大人になって年をかさねるほどルーティンができていく。ルーティンが思考を固めるし、時間の流れを加速させもする。

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スマホはいつでもどこでも見れるし、スマホを通して色んな人の色んなことが見れる。これはやっぱりよくないんじゃないか。プライベートな空間としての自分の部屋の中で、他人の発信をみることは、その他人が自分のプライベートな空間に入り込んでくることでもあると感じる。自分は誰でも家に入れたいとは思わない。SNSは一見多様な空間のようで、個々の繋がりは閉鎖的であることがほとんど。スマホはそのことを日常に助長させる。操作の直感性にもよって、日々の行動の一部へと一体化させる。今更なことでもあるが、もっと意識的にならねば…

2017.12.02

駅で電車を待っている人たちの多くの視線はスマートフォンに向いている。操作や鑑賞に夢中になっている様子を観ていると、まるで人々が(少なくともその意識は)スマートフォンに吸い込まれていっているように見えた。バイトでVRの体験案内をしていると、体験する人たちは、若い人ほどその仮想現実に意識を自然と委ねる傾向が伺える。たまたまバイト先で観た大手自動車製造工場の現場では、むしろ人が機械の補助をしているような風景があった。人工的につくられた、人間の知性によるそれらのものは、いまや僕らの生活に欠かせない。その”欠かせなさ”というのが、実は僕らに潜伏する菌的ななにかで、一見人間がそれを創り、発展させているように見えて、本当は宿主として利用されていて、欠かせなくなっている、というところまで、そのなにかは順調に増殖してきているんじゃないか。そんなことを想像した。

AIは人類という種の子孫で、やがて星を継ぐものになる、みたいな話がずっと頭に残っている。確かに将来脳や肉体に代わるなにかしらが実用的に生まれ、やがて人による操作からの自立もはじまりそう。それは人類の全知を標準装備しているから、それがなにに悩み、なにを思うかを想像できない領域も当然できてくる。犬や猫がなにを考えているのか僕らが完全には把握できないことと同様に。地球が寿命によって、あるいは隕石の衝突とかで消滅するような出来事が訪れた場合でも、肉体という制約の無いAIは生き延びられる可能性がおおいにある。だから人間に思いを託されて、例えばロケットでどこか遠く四方八方へ飛ばされると、着陸したどこかで繁栄を開始できるグループもありそう。それはまるで人類が想像する生命の起源の話に舞い戻るようでもある。

橋本大和さんの作品を購入

先日ギャラリーソラリスで開催されていた展覧会で、橋本大和さんの作品を購入。展示されていた作品は、全体的に興味をそそられるものばかりだった。中でもこの一枚は、まずイメージの鮮烈さに惹かれた。その形象と色彩の組み合わせと佇まいから、まるで異様な生き物(まるで深海でゆらゆらとゆらめいてそうな)のように感じられるところ。実際にそれは、頭の無いマネキンに飾られた仮面と孔雀の羽なのだけど、だからといって不可解さが残る。そこにあたっている光がまたとてもきれい。相まってか、どこか感じるノスタルジックな空気も良い。

ここまでなら、ほかにも同じくらい魅力を感じる作品が多くあった。他の写真とこの一枚の大きな違いは、撮影者自身も写っているというところ。ディスプレイされた対象とカメラとを隔たるガラスに、カメラを縦位置に構える橋本さんの姿がみえる。それは「誰かがいまこれを写した」ということが写っているということ。

はじめに展示で見た時にはこの映り込みに気付いてなくて、二回目に気付いたのだけど、その瞬間に今までには感じたことがない類の「ビビビッ」が起きた。それまでは「良い」と感じていた。その「良い」という答えが成立していた頭の中の数式に、ビビビッと変数「x」が出現したことで、瞬間に答えが「?」になった感じ。分かっていたものが分からなくなった。その要因になる「x」という謎に対する興味が決め手になった。

作品というものを買ったことは、過去に震災があった時、チャリティー展で出されていた安価なものを購入したぐらい(それもとても気に入っていてずっと飾っている)。だから今回買う時は、価格的にもちょっと緊張したところがあった。それでも、世の中で流通している「作品」、少なくとも若手というカテゴリからみた価格帯を大体ながら把握していたし、小山登美夫さんの本を読んだことも手伝って購入に踏み切れたのだと思う。「作品を買う」ということ自体への興味がずっとあったし、ある方へのご恩のことが強く後押しにもなっている。

これが五年前の自分だったら、買わなかった(買えなかった)だろうと思うけど今は感覚も変わったということなんだと思う。けれど変わる前の感覚も大事に忘れないようにして、一方的にならないようにしながら作品というものの価値を考えることも続けていきたいです。