7/9(火)大阪を発った日の深夜、北海道の東川町に到着した時のことを、大阪に帰ってきた翌日の今 8/6(火)から振り返ると、一ヶ月よりももっと前の日だったように感じる。東川町には滞在制作、いわゆるアーティストインレジデンス(AIR)の為に訪れていた。8年前に参加していたフォトふれという写真祭サポートスタッフからの縁で今年このポジションを得られたのだけど、その今回の制作経験は新しいことばかりだった。また現地の人々の生活、それをかこむ自然など、感じたことが色々とあった。それについて書き残しておきたい。
まず制作について。約一ヶ月に渡った滞在制作の成果展を、フォトフェスメイン会期でもある8/3(土) 4(日)に明治の家という場所で行った。大きく2つのシリーズを展示したのだけど、そのうちの一つは以前から継続しているLCD imageryで、AIサイアノの方に加えて、カメラルシダによる素描の方も展示した。もう一つはPhoto Drawing(写真素描)と題して、東川町で実際に出会う人々を、カメラオブスクラで描画したもの。モデルになってくれた人の数が百人に達したことも含め、今回もっとも時間を費やした。写真と絵の繋がりへの関心も手伝って、「人を写すことはできない」けど、「描くことならできるかもしれない」という期待はもともとあった。多分だからLCD imageryでは人を液晶画面越しに描いているのだけど、それによって、生身の人間と正対する形でもやってみたいという気持ちが膨らんでいた。AIRでは当初、カメラルシダでの実践を企画していた。例えばかつてドミニク・アングルさんもやっていたような感じで。けど現地で試行錯誤していく中で、エイトバイテンをカメラオブスクラとして使う方が、やりたいイメージに近いと気付く。大阪を発つ前週、学校の倉庫の奥から出てきたと学科長が見せてくれたジャンクのそれを借り、持参していたのだった。
しかし実際にカメラを携え町へ出てはみるものの、道ゆく人に声をかけることができない。そもそも人と目を合わせるのが苦手だし、声も小さいし、責任感とかだけで自身を突き動かせるほどの真面目な気力も持ち合わせておらずで、早速途方に暮れていたのが7/15のことだった。実は北海道へ飛ぶ前月、僕は人と対面できない状態に陥っていた。人と面するだけで意識が酩酊するようになって、それで五年続けていたバイトは結局退職。友人と会う予定は全てキャンセル。せめて1日3時間の学校仕事だけはと、薬で精神をごまかしながらかろうじてだった。人と目を合わせるのが苦手ということを先に書いたけど、コミュニケーション自体が嫌いなわけでは無く、バイトの同僚や学生の人たちと会うことはむしろ楽しみだった。それが多分、色々重なった私情もあり、反転してしまったのだと考えている。大阪出発の前日あらたに処方された薬を服用しつつも、不安の波は小刻みに巡ってくる。なんでこの今この時に、自分で自分の首を絞めるようなプロジェクトを掲げてしまったんだと、北の大地で一人自責の念に何度も駆られた。そんな状態下で、結果として百の人たちを描けた一因は、その場所が東川町という場だったからだと振り返る。
東川町は人口約8000の町で、その人々のコミュニティは、隣人と一切干渉がない都会とは違って人が人を呼ぶというようなことが、ごく自然に起きる。自分から声を掛けて描いた人は結局、全体の2割ぐらいで、あとはすべて、人と人との繋がりのなかで進んでいった。点と点が自然に結ばれていき、その広がりの流れの中で、自分はむしろ受動的に描き続けることになっていた。結果として、文化ギャラリーの吉里さん、AIR相方だった藤川さん、路上でのゲリラ的な実践時にむしろ広報含め手伝ってくれたせんとぴゅあの西島さん、といった方々が起点となり、写真祭を支える実行委員会、農協商工会、東川町日本語学校、こども、森田さんご夫妻、シニアセンター、旭川や東神楽といった隣町の人、観光客、写真甲子園、フォトふれといった多様な点へと結びついていく。東川が「写真の町」ということもあり、僕がやっていることに対して理解や関心を示してくれる感が強かったのも大きいと感じる。
先にも書いた酩酊への不安は、描き始めると薄まっていく。けど宿舎に戻り描いたものを見返していると、程度は若干低いものの再来する。絵はただの安い紙に適当なシャーペンで描かれた線の集まりで、画素数的には1メガピクセルにも満たない簡素な情報量なのに。それは一見特徴を押さえたり押さえなかったりしているヘタうまな似顔絵でありつつ、暗幕の中で微かに見える線を没我的に追い続けたことに、その時交わした言葉等もリンクされるから、立体的な記憶として立ち上がっているのかもしれない。目の前に立つ生身の人間が、スクリーンを通していったん線へと解体され、一枚の紙に再構成される、とか言うと大袈裟かもしれないけど、症状の波の順序とはかさなる。
もともと写真の前史に興味を抱いていたことも今回の実践の背景として大きい。たまに本を読んだりしている中で、写真と絵の繋がりへの関心は漠然とながらも持ち続けていた。だから例えば生物学者の福岡伸一さんがフェルメールさんについてを「写真技術が無かった頃のフォトグラファーを目指していた人」と言っているのも分かる気がしている(展示会場に足を運んでくれた北野さんはそれについての実践研究の話を聞かせてもくれた)。僕らは記憶を残す為に写真を撮ろうとするけど、視覚認知の実際としては逆に、むしろ写された写真が記憶を上塗りしてる。記憶を写真にしているのではなく、写真が記憶になっている。自分の記憶として定着された写真のイメージはまた支配的なものともなり、その統制力がかつてのイコン(聖像画)の力でもあったと想像するし、紙媒体から発光画面になっている今現在その力は複雑に増幅してるとも感じるし。
「人を写すことができない」と最初の方に書いた。具体的にそれは、他者を正対して写すことへの抵抗感なのかもしれない。なぜならそれはいわゆる肖像/ポートレートという表象がしばしば(主に?)権威の象徴でもあることに由来してるからなんじゃないかと、会場に足を運んでくれた原さん、菊田さんと話している時にふと思った。僕らはたいてい理想像を抱いていて、そこに自身を重ねたくもなる。しっかり重なった像ほど、だから嬉しいし、安心もする(僕自身もそう)。けど一元的にそうしたイメージを強く持つと、そこへ自分がフィットしない場合、悩んだり落ち込んだりするし、それでも写ってしまうものから目を逸らしたくなったりもする。だから、そうした規範の上で写真をするということには関与したくなかった。言い換えれば、正対して写真を撮るという不自然なコミュニケーションの中では、レンズの向こう側にいる個人よりも、イメージが持つ権威的な意志が前景化されやすく、その「空気」がなんか嫌だったから、ともなるのかもしれない。無論この事と人への関心は別問題で、だから今でもGR1vやiphoneでパッと友人を写すし、大橋仁さんや楢木逸郎さんの写真に惹かれるのは、そうした規範的なフィルターをパスしたり逆手にとったりしている故に写される「真」という前提があるように思えるからなのだとも思う。
もともと今回のカメラオブスクラによる写真素描は、自分にとっての写真を考えるための習作でもあり、かつての画家達がやっていたとされている現在の写真の構造を使った手順を、とりあえず自分でも実際にやってみよう、というのが主な発端だった。そしてやや脱線的かもしれないけど、ひと段落した今、新しいカメラを手に入れたという感じがある。地味にカメラ製品系のニュースは今でも時々見ているものの、ときめくものはずっと無い。フォビオンのフルサイズは未だアナウンスされないし(応援してます)、苦労して入手したNarrative clipは動かなかったし。カラーフォトグラムやサイアノタイプはその意味で自分にとっては一つのカメラのようでもある(と言うなら生成AIは風景)。そこに素描も加わった、みたいな感じ。写真素描に感じた属性の一つとしての「記憶」は、同じ空間に置いたLCD imageryのAIサイアノとも重なり、また「なぞる」という点でカメラルシダのそれとも重なることを、展示空間を通して実感した。言うまでも無くこの複層には「光」が強く介在している。こうした全体を広い意味での「イメージ」とも重ねあわせながら、引き続き日常を過ごしていきたい。
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滞在中は色々な方にお世話になったけど、特に森田さんというご夫婦にはよくしてもらった。以前フォトふれ等で来ていた時も顔は合わせていたものの、今回みたいに色々と話したりはしておらず、初対面的な気分だった。けどだから云々ではなくパンや野菜をくれたりするし、家に伺えば好きなだけくつろいでいけば良いとも言う。かねてより畑に興味があった僕は、話の流れで森田のお父さん(僕の周りの人達は森田さん夫婦をそれぞれ「お父さん」「お母さん」と呼んでいた)のそこへ車で連れていってもらった日があった。4,50平米かはあり、周囲も田畑で景色が開けてもいるから解放感がある。四方にうっすらと見える山の稜線から運ばれてくる風も心地良い。オクラやとうきび、キャベツ、カボチャ、スイカにズッキーニに山わさびと、無造作に植えられた十数種類の野菜たちは、西陽に照らされ活き活きと見える。畑は先代からのことの成り行きで得たのだそうで、また森田家を出入りする人々から言われるがまま、色んな種を植えたりしつつ一人面倒を見てきているらしい。作物のない畦道の土以外には農薬等も使わず、また収穫物は販売もせず、僕にもそうしてくれたようにただ振る舞っているだけだという。森田家には特にこのフォトフェスの時期、色々な人が出入りし、宿にまでなっているようだけど、来客を歓迎しつつも特別気を遣うわけでもない佇まいに、善根宿のような雰囲気を思った。
東川での滞在制作中は前述した不安の波の中にいた一方、労働にスケジュールが束縛されず、写真をやることが義務という日々にふと、遊ぶことが仕事、みたいなこどもの頃を思い出してもいた。無論、こどもがそう在れるのはその生活を支える親などの存在があるからで、自立を強いられる大人が遊びだけで生きていくことは基本できない。しかし、あらためてその「自立」とはなんだろうか。労働の規範が指示への従属だった時代からAI台頭の現代に入るなかで尚更に思う。滞在中、たまたま連絡をくれたタイ在住の友人は暗号通貨に精通した人で、それにまつわる世論をリサーチしているようだった。そもそも貨幣経済の前身には物々交換が主にあった。3-7万年前に起きたと言われている虚構の発生は、例えばブランドを生み出し、その概念の一人歩きが等価交換のあり方を歪ませたりもしている。でも本来お金というのは一種のエネルギーのようなもので、等価に循環していくことがおそらく正しい。価値などは考えず高値の作品を節税アクセ的に買う成金は、そうした循環環境の破壊意志とも言える気がしてくる。森田さん一家のような在り方はその対極にあって、東川という小さな町に訪れる人々をただ受け入れ、もてなし、見送り、その一連に金銭授受もない。だからこちらもそれ以外のなにかで返礼したいという気持ちが自然に湧く。それはかつての物々交換的な感覚とも一見近い、けれどもそもそも見返りが顧みられていないところに「利他」を感じる。そこには物々交換以前の超自然的ななにかがある。「自立」なんてあまり考えすぎる必要はないのかもしれない。
余談だけど、AIRの相方だった藤川さんは森田さんの家で過ごしていた時間が長く、それを「家猫」と例えられていたのに対し、時々野菜をもらいにくるけど基本所在不明感があったという僕は「たまにご飯をもらいにくる野良」のようだったらしい。「最近来ないけどあの子大丈夫かしら」みたいな。その感じがちょっと居心地良くも感じた。