





(中略)…この量子力学の体系は非常に数学的なものであるが、それは、この種の奇妙なものの行動を律するのには必然的なことである。すなわち電子や光子のように、日常われわれがみたことのある、通常の粒子と非常に異ったものの行動を述べるには、われわれの日常的な言葉をもってすることはできないのは当然なことである。何故なら通常の言葉は日常的な考え方と密接に結びついているので、こういう日常的なものとは全く別種の奇妙なものの行動を記述するには、全く不適当だからである。言いかえれば日常的な考え方から全く自由な、より純粋な言語によらなければ、そういうものの記述はできない。こういう、全く自由で純粋な言語というのは、すなわち数学である。量子力学が数学的にならざるを得ない理由はここにある。
(朝永振一郎「鏡の中の物理学」から)
ところで、兵卒の数をかぞえるという場合、兵卒のひとりひとりの個人としての人格、個性は無視されているということがあります。兵卒はみな同じものと見なされ、何人いるか、百人か千人かということが問題になっているわけです。敵は五百人しかおらぬのに、こっちは千人いるとか、五百人損害をうけてもまだ五百人いるということが問題であって、個人としての生き死にが問題ではない。そこに非人間化があるわけです。ここでは兵卒としてかぞえられる人間という共通の内容だけをとり出す。つまり抽象すると同時に、個々の人間がもっている特徴は捨てる。つまり捨象するという操作が行われているわけです。(中略)
ところで数をかぞえるというのは、牛なら牛、犬なら犬、それから人間の場合もあるでしょうし、ビスケットやコップでもよろしいわけです。数をかぞえるというだけなら、もはやそれが牛であろうと、ビスケットであろうと、コップであろうと、そんなことに関係なく、同じかぞえるという操作をしているわけです。それは同種というだけで、かぞえられているものの性質は忘れてしまってよろしい。そういう意味でのものすごい抽象化が行われていることでもあります。この場合、抽象化ということは、同時に普遍化にもなっている。つまり数というものは、個々の事物よりも抽象的であるがゆえに、どこにでも使えるようになるわけです。抽象化することによって一般化するといってもよい。とにかく似たようなものがいくつかあれば、それをかぞえることができるわけです。
(湯川秀樹 「宇宙と人間 7つのなぞ」から)




柴田敏雄さんの個展「31 Contact prints」を観に、乃木坂はgallery ART UNLIMITEDへ。2004年頃から転じたというカラー作品の、4×5インチのネガによるコンタクトプリント近作31点。感覚としてはハガキサイズに近く、展示写真としては小ぶりなもの。一枚ずつ、主に余白を広くとったマットで額装されていた。柴田さんの展示作品は基本的に大きい印象だったのでまず意外だった。ネガは4×5なので、135等のベタ焼きのような、写真の前後関係や一連が見えるといった内容では無い。
柴田さんは、風景そのものが持つ一般の意味とは別の表層(それは時に異様な生き物のようだったりする)を写すことを基本姿勢として持たれている印象がある。その異界への眼差しは、大きく引き伸ばされたモノクロームにより、綿密かつ迫力を帯びた風景となって定着されている。一方で今回のカラーのコンタクトは、それらの写真が発する迫力は控えめになる。そこに代わるものはなんだろう。近づいて見ると、粒子が凝縮された高濃度の美しいプリントだし、基本的には引き伸ばしが前提であるネガを、そのまま扱うという意外性、特別性の面白さも勿論あるとは思うのだけど。
展示に寄せた文章を読んで、撮影から印画までの一連にかかる時間について考えた。写真という媒体はこれまでの歴史の中で、その形態の変化を続けている。そしてその時代の集積が人々の価値観を多様にもさせてきた。その背景を十分認めつつ、今回の作品を制作されている側面はあるのだと思う。それは現在からみれば「手間」で、面倒と見なされる悪的な要素があるし、なにより作品のイメージと大きくは関係しないことのように思える。しかし時間はその消費量と比例して、消費者の記憶にも影響する。薄れたり、深まったり、何かへ溶け込み混ざる事もあり、それは制作行為自体へ影響するはずでもある。絵画一つをとっても画材や方法論が無数にある。同じように、写真のこうしたアナログプロセスも、物理的な側面は勿論、経過する時間そのものを扱う一つの技法とも言える。
また、冒頭でも書いた通り、展示サイズが小さい為、これまでの柴田さんの作品を鑑賞するのと同じ距離(つまりその小作をすこし離れた場所)から眺めていると、当然ながら細部は見えなくなる。すると色彩や線、輪郭といった、名辞ではない、それを構成する要素個々の存在が浮かびあがってくる。そうして見えてくる新たな表層は、これまでに観た大作の超現実的なイメージとも重なる実感があってそれも面白かった。これでまた大作を見返す時、また別の見え方も表れそうな気がする。前述した時間のことも含め、こうして「見る」ことの考察を一層促されたのは、それが一枚の小さなコンタクトプリントだったからなのだとも思えた。