2016.01.08

夜中のいつもの帰り道。道路沿いのゴミ置場からガサガサと音が聞こえる。ゴミ袋の山の中で人の背中が街灯に浮かんでいる。ゴミを漁っているようだ。よく見るとその漁る人のちょうど後ろに黒い野良犬もいる。黒い野良犬がワンと吠える。漁る人はビクッと驚き振り返る。黒い野良犬は慌てた様子でゴミの一つをくわえて逃げる。漁る人は「うるさいなあ」と言いながら目の前のゴミ袋を開ける。すると中からフライドポテトが大量に吹き出る。ちょうど一人の青年がゴミを出しに来たところだった。そして青年はフライドポテトまみれになる。茫然とした様子の青年に漁る人は「幸せだろ? 」と言う。 青年はゴミと、それから百円玉を手渡す。漁る人はそれを受け取るとおつりと領収書を渡す。漁る人は路上で暮らしながらゴミの受付と分別の管理を請負っている。領収書の控えと受け取った小銭を黒い革の財布にしまう。小銭入れのボタンをパチンととめる。その音と親指の感触で、この黒い革の財布は僕が13歳の頃からずっと使っていたもので、ここで漁る人は自分自身だということに気付く。そして目が覚める。昨日見た夢。

2015.09.10

家の猫が出産したのだけど産まれたこどもはみんな死んでしまった。そして子猫は近くのところに埋めた。というメールを仕事中に受け取った時に、僕はとても楽しみにしてただけでそうなることを想像してなかった動揺と、埋めるのに立ちあえなかったこと、その子猫を見れなかったことに憤りを感じてた。言うまでもなく悲しい。母親も同じで、それからかなり困惑もしてたようで、その日夜遅くに家に帰ると「埋めてしまったことを後悔している、やっぱり火葬してあげたい」と言うので一緒に掘りおこしにいくことにした。一度埋めたものを掘り起こすのは気が引けるけど、母親も病気で精神が不安定になってるのは分かってるし、自分自身子猫を目にしておきたい気持ち、埋葬方法にはいろいろな考え方があると思うけど火葬は祖父も同じ方法だったし、家の庭でもないどうなるかわからない場所に埋めておくよりはその方が良いのかもしれないと思った。

深夜に近所の河川敷までしばらく歩くとここだと言うので、携帯のライトを点けてしゃがんで土を掘る母親の少し後ろに立ち、削られていく地面を見つめる。しばらくしてくるまれたタオルが出てきて、合わせて4つ、なかに入っていた子猫は自分の手の指二本分ぐらいでとても小さくかわいかった。思わず頬がゆるんで、同時にとても暗い気持ちになる。皆うっすらと灰色の毛が生えていて、口が少し開いて、目は閉じていた。家の猫はあいかわらず人懐っこく健康な様子で、ただとても小さい猫で産道が狭いせいか産まれるのに時間がかかり窒息してしまったということだった。出産が始まった時は母と妹が何時間もつきっきりだったらしい。

家の猫は子猫の頃から今までまだ3年くらいなのに母親になろうとしてた。佇まいも少し変わってるようにも思う。過去にいた犬は10数年生きて死んだ。最初は僕と同じ子供だったのに僕が大人になる頃にはもう老いていてやがて息をひきとっていった。自分と犬との生のサイクルのギャップ、同じ時間の中にいてもその流れ方がおおきく違う。そういうことを思い返しすこし不思議な気持ちにもなった。

2012.10.05

久々にスタジオ5に行くと「おもしろいものがある」と勢井さんがガラス乾板を見せてくれた。戦前に撮られた集合写真なんだそうで、年に1、2回、こうしたネガも未だ持ち込まれることがあるらしい。。白いカビ(?)が生えてきてたりといった年季も手伝ってか、誰かの大切な記憶の断片という重みが、そのネガという原本の質量にしっかり含まれてるよう。デジタルがこれからどんな風に発展していくのかは分からないけど、少なくとも銀塩にある物質感や、うまく言えないけど温度感、そういうものは、記憶を記録するメディアとしてかけがえ無いものなんだと改めて感じました。写真はスタジオ5内に貼ってある猫。いつも眺めてしまう…