初めての一人海外

先日までマニラ、台北、バンコクと廻っていた。人生迷走閾値に達したことがトリガーになり、以前一度フィリピンに行って以来思いを馳せてたことに、作品集を海外へも渡らせたいという気持ちが後押しとなって。3週間ほど過ごした中年初めての一人海外という時間は日々事件の連続で、良い事悪い事が雑多にあり、書き残したいことはたくさんあるけど、色んな人と交流した時間が一番しんみりとある。それは道端で一言言葉を交わしただけの人達も含めて。

マニラではとりわけ自分が普段よりオープンマインドになってる感があった。初一人海外での高揚もあっただろうし、現地の人々の南国的な気質に影響も受けていたのかもしれない。一方それに関して、現地の生活に浸透するテクノロジーとの相関性も思っていた。例えば信号機が無いから走ってくる車に手をさっとあげて道路を渡ったり、駅に券売機が無いから行きたい駅を口頭で伝えて言われたペソを支払ったりする。グーグルマップがしばしばあてにならず毎日のように人に道を尋ねていたけど、大阪に戻りふと駅で道に迷った時、訪ねても自分で調べろよって思われるかな…となって結局ポケットからスマホを出していた。暮らしを便利で円滑にする技術は他方で、人一人ひとりが接しあうキッカケを減らしてもいく。そしてそのことが人自体をも変質させている。あっちは日本よりもここでいう技術の浸透具合は浅い。だから当時の自分は開けていたし、出会った人々もまた同じようだった、とも言えるのかもしれない。

「利他」とは何かという本で中島岳志さんが、インドで重い荷物を持って必死に階段を登っていたら手伝ってくれた人がいて、精一杯の感謝を伝えると、逆にムッとして去っていったという話があった。当たり前のことをしただけ(”純粋な贈与”)なのに異様に礼を言われるから(それが”交換”になってしまい)変な気持ちになった、みたいな話だったと記憶している。もともと純粋な利他は半ば自動的に作動するもの、つまり人の意志の外側にあって自然環境のように機能しているメカニズムであるとも言えるのかもしれず、片や様々な物事を人の意志に落とし込もうとしてきている近現代だからそこに軋轢が起きる。時にそれが感謝を伝える言葉だったとしても。思えば”言葉”も複雑な技術だし、その上に幾多の物事が成り立っている。そして僕は現地語も英語もできない身だったから、言葉以前の領域でのコミュニケーションもしばしば起きていた。人々との一瞬一瞬の関りの余韻にある温度的なものは、そういうところからも来てるのかも。

マニラの巨大なショッピングモールに足を踏み入れた時の”安心感”にも驚いたり。慣れない海外という、また日本と比べて治安が良いとは言えない感じの環境下で突如訪れる安心感は、自分が日本でよく知っているそれとここは同じ空間である、というユニバーサルを、視覚的に察知したからなのかなと。無論それもテクノロジーの歯車の元に駆動し自律的に波及している(そこでsimカード買って設定に難儀してたら各店舗から4人ぐらいわらわら集まってきて皆で助けてくれた。モールなのに昔の商店街みたいな空気だった)。

今回2000円ぐらいで買った華奢なカートに作品集40冊を詰めた段ボール箱を縛り付けて歩いていた。これは7年前に東京でティッシュ配りしてた際、同じスタイルで大量のポケットティッシュ入り段ボールを運び歩いていたことに由来するある種の一人ボケだった。各国の空港でも行き交う人々は皆スーツケースで、このスタイルは一人も見かけなかったのに、ツッコんでくれる人とは出会えなかった。でも本は幾つかの書店で扱ってもらえる事になり、雑誌で特集してもらえる事にもなりそうだし、飲み屋で絡まれた酔っ払いのおじさんにも多分喜んでもらえてたので良かった。

環世界とイメージメイキング

東京都写真美術館のポッドキャストを聴いて、原島大輔さんの環世界とイメージメイキングの話がとても印象に残っている。環世界というと、20世紀初頭の生物学者ユクスキュルが提唱した考え方。端的に言えば生物が各々のパースペクティブを持ち、その中で生きている世界観を言っている。自分達が様々な生物と共生しているという事は、よく知っているつもりだけど、その時イメージされるのは自分を含めた幾多の生物が並んだ一枚のマップのような感じだと思う。しかしそこで環世界の考え方を踏まえると、その一つ一つの生物自体に(アクセスするようにして)成り、その生物自体の視点から見えてくる風景が指向されるようになる。

この時、生物個々にイメージメイキングが存ることが見えてくる。生物が持つ視覚、それ以外の知覚、そしてその生物が生きる為に関係する、周辺の事物との関わり。その全てとのまじわりが、個々のイメージメイキングを生じさせている。

こうした、生命とその生命が関連する事物のことを、西垣通さんの基礎情報学では”Information”と呼ぶらしい。本来「情報」という意味で理解されている単語だけど、その根源的な意味は、生命にとって欠かせないもの、ということになってくる。言い方を変えればそれは、その生命自体を内側から形成しているもの、つまりは”In – Formation”である、ということだった。(西垣通さんはそれを生命情報と呼んでいる。)

原島さんはこう続ける「…そこではつまり言語のような社会情報とか、あるいはデジタルデータのような機械情報は、いずれも元々は生命情報、すなわち生き物にとっての意味、価値として算出された情報。これが抽象化されることで発生されたものであると考えられる。」

ポッドキャスト内ではもう一つ、「技術/テクノロジー」についても言及される。この時テクノロジーという言葉に注意されるのは、それがすなわち西洋近代技術であり、その発展の結果として人は自然が資源にしか見えなくなっているという事や、テクノロジーの進歩は自己発展的であり、人間はそれに巻き込まれているだけという事。テクノロジーによってモノの見方が拡張しているようで、実はそれに規定されている、といったことも語られる。その文脈においては写真も、主体が対象物を観察するということが、その最も一般的な用途としてある。その上で原島さんは、レーザーでのスキャニングが扱われている藤幡さんの作品についてを、写真の一般的なイメージメイキングとの相対化として捉え、そしてその相対化によって、日頃の自分自身のイメージメイキングのプロセスそのものにも思いをはせていく、という事を語る。

原島さんはこう続ける「テクノロジーはとかく人間を機械論的な世界観に閉じ込めてしまうものです。そこでは世界に存在する万物は機械的な法則に従っていて、その法則さえ使えばなんでもかんでも意のままにコントロールできるという幻想に人は惑わされてとらわれてしまう。でも生き物の世界はそういう風にできていないですよね、もっと偶然的で自由です。これは文字通り自然であると思います。そういうものは機械論的なテクノロジーの世界にとっては、逸脱として、まるで裂け目からあふれ出すようにして現れてきます。しかしそれはその逸脱であるがゆえにこそ強烈なイメージメイキングの力があるというわけでは、必ずしもないのではと俺は思います。なぜならむしろ生命論的な秩序からしてみれば、これは道を外してないからこそかえって溌剌たるイメージメイキングの力が素直に発露しているのだから。これを感覚的な意味での、見た目上の美しさっていうのとは違う意味で、美しいと思ったのだと、思います。」

15歳のテロリスト

15歳のテロリストという小説を勧められて読んだ。この物語を読んでいる間、利他学のなかで話されていた「責任」について思い返すことが多かった。そのことを整理したい。

物語の中ではしばしば個人対個人の対立構造が起こる。AがBの恋人や家族に危害を加えることで、BはAへ復讐心を抱く。安藤がユズルへ、篤人がヒイロへ、自身のかけがえない存在を奪われた恨みを晴らす為に報復を試みる。でもそれを受けた側は、それぞれが口を揃え「自分は悪くない」と言う。ヒイロはユズルに、そしてユズルは比嘉に唆されていたから。

個人対個人の対立は一般的に、対処的であり、やられたらやり返すのはその一つ。自分の大切ななにかに危害を加えられた時ほど、やり返そうとする気持ちは強まる。実際、安藤は自ら書いた記事によってユズルを社会から追いやったし、篤人はヒイロへ包丁を向けた。

そして結果として起こるのは悪循環だった。やり返されっぱなしでは気が済まない。前者の安藤によって社会から追いやられたユズルは、精神が荒れ果て、様々な事件を起こし、挙句の果てに比嘉の操り人形としてテロを起こすことになる。ウェブ上のコメントも含めた世論の罵詈雑言もまた、この悪循環の一部。これは被害者であり報復の念にとらわれた状態の篤人の背中を強く押す力にもなっていた。

けどこの物語の光は、その篤人から灯りはじめる。彼はヒイロに包丁を向けはするけど、すんでのところで留まる。そしてヒイロを指示した人物を突き止める為に動き出す。対処的な行動によって起こる悪循環の流れが、ここで留まっている。もう一つの光がある。それはユズルの妹のアズサとその母親。彼女たちはユズルの傍若無人によって周囲から激しい差別やいじめを受け続けていた。そしてそれに耐え続けていた。ここでも悪循環がせき止められている。

もしこの物語の中で、全員が反射的にやり返していたら、それこそ焼け野原のような地獄絵図が浮かんでくる(実際そうした歴史を人類は繰り返している)。じゃあその悪いエンディングを回避する鍵になった「光」って何なのか?そこで「責任」の話を思い出すのだった。

この小説の光としての篤人、アズサ、アズサの母に共通していたのは、「責任」を重んじる態度だったと思う。篤人は責任を追及する故にヒイロを殺さなかったし、アズサとその母は責任を感じているから辛い日々を耐え続けた。そうして事件の真相を目指し進み続ける主人公たちの姿が、責任の因果関係という線性をなぞる旅の物語のように、自分には思えていた。

(ここからは哲学者の國分攻一朗さんの言葉を引用しまくりで書いていく。)責任は英語でresponsibility、これは応答を意味するresponseに由来する。つまり責任とは本来、応答の精神が伴うべきことである。だから責任をめぐる物語は、応答をめぐる物語とも言い換えられる。対処的な帰責 – やられたからすぐやり返すこと – が悪循環の発端であることは先に書いた。これは、帰責すること(相手に責任を帰属させること)は簡単だけど、かといって相手がそれで責任を感じる(応答する)とは限らないことに由来してる。ヒイロやユズルのふるまいがその典型と言えるだろう。つまり、ここには責任と帰責の混同がある。そして対処的な帰責ではなく、責任(応答)を求める篤人は、だからその因果関係を辿り進んでいくことになる。

皆が篤人のように、やられたからとすぐやり返すのではなく、責任の因果を辿り、応答と出会うことができれば、世の中はもう少しましになるかもしれない。けど、実際はなかなかそうならない。それはいったいどうしてなんだろうか?とても難しいことだけど、先に書いた「責任と帰責の混同」という問題を考察してみると、そのメカニズムが少しずつ見えてくる。そこでは「意志」の概念がキーになる。

「意志」は、私達が責任の所在をジャッジする際の重要なポイントである。「あなたの意志でやったなら、それはあなたの責任」となるからだ。しかしここまでの話を踏まえれば、この論理には問題があることがわかる。それはすなわち、この論理の中のいったいどこに「応答」があるのか?ということ。だから「あなたの意志でやったなら、それはあなたの責任」という論理の本質は、「応答すべき人間が応答しないから、仕方なく意志の概念を使って無理やり責任を押し付けている」ということになる。ユズルは確かに安藤の恋人を殺し、テロを企てもした。そうした彼の行動は、彼自身がやったこと=彼の意志として捉えられる。これは紛れもない事実である。だから「帰責」され、裁かれた。しかし彼自身に「応答」の精神はなかった。彼は自身の行動の事実は認めたが、それは唆されたからであったとも続けた。そもそもは、週刊誌の記事によって吊るしあげられたことも影響していたし、更に元をたどれば、幼少期の過酷な体験が暗く根差してもいた。

これは、ユズルの人生を一本の線として見た時、問題を犯した現在に辿り着くまでの道のりに、幾多の因果があったということ。しかし、彼を裁くのは直近の彼の意志である。そしてこの時、直近の意志以前にあった過去は同時に捨象される。物事の因果関係は、遡ろうと思えば無限に遡ることができる。だから私達は「意志」の概念を使って、責任の所在を帰責する。

「意志」は、私達の言語が能動態と受動態とに二分された頃に発生した概念であるらしい。能動(する)と受動(される)の区分がクリアに定義されたことで、意志(責任)の所在も明確になったということ。そしてこれは言い方を変えれば、する/されるという区分がクリアではなかった時代があったということになる。そしてその時代を分析していく際のキーとして「中動態」がある。これは、現在の受動態の前身的なもの。つまり当時の言語は、能動態/中動態に二分されていたということらしい。

では受動態と、その前身的なものとしての中動態、その違いは何か?中動態の定義は「主語が動詞によって名指される過程の場になる」とある。通常、動詞が自分から発せられれば能動だし、自身がそれを受け取れば受動。だからその点で中動は、自身のなかで動詞が起こり、自身はただその動詞に突き動かされている状態、とでも言えるだろうか。だから、能動/受動がする/されるとすれば、能動/中動は外/内という対立と捉えて良い気がしてくる。

この定義をもとにファイノーという動詞が紹介される。能動態であれば「I show(見せる)」になるこの言葉は、中動態の活用でファイノマイになり「I appear(私が現れる)」と訳せることになる。そして「主語が動詞によって名指される過程の場になる」中動態であるから、私が現れるという事態は、同時に「I am shown(私が見せられる)」「I show myself(私が自分自身を見せる)」とも訳せる。なぜなら前者「私が現れる」は「私が見せられる」ことでもあるからだし、後者は、英語には再帰表現があることにもよる。つまり、中動態のファイノマイには、「私が現れる」「私が見せられる」「私が自分自身を見せる」という三つの事態が同居していることになる、という話。

現代の能動/受動の言語視点から見れば、ファイノマイの中には能動(I appear)と受動(I am shown)という対立する事態が混在していることがわかる。ファイノマイ…そこにただ現れているという状態があった。そしてその主体の意志をさらに問うことが、言語の移り変わりによって起きる。(逆の言い方をすれば、現代ではその物事を対立的に捉えているが、当初はそうした発想がそもそもなかった。)

言語体系の変化によって、物事の捉え方が変わった。それは、する/されるの明確化であった。でも、なんでそのような変化が起きたのか?国分さんはそれを、「意志」を問う為であると推測している(尋問する言語)。自分から現れたのか、強制されてあらわれたのかを区別する為だ。ファイノマイという状態に因果を問うことで、その出来事に因果の出発点という指標を打つ。そうすれば、誰かに唆されていようが、強制されていようが関係なく、その出来事はその当人から出発したものとして捉えられるようになる。そしてこのことは、過去にあった因果関係を、意志の概念によって切り捨てている、ということでもある。

古代ギリシャ時代には、こうした「意志」の概念が無かった、ということが言われている。これは仮説であって実証する方法は無いものの、このことについてを抑えておくのは、意志について考えるうえで必要に思えるので、引用と共にまとめておく。

まず、古代ギリシャがいつからいつまでというのは、諸説あるようで、とりあえず紀元前30世紀頃~紀元前2世紀頃と捉えておくとする。日本で言えば縄文時代の後期から弥生時代あたりまで。こうしてみると、紀元前が終わる頃に、中動態は衰退。能動/受動の概念へと移り変わり、そして「意志」の概念が台頭、ということになる。

「意志」の概念が台頭した頃としての紀元のはじまりは、イエスキリストの誕生の時期。哲学者のハンナ・アレントは、意志の概念の創設者はそのキリスト教哲学であり、特にパウロとアウグスティヌスがその主要人物であると言う。キリスト教には「無からの創造」という考え方があったらしい。それは「私の意志でやった」という受動/能動による作用と結びつく。

またアレントは、「意志」を得ることで「未来」という時制を得た、ということも言っている。彼女は精神の中にもいろいろな器官があると考え、そこで過去に関わる精神的器官を「記憶」と考えた。じゃあ未来に関わる器官は何かと考え、それを「意志」とした。その理由は、アリストテレスの可能態の話を参照するとわかる。端的に言えば、当時、実在する一切のものはすでに将来が決定していると考えられていた(可能態が先行しているから)。すなわち未来という時制は存在していなかった。しかし、能動/受動の対立によって「意志」が生じる。それは連綿とつづく可能態という名の線性に指標を打ち、そこからあらたな線を出発させること。当然その先は見えない。よって私達はその先を思考するようになる。それが「未来」という時制になる。

「責任」という概念は、それがresponseである以上、先天的にそなわった精神性と言える気がする。人は互いの痛みや喜びをある程度共感することができる生き物であるから。片や「意志」は、言語構造によって後天的に追加されたプログラムであるということが分かった。だからこの両者の間でしばしば齟齬が起きる。

15歳のテロリストが真の責任まで辿りつくことができたのは、その意味で、なんというか、「若さ」的な部分が力として働いていた、とも言えるかも。後天的に備わっていく指針としての意志を判断材料としては盲信せず、先天的な感覚としての応答へ進み続けたという点で。

PICTURE展に寄せた文

今回のPICTURE展に写真で関わっている三保谷将史(みほたにまさし)です。この展覧会は、美術家・城下浩伺が描いた絵を、カメラで撮影し、写真として出力する、というプロセスがあります。僕はその写真で関わっています。

今作の浩伺さんの絵は、長い時間を掛けて緻密に描かれる普段のシリーズとは対象的に、ものの数分で次々と描かれていきます。筆と墨汁によって描き終えられた直後のその絵は、ちょっとでも動かすと絵全体が流れ動いてしまうほど、紙に吸収されるもしくは蒸発待ちの水分たちがまだゆるゆると表面張力している状態。「この瞬間を表現できないかと、家で描いている時よく思っていた」と聞いていた僕は、なるほどこういう事かと思いながら、卓上の新鮮なそれをカメラと一緒に眺めていました。

スタジオの蛍光灯の下、その黒く瑞々しい絵の表面から全方向にはね返る光たちの中で、ある一点に置かれたレンズは、そこへのみ反射してくる光を収束し、二次元の像として記録する。結果を満足してくれている様子の浩伺さんを見て、ただシャッターボタンを押しているだけな気分だった僕は少しほっとしていたのでした。そうこうしている間にパンデミックが起こり、街中の施設は軒並み扉を閉めていきます。同じ頃、僕自身は別でアートフェアに参加する予定だったのですが、それも搬入前日に開催中止の連絡がありました。対岸の火事のように思っていたこの事態の大きさの実感は、フェアの会場入り口で「中止」と大きく書かれた看板を実際に見た頃からようやく芽生え始めます。その時が2月の末。再来月に控えていたこのPICTURE展の事も頭によぎりはじめていました。

そのさなかで、インターネットを活用する動きが活発化していく訳ですが、「だから我々も」ではなく「いまなにができるか」という思いから、浩伺さんはオンラインへ舵を切ります。僕はその時に、今展覧会の背景にあった「どこまでが絵で、どこからが絵でなくなるのか」という言葉が、あらためて立ち上がってきた気がしていました。

液晶画面という、現代の私たちにとって馴染み深いレイヤーは、日常的にネットやSNSを使う浩伺さんにとっても当然例外ではないということ。物質としての絵画/写真の置かれたフィジカルな三次元と並行して、その発光する膜が持つリアリティは私たちの日常に深く浸透している。またそれは言わずもがな、私たちの視覚自体にも大きな影響を与えていると思います。ある種それは、言語的な感覚とも似ているような気がしています。デジタルという国の誕生と繁栄に準じて培われてきている共感覚とでもいうか。(だから、例えばそれはある程度後天的に学ぶ事もできるし、ジェネレーションギャップがあったりもする)

一方で、僕らが現実の風景を見る時、その視界は遠近法的な構図でもって捉えられている。風景は手前であるほどすぼみ、遠くにいくほど広がる。つまり遠くにあるものは小さいし、手前にあるものは大きく見える、、現代の私たちにとって当たり前すぎる常識的な感覚です。他方で、それはカメラオブスキュラ、引いては木漏れ日に映る太陽の姿を見とったアリストテレスの時代に芽を出した風景の捉え方とも言われている。幾何や光学の発展に順じて、ヒトの視覚にも変遷があったという話。常識や価値観等ならともかく、肉眼での見え方にも感覚的な違いがあったなんて事は、にわかに信じがたいかもしれませんが、もしかすると絵画史はその語り部とも言えるのかもしれません。

「絵画とは?」を僕は詳しくありません。ただ写真という技術が誕生したとされる約200年前、さらにその過去へと歴史を潜ってみるとすぐ、たくさんの絵を描く人々の姿が見えてきます。そしてそこではまだ「写真」は無いはずなのに、絵を描く人々はその単語を知ってます。どういうことか? 当時の「写真」という言葉は「姿を写し取る」といった意味で使われていたからだそうです。当時の”真”という文字は”すがた”を意味し、たとえば肖像画などを主に写真と呼んでいた。つまり「写真」とは「絵画」そのものだった。諸説あるみたいですが、その時代から地続き的に、また派生的に誕生した化学技術としての「写真」は、デジタルカメラの全盛を経て、誰もがポケットに携えるようになり、そして動画やVR、人工知能との融合など、テクノロジーの進化と共に様々に派生展開しています。

現在は、液晶画面を通してなにかを見るということの過渡期で、世界中を包みこんでいるこの奇妙な時間によって、前述したデジタルという国の勢力も加速度的に広がっている。だったら仮に100年後、地球上の人類すべてがいわゆるデジタルネイティブになっていたら、「画面でみる」なんて言葉は死語を通り越して通じなくなってるかもしれません(そもそも”言語”のあり方自体が今と同じようにあるのかさえ謎)。だったらそれは一体どんな感覚になっているんだろう。

なにかしらの「再生」のためのデバイスだったものが、身体感覚として備わった時に、ネイティブな言語として「表現」されはじめるのだとしたら?僕たちが絵や写真やスマートフォンを見ている「目」も、五億年以上も前の頃は光をエネルギーとして受容する細胞組織の一つでしかなかったらしい。光の有無をただ感じるのみの単機能だったものから、のちに「視覚」が誕生すると生物界のバランスが激変し、多様な進化をうながす強い淘汰圧にもなった。

浩伺さんの作品と今の現状は、そうして一枚の絵がいかに見られるかということの果てしなさをはかる試金石のようなものとも言えるのかもしれない。あるいは逆?いずれにしても、僕自身はそこに表れるものを見てみたいと思っています。

今回の展示の機会を通して、あらためて「写真って?」を考えています。この記事をここまで読んで下さっていたらお分かりいただけるかもしれませんが、それは今回の展覧会のテーマである「絵画とは?」という浩伺さんの問いと重なるものです。今の現状が半ば僕たちに強制する鑑賞形態は、単なる情報の再生ではなく、複眼的に捉えることができる新しいチャンネルの示唆。その事によってどう見えてくるかという問題もまた、両者の問いと入れ子する。

はっきり言って現状の展示状態では、それを示すことはできていないと感じています。ただ少なくとも僕個人にとって、それを考える確実なきっかけにもなっています。こうして発表されているからこそ、様々なリアクションも受け入れていきながら、理解を更新していきたいなと思っています。

In a gamescape展

今年のはじめにまた東京へ行っていた。今回は、12月の展示で売れた作品を直接渡したかったのと、本の制作の打ち合わせ、ギャラリーやキュレーターの方に作品を観てもらえる機会などがあったので、予定を詰め込んでの5日間だった。今までにはなかったこういう充実をまた繰り返せるかどうか。滞在中、友人の初個展を観たり、他にも色々な人と会って話したりしているうちに時間は慌ただしく過ぎる。しかしせっかくの東京、何かせめて一つは展覧会も観に行きたい。それも写真や美術に直接的なものではなく、AIとか科学的な要素に重心のあるのは無いものかと。

そうして「In a gamescape -ヴィデオ・ゲームの風景、リアリティ、物語、自我-」という展覧会を偶然教えてもらう。場所はICC(インターコミュニケーションセンター)というところで、芸術と科学技術の交流を目的とした、NTTが運営する場だそう。過去に何度か訪れた事のあるオペラシティの上の階だった。会場では、「オープン・スペース2018 イン・トランジション」という展覧会も並行して行われていた。二つを観終わり、強い感銘を受けたのだけど、ボリューミー過ぎてか、なかなか消化しきれず、変な余韻だけがずっと残っている。できるだけ整理したい。

まず、僕自身が、液晶画面の向こう側の世界やキャラクターに対して、特殊なリアリティを感じてるという点は、今展に対して一つのキーだと感じてる。ファミコンやゲームボーイと共に過ごしていた時期は、まだ生まれて10年にも満たない頃だった。日々忙しく自我の形成が進行していく年代にとってのそれは、親が言う「たかがゲーム」では無く、視覚と指先を通して同期できる世界の一部だった。そこでの出来事は、虫とり網を持って草むらを散策することと同列の「体験」だった感じがする。そこで出会うキャラクターは、ドットやポリゴンというデータであって確かに実体がない。ではありつつも、実体によってもたらされた経験、例えばアゲハ蝶の幼虫がうにょうにょと進行する土台だった自分の指に残っている感触と、同様の質感を持った経験として、記憶に刻まれている感じがするというか。

だから、数十ピクセル程度の、カクカクな、今見れば非常に解像度の荒い、人型というのはまぁ分かるそれに対して、人間性(キャラクター)や、それに人生があったりすることを感じとってしまう。デジタル・ネイティヴという言葉はすっかり耳にするようになった。そしてネイティヴといえばネイティヴ・スピーカーというのも、その土地の言語と共に生まれ育つことで、その土地の言語=システムへ、自身の同期率を限りなく高いものにしてる、という風にも言える。そうして、別の国の人から見れば、ただの記号や模様、はたまた痕跡でしか無い文字に、色彩や情景をイメージしたり、語感など、様々な印象を抱くようになっていく。そう考えていると、幼少期に目に親しまれた数える程のドットイメージに様々な感覚を抱くのも、それと同様で、あまり不思議では無いことのようにも思える。

ちょっと話がずれるかもしれないけど、例えばこども向けに書かれたイラストやグッズを目にした時、自分はなんとも言えない気分になる。その時おそらく、自分がその頃だった時のこと、母親をはじめとして自分をとりまいていた状況の記憶が、自動再生的に、バックグラウンドであたたかく浮かび上がっている。そうした記憶のイメージを眺められる窓のようなものとして、イラストやグッズは現前し、記憶の面影として機能している。

31歳10ヶ月のいま、ゲーム画面に対して抱く印象や感覚は、とても複雑なものになっている。ゲームに没入していた頃の”身体的な”経験が染み付いている一方、写真を通して感じてきた様々な経験とがそこに混ざり合っているからだと感じているのだけど、それは具体的にどういう事なんだろうともやもやしてる。

実際にゲームに没入していた当時に、今のような感覚を抱いてはいなかった。また、10代の後半から徐々にゲームすることとは距離ができ、20代に入ってからはめっきりやらなくなった。なんとなくその世界にマンネリを感じ続けていて、またその解消のために、探求していこうとすることを、所狭しとソフトが並ぶ行きつけのゲーム屋の店内で行う方向へ向かうこともなかった。写真はそのころからはじめていた。(続く。。)