引越し先を探しては、間取り、日当たり、職場へのアクセス、山との距離など吟味しては結局何かが見つかることもなくブラウザを閉じる。実家に戻ることが頭をよぎっては、それも違うと思い直す。この一連は僕の典型的な時間消費の一つだ。静かな場所に住みたい。その理由は、家の前の大通りのマンホールの上を車が走行する時の段差音、雨が降った時向かいのアパートのトタン屋根から鳴る音から解放されたいという思いから来ている。もともとは気になっていなかった。カクテルパーティー効果的に耳の拾う音の領域が変わっているということなのだと思う。故にやっかいで、その性質がある限りはどこへ行ってもまた何かしらの問題に取りつかれてしまう可能性がある。二ヶ月で引っ越した五条の貸家は日中常に静かでは無く、深夜から特にうるさかったこと(窓ガラス越しに洗濯機が朝方まで回り続ける、その隣の家の住人も夜型のようで頻繁に家を出入りしており会話も聞こえてくる等で全く落ち着けなかった)、また外の天候がわからないぐらい日当たりも悪かった。その後今の場所を見つけて越して来た。夜は静かで日当たりも良い。両方の必要性がやっぱりあったからもう二年以上住めているのだと思う。実家に帰れば雨音やマンホール音は無くとも、朝方の空き缶収集や斜向かいの風鈴、唸るように鳴きまくる老猫、壁を突き抜けてくる母のいびきと寝言、その母の友人が遊びに来たりして挨拶しないといけない等別の問題が次々に浮かんでくる。何より母と居ること自体に耐え難い苦痛がある。自暴自棄気味の今となっては尚更だろう。実家へ帰るという選択肢はこうして自然消滅していく。そして消滅したはずなのにまたいつのまにか元に戻り、また同じ事を考える時間が発生するということを幾度となく繰り返す。この感じは定期的に必要な掃除というよりも、決まって食べたくなるお菓子の中毒性に近い気もする。自分自身のレベルを上げていく方が建設的で、レベルアップしていく方が色々な可能性も広がる。良いものを見だしたらキリが無く、またそこで見える何かと自分とを繋ぎ合わせて思考してしまう構造にはいまの消費に加担する意識も混入しているっぽい。あの家良いなぁと思う感覚もある種、風景に潜む罠のようで、こうしてまた一つ社会の声に囚われていることを自覚する。