Masashi Mihotani

2020年4月-5月にかけて開催されたPICTURE展に寄せた文章


今回のPICTURE展に写真で関わっている三保谷将史(みほたにまさし)です。この展覧会は、美術家・城下浩伺が描いた絵を、カメラで撮影し、写真として出力する、というプロセスがあります。僕はその写真で関わっています。


今作の浩伺さんの絵は、長い時間を掛けて緻密に描かれる普段のシリーズとは対象的に、ものの数分で次々と描かれていきます。筆と墨汁によって描き終えられた直後のその絵は、ちょっとでも動かすと絵全体が流れ動いてしまうほど、紙に吸収されるもしくは蒸発待ちの水分たちがまだゆるゆると表面張力している状態。「この瞬間を表現できないかと、家で描いている時よく思っていた」と聞いていた僕は、なるほどこういう事かと思いながら、卓上の新鮮なそれをカメラと一緒に眺めていました。


スタジオの蛍光灯の下、その黒く瑞々しい絵の表面から全方向にはね返る光たちの中で、ある一点に置かれたレンズは、そこへのみ反射してくる光を収束し、二次元の像として記録する。結果を満足してくれている様子の浩伺さんを見て、ただシャッターボタンを押しているだけな気分だった僕は少しほっとしていたのでした。そうこうしている間にパンデミックが起こり、街中の施設は軒並み扉を閉めていきます。同じ頃、僕自身は別でアートフェアに参加する予定だったのですが、それも搬入前日に開催中止の連絡がありました。対岸の火事のように思っていたこの事態の大きさの実感は、フェアの会場入り口で「中止」と大きく書かれた看板を実際に見た頃からようやく芽生え始めます。その時が2月の末。再来月に控えていたこのPICTURE展の事も頭によぎりはじめていました。


そのさなかで、インターネットを活用する動きが活発化していく訳ですが、「だから我々も」ではなく「いまなにができるか」という思いから、浩伺さんはオンラインへ舵を切ります。僕はその時に、今展覧会の背景にあった「どこまでが絵で、どこからが絵でなくなるのか」という言葉が、あらためて立ち上がってきた気がしていました。


液晶画面という、現代の私たちにとって馴染み深いレイヤーは、日常的にネットやSNSを使う浩伺さんにとっても当然例外ではないということ。物質としての絵画/写真の置かれたフィジカルな三次元と並行して、その発光する膜が持つリアリティは私たちの日常に深く浸透している。またそれは言わずもがな、私たちの視覚自体にも大きな影響を与えていると思います。ある種それは、言語的な感覚とも似ているような気がしています。デジタルという国の誕生と繁栄に準じて培われてきている共感覚とでもいうか。(だから、例えばそれはある程度後天的に学ぶ事もできるし、ジェネレーションギャップがあったりもする)


一方で、僕らが現実の風景を見る時、その視界は遠近法的な構図でもって捉えられている。風景は手前であるほどすぼみ、遠くにいくほど広がる。つまり遠くにあるものは小さいし、手前にあるものは大きく見える、、現代の私たちにとって当たり前すぎる常識的な感覚です。他方で、それはカメラオブスキュラ、引いては木漏れ日に映る太陽の姿を見とったアリストテレスの時代に芽を出した風景の捉え方とも言われている。幾何や光学の発展に順じて、ヒトの視覚にも変遷があったという話。常識や価値観等ならともかく、肉眼での見え方にも感覚的な違いがあったなんて事は、にわかに信じがたいかもしれませんが、もしかすると絵画史はその語り部とも言えるのかもしれません。


「絵画とは?」を僕は詳しくありません。ただ写真という技術が誕生したとされる約200年前、さらにその過去へと歴史を潜ってみるとすぐ、たくさんの絵を描く人々の姿が見えてきます。そしてそこではまだ「写真」は無いはずなのに、絵を描く人々はその単語を知ってます。どういうことか? 当時の「写真」という言葉は「姿を写し取る」といった意味で使われていたからだそうです。当時の”真”という文字は”すがた”を意味し、たとえば肖像画などを主に写真と呼んでいた。つまり「写真」とは「絵画」そのものだった。諸説あるみたいですが、その時代から地続き的に、また派生的に誕生した化学技術としての「写真」は、デジタルカメラの全盛を経て、誰もがポケットに携えるようになり、そして動画やVR、人工知能との融合など、テクノロジーの進化と共に様々に派生展開しています。


現在は、液晶画面を通してなにかを見るということの過渡期で、世界中を包みこんでいるこの奇妙な時間によって、前述したデジタルという国の勢力も加速度的に広がっている。だったら仮に100年後、地球上の人類すべてがいわゆるデジタルネイティブになっていたら、「画面でみる」なんて言葉は死語を通り越して通じなくなってるかもしれません(そもそも”言語”のあり方自体が今と同じようにあるのかさえ謎)。だったらそれは一体どんな感覚になっているんだろう。


なにかしらの「再生」のためのデバイスだったものが、身体感覚として備わった時に、ネイティブな言語として「表現」されはじめるのだとしたら?僕たちが絵や写真やスマートフォンを見ている「目」も、五億年以上も前の頃は光をエネルギーとして受容する細胞組織の一つでしかなかったらしい。光の有無をただ感じるのみの単機能だったものから、のちに「視覚」が誕生すると生物界のバランスが激変し、多様な進化をうながす強い淘汰圧にもなった。


浩伺さんの作品と今の現状は、そうして一枚の絵がいかに見られるかということの果てしなさをはかる試金石のようなものとも言えるのかもしれない。あるいは逆?いずれにしても、僕自身はそこに表れるものを見てみたいと思っています。


今回の展示の機会を通して、あらためて「写真って?」を考えています。この記事をここまで読んで下さっていたらお分かりいただけるかもしれませんが、それは今回の展覧会のテーマである「絵画とは?」という浩伺さんの問いと重なるものです。今の現状が半ば僕たちに強制する鑑賞形態は、単なる情報の再生ではなく、複眼的に捉えることができる新しいチャンネルの示唆。その事によってどう見えてくるかという問題もまた、両者の問いと入れ子する。


はっきり言って現状の展示状態では、それを示すことはできていないと感じています。ただ少なくとも僕個人にとって、それを考える確実なきっかけにもなっています。こうして発表されているからこそ、様々なリアクションも受け入れていきながら、理解を更新していきたいなと思っています。




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