人達と考えた時間は、一人で同様のことをする時より学びが多かったように感じる。これは参加者の出自がさまざまだったことも大きい。自分は自身の写真を通しての人との関りが比較的多いけど、起点を本に置くことで関係性のチャンネルも変わるという実感は良い発見でもあった。

聞くこと、話すこと。を読んで (2)

ちょうどこの本を一度読み終えたあと、尹さんのウェブサイトを見ていたら近々大阪でワークショップを行うことが分かり、行ってきた。「閉じると開く」と題された内容で、前半は講義、後半は実際に身体を使った実践の時間だったのだけど、この身体を使うということに意外な発見があった。そのことについても書いておきたい。

当日は3つのパターンのそれを行ったのだけど、中でも「相手の手のひらを追いかける」というのが一番シンプルだったこともあり、余韻として強く残っている。その内容は、まずAとBが向かい合って座る。 次に、Aが手のひらを差し出し、Bはその上に手をのせる。そして、Aが手のひらを咄嗟に左右へ素早く動かすので、Bは手が相手から離れないようその動きを追う、というもの。実際にやってみると、Aが急に手を動かすわけなので、Bの手は若干遅れてAの手を追いかける格好になる、という当然の結果になる。

そして次に、Bが目を閉じた状態で、再び同じことを行う。するとなぜかBの反応の遅れがなくなる。Aの手の咄嗟の動きに対して、不思議とBの手がぴたりと連動するのだ。Bは相手の動きが見えないわけだから、相手の手がどこに行ったか分からなくなったりと、余計にうまくいかなくなると思いきや、なぜかそうはならない。当日は十数人の参加者がいて、それぞれがペアになって同じことを行っていたけど、みんなも同じ体験をしていたようだった。

これは多分、目で見て追おうとする意識による動作より、身体自体の反射に任せる方が反応が早い、ということなんだと思う。そうなんとなく合点がいくのは、過去に読んだ「脳はなぜ「心」を作ったのか(前野隆司 著)」に書かれていた受動意識仮説を思い出すから。1983年のその研究実験では、動こうと本人が意識するよりも0.35秒早く、大脳の随意運動野という場所から電気信号が発生しているということが分かったらしい。この結果が示しているのは、僕らは普段自らの行動を自身の意識で決定してると思ってるけど、実はそうではなく、行動は意識される以前に脳で決定されてるということ。自分の意識が全ての行動を決めてるという実感は錯覚というわけだ。意識下で起きているのは、だから判断といった能動的な感覚というよりも、そうした意識のめぐりを観測する受動的な機能と言った方がいいのかもしれない。

でも僕らは普段の行動を自身の意識によることだと感じている。それは「脳がある種のつじつま合わせを行なっているから」と書かれていた。どうしてそんな錯覚が起きるのかは、よくわからない(過去にここに書いた”責任と帰責”の話から心当たる事もあるけど、今回は深く触れない)。けど人間の感覚はそもそも錯覚だらけなのも事実。例えば網膜で受けた光が第一次視覚野に届くのに0.05秒、鼓膜に受けた音が第一次聴覚野に届くのに0.02秒らしいけど、僕らはそれを体感的に同時に(場合によっては光の方が早く)感じる。脳の時間解像度は0.01秒というから、その差分は感じ取れてもいいはずなのに。あと「錯視」と検索すれば、目で見えている実物に対して僕らは日常的にいろんな錯覚をいだいていることも分かる。

ともかく今回の体験を通して思ったのは、自分の身体は能動の意識が先行してめぐってるということ。「目で見て追うぞという意識がかえって身体本来の反応を邪魔している」という実感は、言い換えれば「本来の受動的な感覚は、思っていた以上に能動の意識によって覆い被されている」ということだ。

じゃあここで言う「能動の意識」とは一体なんなんだろうか。そこで言語の多くを担っている”警告、指示、命令”のことを思い出してみる。これらは常に他者へ向けて放つ/他者から放たれてくるものだから、典型的な能動の言葉だと言える。そしてこの性質によって社会のルールも作られている。狩猟や農耕も、なにかしらの連携や伝達が必要な技術だろうから、集団で生きる人間の生存にとってこの能動の機能は欠かせないとも言えそう。つまり社会性の生物として生きる上で、この性質は内在化せざるを得ない。これは言い換えれば、社会の声は個人にやどるということだ。自分はここから、「紀元前9000年頃、エイナンの王はその死後も民の中で幻覚となって相変わらず命令を下した」という話(神々の沈黙p176)や、「およそ150人が自然なコミュニティの限界値であるというサピエンスが認知革命によって虚構を獲得した結果としてのプジョー伝説」(サピエンス全史上巻p42-43)なんかを連想する。

近現代に入って人口の桁数も増加するに伴い、たとえば法律が重層化されたりと、社会の声としての”警告、指示、命令”は一層強く、また複雑化している。日本の自殺者数は内戦規模であるという話も当著には書かれていたけど、それはここで言う「社会の声」が他者、ひいては自己をも批判する構造に根差しているからとも言える気がしてくる。

ただ今回、身体をつかった実践での気付きにもあったように、能動的な感覚が自身のすべてではない。それよりもさらに深いところに、身体がもつ受動的な感覚があり、それもまた様々な「声」を持っている。そしてコミュニケーションの本来は、きっとそこから生じている。「聞くこと、話すこと。」において、このことを覚えておきたい。

余談だけど、こうした能動的な言語構造が、自分たちに様々なバーチャル(仮想)を見せているとも言える気がしている。このことをベースに、ドナルド・ホフマンやノーレット・ランダーシュを再読すべきかも。