Ragnar Kjartansson「The Visitors」をみて

先日観に行った横浜トリエンナーレでいくつかの作品に強く感動したことをメモ。Ragnar Kjartanssonの「The Visitors」はミュージシャン一人ずつが違う部屋に別れ、無線のヘッドフォンを通して音のみを共有しながら、全員で一つの曲の演奏を試みる、その様子を映像でとらえたもの。展示室の入口は遮光カーテンで仕切られていて、入ってみると中はかなり暗く、またとても広い。100インチ超の大きなモニターが計9つ、十分な感覚で点在するように設置されている。1つのモニターに一人の演奏者がほぼ等身大で映されていて、少し離れたところからだと、その演奏者一人一人の様子が、暗闇にぽつりぽつりと浮かび上がっているように見渡せる。

会場の中心あたりに立っていると全体のハーモニーを感じられる一方、個々の映像の付近にそれぞれのスピーカーがおそらく設置されていて、ひとつの映像に近づくとその演奏音もよく聴こえるようになり、演奏者の動作や表情を詳細に観ることもできる。本来セッションは、ひとつひとつの音がミックスされた状態で鑑賞者に届く。しかしこのインスタレーション的空間の場合に、自分の足でそのひとつひとつへ任意に”近づく”事も出来る。

会場は、投影された映像以外に明かりは無い為、映像ひとつひとつに目を移していく時、その真っ暗という”間”が、個人と個人の間に横たわる深い隔たりのようでもあり、演奏者一人一人の孤独さをより強く感じさせるし、その個人から発せられるエネルギー的なものを適切に引き立てるフレームのようにも見えた。映像から伝わるリアルさは、演奏者が等身大に近い大きさで投影されていることも手伝っていたと感じる。

畠山直哉さんが言っていた、今回のトリエンナーレのテーマの一つである”接続性”とは、”孤立”があるからこそ成立するもの(「一人一人が地に足を着けて生活している、それが前提になって手をつなぎ合うということ。」と言っていた)という言葉や、先日このブログにも引用した言葉が何度も頭を過った。そして孤独というものがいかに孤独ではないか、を少しだけ理解できた気もした。

この作品を鑑賞している間、なぜだか涙がぼろぼろ出た。今回のトリエンナーレでは他にもいくつかの作品でうるうるしていた。The Visitorsを含めどこかメランコリックな成分に弱い自分を感じたし、「音」というエネルギーの鑑賞に慣れていなかったせいもあったかもしれない。ただそれらを差し引いても強い作品だった。人間も生きものであり、生きものそれぞれが持つ純粋なエネルギーの迫力、あるいは心地よさみたいなもの(例えば演奏者の、叫ぶように歌う様子はオオカミの咆哮、弦楽器を奏でる様子は鈴虫の鳴く姿とも重なった)の余韻がずっと残っている。そのエネルギーを”孤独”と呼べること、そしてそれが”調和”することに対しての感涙でもあったのかもしれない。