2015.09.10

家の猫が出産したのだけど産まれたこどもはみんな死んでしまった。そして子猫は近くのところに埋めた。というメールを仕事中に受け取った時に、僕はとても楽しみにしてただけでそうなることを想像してなかった動揺と、埋めるのに立ちあえなかったこと、その子猫を見れなかったことに憤りを感じてた。言うまでもなく悲しい。母親も同じで、それからかなり困惑もしてたようで、その日夜遅くに家に帰ると「埋めてしまったことを後悔している、やっぱり火葬してあげたい」と言うので一緒に掘りおこしにいくことにした。一度埋めたものを掘り起こすのは気が引けるけど、母親も病気で精神が不安定になってるのは分かってるし、自分自身子猫を目にしておきたい気持ち、埋葬方法にはいろいろな考え方があると思うけど火葬は祖父も同じ方法だったし、家の庭でもないどうなるかわからない場所に埋めておくよりはその方が良いのかもしれないと思った。

深夜に近所の河川敷までしばらく歩くとここだと言うので、携帯のライトを点けてしゃがんで土を掘る母親の少し後ろに立ち、削られていく地面を見つめる。しばらくしてくるまれたタオルが出てきて、合わせて4つ、なかに入っていた子猫は自分の手の指二本分ぐらいでとても小さくかわいかった。思わず頬がゆるんで、同時にとても暗い気持ちになる。皆うっすらと灰色の毛が生えていて、口が少し開いて、目は閉じていた。家の猫はあいかわらず人懐っこく健康な様子で、ただとても小さい猫で産道が狭いせいか産まれるのに時間がかかり窒息してしまったということだった。出産が始まった時は母と妹が何時間もつきっきりだったらしい。

家の猫は子猫の頃から今までまだ3年くらいなのに母親になろうとしてた。佇まいも少し変わってるようにも思う。過去にいた犬は10数年生きて死んだ。最初は僕と同じ子供だったのに僕が大人になる頃にはもう老いていてやがて息をひきとっていった。自分と犬との生のサイクルのギャップ、同じ時間の中にいてもその流れ方がおおきく違う。そういうことを思い返しすこし不思議な気持ちにもなった。

caloでみた山下望さんの個展「window (see more)」

caloでみた山下望さんの個展「window (see more)」は写真を使ったインスタレーション。前回、かなり大きな会場だったMIOと比べると、こじんまりしたギャラリースペースも相まって「部屋のなか感」がより仕上がってるように感じた。ところ構わずペタペタと貼られたシールや、床に散乱するように置かれた雑貨類、壁に直貼りされた写真にのこる少しのシワ。それらは無造作のようで、なぜか作品としての雑さを感じないところには毎度関心させられる。むしろこの部屋の住人の息づかいのようなものを、よりリアルに感じられた気がした。こうして打ち明けられた「秘密」は、そのまま鑑賞者との「内緒」になる。…かもしれない。そんな歩み寄りのようなものも感じる。

「これが私」や「私をみて」というような類の写真も、前の記事に書いた「私」的なものと同様に多くて、こちらも敬遠しがち。そもそも基本的に人って、さほど他人に、それもわざわざ写真を介してまで興味を持つことは少ないと思う。一方的すぎるから客観的価値が生まれにくいのかな。別にそれはそれで良いのかもしれないけど。

ただ、じゃあ山下さんが表現する「私」はどうなのかと言うと、先に述べた類に近い主張だし、その押し(?)はかなり強い方だと思う。けど、おかげで魅力性は高まってるようにも感じるから不思議。ぐっと迫ってくるものがあるけど暴力的じゃ無いし、それこそ少年少女の無邪気さに似た気質みたいなものがある。無邪気、という言葉を辞書でみたら、思慮に欠けるという意味も含まれてたけど、それはあどけなさでもあって、偽りのない素直さはみていてとても心地よかったです。

余談ながら、山下さんもテーマの重心にあるのが「私」だけど、上田さんのそれとはまた違った種類のもの。展示形態といい、その共通点と相違点の関係がちょっと面白いなぁとも思った。

マリアーネさんの個展「風の化石― Wind Fossil」

マリアーネさんの個展「風の化石― Wind Fossil」を観に西区新町のstudio Jへ。たたずまいの静けさと奇怪さ、くわえて臓器的な印象から深海生物なんかを彷彿させられるそれは、毛や皮膚のさらに内側にあって、けど骨や筋肉でもない、人が持つもっともやわらかい部分で、エロチシズムという言葉もたしかに似合う。その言葉の内部には、観る人によっては不快を与えかねないほどの生々しさと、慈愛に満ちた安らぎとが同居してるようにも感じる。

顔を近づけてみてみると、ものすごく繊細なタッチで描き出されてることが分かる。反対に一歩引いてみると、さっきまで奇怪に見えていたそれは、なんだかとても身近なもののようにもみえた。例えばフライヤーの表紙にもなってる作品で言えば、籠に入った玉ねぎのようにもみえないこともない。驚くほど細密な描写と、日常的ななにかのシルエット。この二つの要素が、現実ではありえないイメージに、まるで実存するかのような妙なリアルさを与えてるのかもしれない。そのリアルさは、観る側をさらに惹きこんでいくかと思うと、いつの間にか心理に浸透するしたたかさを含んだ力がある。

描かれたそれが性器であることはある種明確に意識されているようだった。そしてそれは、現代のメディアで映すことは決して許されないものでもある。それから、(浅い知識ながら)いわゆるその”タブー”を発表して批判の標的になる写真家がこれまでにもたくさんいたことも知ってる。その人達がのこした”タブー”をみて実際自分もたじろぎ、思わず目をそむけてしまった記憶もある。でも、なんでそうなってしまうんだろう…?そもそも性器に限らず”タブー”はなんで”タブー”として取り扱われてしまうのか?その理由の本質を自分なりに消化したい。そこに消極的になってはいけないような気がする。マリアーネさんが生み出す神秘的な生物達は、その解釈への一つの糸口になってくれる予感もある。

パトリシア・ボズワーズ「炎のごとく-写真家ダイアン・アーバス」から

「わたしはダイアンに奇形者をロマンチックに見てはいけないと言った。いわゆる『健常者』と同様、奇形者の中にもつまらない人間とごく当たり前の人間がいる。わたしは髭女のオルガに興味をひかれたのは、彼女が速記者になることを夢見ていて窓辺にはゼラニウムの鉢を置いていることだったし、以前インタビューしたことのある四百五十ポンドのレスラーにしても、生まれ故郷のウクライナを恋しがっておいおい泣いていたことに惹かれたのだという話をした」
(パトリシア・ボズワーズ「炎のごとく-写真家ダイアン・アーバス」から)

Birdie Photo Galleryにてカマウチヒデキ写真展#3「Book of Monochrome」

神戸本町Birdie Photo Galleryにてカマウチヒデキ写真展#3「Book of Monochrome」。路頭でのスナップを中心に構成されていてその名の通りモノクロの展示。展示のテーマ(”ノスタルジー”のこと)と、一部かなり前に撮られたものであるのを知ってる写真もあったので、展示全体の撮影期間の範囲はかなり広そうなことを察する。でももし本当にそうならその撮影期間に比例したスケール感(集大成感?)があってもいいはずなのに、それは感じない。ここで言う”スケール感”を構成する要素には一つ、時間軸の連なりがあるのだと思うけど、通常、連なって縦に高くそびえ立っていくはずのそれは小口切りで均等に解体されてるかのよう。写真の「流れ」を注意深く回避されてるようにも思えて、写真個々とそれを通した全体像へ意識が傾く。

例外は勿論あるだろうけど、長年写真を撮っていればその時々で思想やテンションは多少なりとも違ってるものだと思う。写真をまとめる時にはそういった意識面が基準になることは多いし、だから過去の写真と今の写真をまとめられないことも多いのだと思う。今回のこの”均等に切り分けられた写真群”にも、それぞれその時々の思想・テンションがやっぱり含まれてるから本来、一皿の器に盛りつけるのは不可能なことのように思える。

今回の展示は、そもそもそれとは別次元に「モノクローム」という判断基準を設けることで、思想やテンションといった”ノスタルジー”という束縛から逃れ、あらたな世界を編むという、実はわりとシンプルな試みだったとも言えるのかもしれない。ただその個々の写真に含まれる経験値に比例して、完成系へもっていくことは間違いなく難しくなる。多種多様な生態をもった厳かな生き物達をひとつの動物園におさめるようなもので、そこには専門的な知識は勿論、相当に綿密な立案が求められる。

カマウチさんは見事にそれを成し遂げてるように僕は感じて、結果、本来集結するはずのなかった個々が、モノクロームという共同体のなかで、まるで新生活をはじめているかのようだった。再度生を与えられた個々はそれぞれが干渉することなく自由に息づいていて、その光景は真新しく奇妙でとても感銘を受ける。