「悪というものの平凡さ」に言及しましたが、それは平凡さとは、ある点でなにか恐ろしいものでありうることを示すためです。平凡ということを、人をぞっとさせるなにかとしてひょうげんすることが問題なのです。シャンデリアの作品《フランドルの冠》は怪物です。私はわざわざ本当の怪物を描く必要などない。この物体、このダサくて小さくて平凡なシャンデリアを描くだけで十分なのです。この物体は恐ろしい。フランシス・ベーコンと自分のちがいをいうために、かつてのべたことがありますが、私なら顔を変形する必要などない。人々の顔を写真に写っているそのままに平凡に描くことのほうがずっと恐ろしいですよ。そうすることで、平凡なものはたんなる平凡以上のものになるのです。
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壁画をおもしろいと思うのは、そこに見知ったなにかに似たものを探すからにほかなりません。なにかをみて、頭のなかのなにかとくらべ、なんに関連しているかをみいだそうとする。たいてい、類似のものをみいだすので、それを名づけます。テーブルとか、毛布とかね。類似のイメージがなにもみいだせないときは欲求が満たされないので、神経は興奮しつづけ関心も持続し、やがて飽きると我々は絵のそばを離れるのです。ブクローとの議論で私がのべたのはこういうことでした。マレーヴィチだろうがライマンだろうが同じです。そういうふうにしかみるほかない。マレーヴィチの《黒い正方形》の解釈は好きなだけあるでしょうが、作品は一つの挑発でありつづけます。挑発されたあなたは対象を探し、なにかをみいだすでしょう。
(ゲルハルト・リヒター「写真論/絵画論」から)
投稿者: Masashi Mihotani
2012.10.05

久々にスタジオ5に行くと「おもしろいものがある」と勢井さんがガラス乾板を見せてくれた。戦前に撮られた集合写真なんだそうで、年に1、2回、こうしたネガも未だ持ち込まれることがあるらしい。。白いカビ(?)が生えてきてたりといった年季も手伝ってか、誰かの大切な記憶の断片という重みが、そのネガという原本の質量にしっかり含まれてるよう。デジタルがこれからどんな風に発展していくのかは分からないけど、少なくとも銀塩にある物質感や、うまく言えないけど温度感、そういうものは、記憶を記録するメディアとしてかけがえ無いものなんだと改めて感じました。写真はスタジオ5内に貼ってある猫。いつも眺めてしまう…
GalleryKai・楢木逸郎作品展「NOMADS/EXILES」
行ったことの無いギャラリーをたくさん回ってみようという思いで立ち寄ったGalleryKai・楢木逸郎作品展「NOMADS/EXILES」。先日たまたま深瀬昌久さんの「鴉」を観ていたこともあってか、写ってる人が”社会の枠組みから外れた人”だというのは真っ先に分かった。けど見れば見る程、例えば歴史の教科書なんかに載ってる海外の貴族のように見えたりと、その威厳に満ち溢れた佇まいの数々を前に、本当にそういう人々なのか一瞬疑ってしまった。それは安易な軽蔑を続けていた自分に気付くことでもあって、本当に情けなくもなった…
少なくとも僕自身には色んな欲求があって、周りにはその全部を満たさんと様々な誘惑が用意されていて、ほとんどのそれはお金と引き換えに手に入るようになってる。ただそれらは全部、シンプルに「生きていく」上で必ず必要かというと、極論を言えば全部いらないもののように思えたりもする。そんな中でここに写ってる人達は多分、生きていく上で最低限必要な”なにか”だけしか持ってないように感じ、それは野生動物と等価的な存在とも言える、というような内容の長谷川明さんの言葉を思い出した。無駄が削ぎ落とされた「生きているモノ」としての純粋さが、僕の感じた威厳だったのかもしれない。
置かれた状況が自ら選んでのことか、選ばざるを得なかったのかは分からないけど、僕が知る限り世間はこうした人達を煙たい目で見ているのは間違い無いし実際僕もそうだ。そんな全てがまた本当に悍ましくも思う。