バイト中「今生きてる中で一番疑問に思ってることは何か?」という事を5人くらいに聞いていた。一人は考えてみる、一人は英語で話してしまった為にうまく伝えられずだったけど、あとの3人は「特に無い」という回答だった。ちゃんと答えてくれそうな人に聞いたものの、いつもながら唐突な質問ではあったし、聞き方も下手だったかもしれない。ただ、もっとなんかあるだろうというのは自分の期待でしかない。だから結局全部ちゃんとした答えだったのかもしれない。「人は考えずに応答している」「生きる実感も無いまま生きてる」シラスで購入したアーカイブで耳に残った言葉。AIの台頭の話がその背景にある。哲学的ゾンビやサールの中国語の部屋、その代名詞的な存在としてのAIがしかし流暢になんでもこなす。すると不思議にAIが生きているように感じる。この事が逆説的に、人間はじゃあ本当に生きているのかという問いを生み出す。こうした問題は少なくともデカルトまでは繋がってるらしくて、一瞬ググってその哲学者は17世紀の人物で、「我思う、ゆえに我あり」の人だった。現代ではVRがリアルかそうでないかみたいな話もあるけど、デカルト的にはそれもリアルということになるっぽい。実質的体験というリアル。「人は考えずに応答している」そう話してたのは東浩紀さんだったけど、「考えるという行為が削除されているのが現代の社会システムである」と書いていたのは坂口恭平さんだった。「考えなくても生きていけると思わせておいて、実は考えを削除されている」と。建築にルーツを持つ氏のロジックは確かにうなづける感じもする。本来、大地の所有権なんて誰にも無いはずだけど、人々はその占有を争ってきていて今もそれは続いている。その結果の一つとして、自分の土地を所有したり借りたりする事は常識になった。月給18万の人が都内で家賃8万払うのはまあ普通らしいし、マイホームを買う為に35年ローンするのもよくあるらしい(自分には全く現実味が無いが…)。その返済の為に人はずっと働き続けることになる。これは常識的なケースなので、それを支える為のシステムも充実している。だから難しい事は考える必要はなく、言われた通りにやってれば問題無い。つまり「考え」なくて良い。こうした構造でできている場を「匿名化したレイヤー」と氏は呼んでいた。余計な疑問を持つ必要のない、インフラも整った生活圏としてのその場はベースレイヤーとも言い換えられる。良いなと思ったのは、その場自体を批判的に書いているわけでは無いこと。そもそも人間同士完全に分かりあうことはできない。その前提を思えば、集まりの秩序を維持する役割を担っているのもこのレイヤーだからだ。さっき書いた常識的なケースというのもいわゆる「空気」と結びつくことで、それさえ読んでいればなんとかなる仕組みになっている。それに、そうした場があることで、例えば学校なら色々な人との関わりが生まれるし、またそこから休み時間や放課後といった別のレイヤーも立ち現れてくる。“「社会を変える」などと言うと、これも先述したように、既存の社会を全く別のものと取っ替えるという意味で受け取られる事が多いが、これも違う。「社会を変える」ということは「社会を広げる」ということである。独自のレイヤーを見つけるだけでは駄目で、それをもとに交易すること。これが社会を拡張する。社会を広げる。「裸の情報」を自らの方法で解釈し、独自のレイヤーを作り、それをもとに交易させる行為。この過程に、態度経済は潤滑油のように染みわたる。それはあたらしく何かモノをつくり出す行為ではなく、人々に考えることを促すことによって起こる。その人が生きていることが他者に考えることを促す。” なんだか制作におけるめちゃくちゃ大事なことが書かれている気がしながら読んでいると、その本の最後の方には「創造とは疑問を問いにすること」ともあった。氏の場合、周りの人達が作るものが皆つまらなく見えて、なぜそんなものを作るのかと聞いてみても皆口を揃えて「仕方ない」と言い、納得のいく答えは返ってこない。だから自分がやらないといけない。そういう動機があったという。「やりたいことをやる」ではなく、「自分がやらねば誰がやる」ということをやる。ただ美しいモノを作ったりすることは創造ではない。なにかおかしいと思えたことに創造が潜在している。疑問はそもそも実生活から生まれる。その実生活というのは今日ここで書いているように一見平和なんだけど実際は色々おかしい(けどそれらをちょっと我慢して暮らしてたりする)。その実生活、つまりベースレイヤーは「人々の無意識によって作られた場所」という風に書かれていた。この「無意識」はたぶん唯脳論的な都市空間で、言うなればちょっと虚構っぽい感じだろうか。そんな生活空間が個人個人に完全フィットすることはありえず、疑問はそこから生じうる。ベースレイヤー上ではそうしたストレスをやり過ごせる設計がなされている。もしそれでもやり過ごせない、耐えられない何かがあるとすればそれは痛みのようなものだろう。疑問と創造という言葉がここでつながってくる。創造の創は絆創膏の創でもあり、そもそもの意味はきずであるから。この話は、ちょっと前にガクジンのポッドキャストでも聴いた。だから創造には本来その人の切実さが伴う。