いつぞやかに千葉雅也さんがXで「日常の出来事や、そこで展開された関係性や感情の割り切れない複雑さを、要するに、と切り捨てるのではなく丁寧にデッサンするような日記を書くこと」を勧める投稿をしていた。それを継続することで思考が単純では無くなる、と。一時だけだが、自分もそういう事をしていた事があった。そしてあの時の感覚は、ここで言われている「デッサン」という言葉によって腑に落ちる気がした。自分は文筆の人間でもなんでもないが、過去、この作業を継続していた時があって、その時感じていた感覚の変化のことを思い出し、またやってみる価値についてが頭の片隅にはしばしあった。やっていた当時は、なんというか、日常を普段よりも理性的にみれていた感があった。普段、頭では分かってるけど咄嗟の反応ではうまくいかない、みたいなことがよくある。そういうことが少し減ってた気がする、というか。明日、阪東さんと水野さんのトークショーに参加することになっていて、しかし世代も作風も違うなかで自分が話せることはなんだろうとなり、あらためて二人の写真について振り返ってみようと思い至り、これを書き始めた中で冒頭の千葉さんの件を思い出した。このブログはあまり誰もアクセスしないような場所にリンクしてあるし、そもそもそのリンク自体も入れたり消したりしているという、公開意欲がかなり不安定な場である。そんなことを地味に10年以上続けている。続けていると言っても更新はかなり不定期。下書き止まりや、削除した投稿も数知れない。1年近く全く触ってなかった期間もあった気もする。ただそれでもおそらく、今後も自分には必要な場となっていく気がしている。今朝は6時頃に目が覚めた。この季節の目覚めはいつも決まって鼻が詰まり気味で、おそらく眠っている間に落ちてきて喉に絡みついている感じも不快。今週はじめからずっと微熱がある。そのせいなのか花粉のせいなのかは分からない。昨晩は大阪の実家に帰っていて、23時頃には寝ようとしたけど、隣の部屋で既に眠っている母のいびきと寝言が丸聞こえで耳につき、結局一睡もできないまま学校へ向かっていたから、身体はまだ重たい感じがする。朝陽に背を向け再び目を閉じ、10時になってやっと身体が元にもどった感じがした。昨日投稿したインスタグラムには3人が反応してくれている。明日に控えている例の件に際して募集したおたよりだった。二人の唯一の共通の知人ということもあって声をかけてもらい、そこから自分ができる唯一の一つはラジオではとなり、提案してみたところ二人も乗ってくれたのだった。二人の写真についてをこの場であらためて考えてみる。二人は同校同学年で、カラーフィルムのスナップ、また日常が舞台になっているという点が共通している。またいわゆるストリートスナップのそれとは違って、瞬間というよりは場面場面を写してる感じである。ぱっと眺める感じだと、何気ない日常のシーンだなという印象。その中で水野さんは比較的、対象を発見的に撮っている傾向を感じる。派手さは無い。日々の中での風景との出会いをぽつぽつと集めていっているというか。阪東さんはどこか内面の投影のようにも見える。発見的というよりも、内側にある何かと場面とが呼応した時にシャッターを押してる感じというか。人は写ってるけど表情が見えなかったりするし、しばしばある逆光からはノスタルジーもやっぱり感じるし。こんなことを書きながらしばらくしてタイプする指は止まった。そして今回の写真展は、実は写真自体についてをとやかくと言うような機会ではないのかもしれないと思った。まだ展示自体も観てないし。世情に山積する社会の問題も彼女たちは意識していて、おたよりテーマはその上で決まったものでもあった。写真とは一見関連性が無い、けれどもその根底にある態度の話を膨らませていけたらいいのかもしれない。11時過ぎ、念のため近所の耳鼻科で診療を受ける。「男の人は微熱でも大騒ぎする生物なんです」「三保谷さん元気ないのはいつも通りやね」待合室まで響き渡る声量で今日も快活に話す先生にじわじわと好感を抱いている。