家の猫が出産したのだけど産まれたこどもはみんな死んでしまった。そして子猫は近くのところに埋めた。というメールを仕事中に受け取った時に、僕はとても楽しみにしてただけでそうなることを想像してなかった動揺と、埋めるのに立ちあえなかったこと、その子猫を見れなかったことに憤りを感じてた。言うまでもなく悲しい。母親も同じで、それからかなり困惑もしてたようで、その日夜遅くに家に帰ると「埋めてしまったことを後悔している、やっぱり火葬してあげたい」と言うので一緒に掘りおこしにいくことにした。一度埋めたものを掘り起こすのは気が引けるけど、母親も病気で精神が不安定になってるのは分かってるし、自分自身子猫を目にしておきたい気持ち、埋葬方法にはいろいろな考え方があると思うけど火葬は祖父も同じ方法だったし、家の庭でもないどうなるかわからない場所に埋めておくよりはその方が良いのかもしれないと思った。

深夜に近所の河川敷までしばらく歩くとここだと言うので、携帯のライトを点けてしゃがんで土を掘る母親の少し後ろに立ち、削られていく地面を見つめる。しばらくしてくるまれたタオルが出てきて、合わせて4つ、なかに入っていた子猫は自分の手の指二本分ぐらいでとても小さくかわいかった。思わず頬がゆるんで、同時にとても暗い気持ちになる。皆うっすらと灰色の毛が生えていて、口が少し開いて、目は閉じていた。家の猫はあいかわらず人懐っこく健康な様子で、ただとても小さい猫で産道が狭いせいか産まれるのに時間がかかり窒息してしまったということだった。出産が始まった時は母と妹が何時間もつきっきりだったらしい。

家の猫は子猫の頃から今までまだ3年くらいなのに母親になろうとしてた。佇まいも少し変わってるようにも思う。過去にいた犬は10数年生きて死んだ。最初は僕と同じ子供だったのに僕が大人になる頃にはもう老いていてやがて息をひきとっていった。自分と犬との生のサイクルのギャップ、同じ時間の中にいてもその流れ方がおおきく違う。そういうことを思い返しすこし不思議な気持ちにもなった。

2015.09.10|雑記



先日ラフティングをしていて、河の激流の中でボートの下敷きになり「あっ死ぬのか…?」という体験を2回した。気が付くと水の中で息もあと5秒ぐらいしかもたなさそうな状況にパニック、なのに頭上は80kgある巨大ボートで塞がれていて水面に出れない。。この写真を見るとその時のことをまた少し思い出すことができる。運よく水面に上がり必死で息を吸おうとしたら、既に大量に水を飲んでいた為に喉がガブガブッとなり焦っていた。

水の中でもがきながら一瞬畠山さんが言ってた「自然の無関心」という話を思い出した。この状況で突然水の精霊が現れて助けてくれる、なんていうことは全くの「不自然」な話で、自然というものに直接関わっていれば例えば今回のようなことだって当然のように起こる。自然に対して感じる癒しのようなものはその一側面にすぎない。そういうことを身をもって理解できた気がします。。毎日肉を食べてるし革製品も使ってるけど屠殺を見たこともやったことも無い。それも同じようなものなのかもしれないな。知らないことにこそもっと目を向けなければ…

しかし死を意識したものの、それが突然訪れてだと実感は浅く終わった気がした。本当のギリギリに走馬灯は流れるんだろうか。ジリジリ苦しんでもがきながらというのは嫌だけど、一瞬で死んでしまうというのはとてもむなしいことなのかもしれない。でもそれは大抵突然訪れることがほとんどなんだろうし。

2015.08.28|雑記



玄関から一歩外に出ると、大きな団地の前には草木がほどよく茂っていて、近くの公園も緑がゆたかでそれを感じては頬もゆるむ。でも10年前のその時と比べれば確実に木の本数は減ってる。何度も工事されて綺麗に整頓されたようになってるけど、梅の木がなくなってハナムグリを見なくなった。先日部屋の窓からアブラゼミの鳴き声が聴こえてきて驚いた。ずっとここに住んでいて、ここで聴いたのははじめてだった。アブラゼミはクマゼミに比べて逃げ足が悪く、都市化によって増えているカラスの格好の餌食になっていて、年々その数が減ってると聞いたことがある。

環境保護だ保護だと色んなところでうたわれていて感化されている様子の人もたくさんいる印象があるけど、少なくとも自分の身近な人でなにかを実践してる人はほとんど知らない。環境といった問題に限らず様々な事物に関してそう。何より自分がそうであるしどうしようもない。

2015.08.25|雑記



図り知れた後悔を待つぐらいなら不幸を買う方が先決?的な結論にいたったり。

2015.08.04|雑記



国立国際美術館でヴォルフガング・ティルマンス展「Your Body is Yours」。初日トークを聞く為に朝8時半くらいに向かうと既に50人以上の人が並んでいて、あらためてその人気を感じる。。写真集などはパラパラとみたことがある程度で、このボリュームでまともに時間をかけてみたのははじめてだった。関心の幅がとても広く、対象やアプローチも様々である一方、視点に散漫さが不思議とないのが最初の印象。折れた写真を展示していたり、ウォータードロップの写真などから、写っているものに対してだけではなく、マテリアルとしての写真に対する強い関心も表わされている。実際にトークでは、1980年代当時最新だったコピー機の機能に大きな感銘を受けたことが、写真を扱う強い動機だったと話していた。何の変哲もない白い紙が特定の価値を帯びて出力される事、またそれはモノクロコピーで400%拡大することができ、拡大されることで表出するドット、といった物質性に対してであったという。

「写真はオブジェクト(物体)であると強くそう思っている」「現代で日常的に写真を撮る人は写ってるものに対して関心を持つのがほとんどだけど、それが不思議で仕方ない」そんなことも話していた。実際に展示もそのことを裏打ちしていて、例えばプリントプロセスによって生まれる薬剤の残留物や、プリントについた傷を写したもの、また撮影した写真を超高解像度のスキャナーでデータ化したあとにその細部をトリミングしたものといった作品などがそれを物語っていた。写すという行為の前後にある科学的なプロセスに対する理解やその扱いも、写真という手段において重要であると共にもっとも基本的なことでもある。そういうことが表わされてるようにも感じられた。

一方でこれだけ写真のマテリアル性を扱いながら、ポートレートなどは写る対象への眼差しに温度がある。ジェンダーについての写真が特に有名だけど、その表し方は例えばデットパンやタブローによく見るような冷徹さというか客観性というか、そういった手法は選ばれてなくて、コミュニケ-ションのなかで一枚一枚が自然と生まれてるタイプに見える。最近は、座っている人や踊っている人、楽しんでいる様子、恋をしている様子などを写すこともやっているという。展示では大阪のデモを撮ったものもあったけど、「(自分が賛成できる内容の)デモに参加している人の表情は”美しい”」と言っていた。

写真のマテリアル性と、写った対象、この両方に対する強い関心が、ティルマンス氏の一つの強い個性や力みたいなものなのかもと思った。写したものに対しても非常に思慮深く、ペーパードロップの写真に対しても紙という物質性だけではなく、たわんでおりたたまれている、その重力性や張力性についても言及してた。脱ぎ捨てられたジーンズも、その時の状況や、ジーンズに残っている一つ一つのシワから履いていた人物像にまで想像が向かっていく。

ここまで聞いてるといつも常にすごく考えてる印象だけど、写真を撮る時にはなにも考えてないと言っていた。それはもう言い切るに近い勢いで。きっと想像も絶するように膨大な知識も持っているはずなのに、とても身軽なんだろうと、それもティルマンス氏のすごさの一つになるんだろうか。なにより以前に写真という行為を少年のように楽しんでいる雰囲気を感じた。気のせいかもしれないけど。現代美術寄りなイメージがあったけど、純粋な写真家としての存在感を強く感じた。ちなみに撮影した後に見返してテーマ別にカテゴライズするようなやり方だそうで、だから一枚の写真が重複する場合もある…と言ってたような言ってなかったような。

この日は他の予定と重なって展示自体はゆっくり見れなかったので、会期中もう一度行ってみる。

2015.08.01|展示をみて



2015.05.28|*



写真なんて写真なんて写真なんてと心の中で繰り返しながら一方で何が写真なんてだと呆れた自分もいる。ニコンのDFが欲しいかもしれない。でもやっぱりフィルムかな。ポラロイドも面白そうだ。とかなんとか。そんな想像ばかりが行ったり来たりするだけでなにも進展が無いし、考えることが無駄に思える内容ばかりが頭の中に住みつくようになってしまった。考えすぎないということを今年の目標にしたのに1ヵ月半が経って結局考えすぎている。せめて文章にして、また無駄にループしないようにまとめて排出しようと思って書いている。年をとればとるほどまるで身体が足元から徐々に石化していくみたいに、くだらない方向へ固まっていこうとする。昨日それを出来なかった。今日も出来なかった。自信は今までの経験という確率から導き出してしまうから明日もきっと無理だろう。順調にいけば何も出来なくなってしまう。死にきれなかったから写真をはじめてずっと続けることが出来ているという人がいた。僕にとって写真はどれほど切実なものか?失って悲しんでいても仕方が無いけど開き直ることもできない。とにかく考えない方が良い。

2015.02.18|雑記



2015.02.04|*



人と人のあいだには、性と性のあいだには、人と人以外の生きもののあいだには、どれほど声を、身ぶりを尽くしても、伝わらないことがある。思いとは違うことが伝わってしまうこともある。<対話>は、そのように共通の足場をもたない者のあいだで、たがいに分かりあおうとして試みられる。そのとき、理解しあえるはずだという前提に立てば、理解しえずに終わったとき、「ともにいられる」場所は閉じられる。けれども、理解しえなくてあたりまえだという前提に立てば、「ともにいられる」場所はもうすこし開かれる。

  対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるために試みられるのではない。語りあえば語りあうほど他人と自分との違いがより微細に分かるようになること、それが対話だ。「分かりあえない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くことなのだ。

「何かを学びましたな。それは最初はいつも、何かを失ったような気がするものです」(バーナード・ショー)。何かを失ったような気になるのは、対話の功績である。他者をまなざすコンテクストが対話のなかで広がったからだ。対話は、他者へのわたしのまなざし、ひいてはわたしのわたし自身へのまなざしを開いてくれる。

対話は、生きた人や生きもののあいだで試みられるだけではない。あの大震災の後、わたしたちが対話をもっとも強く願ったのは、震災で亡くした家族や友や動物たち、さらには、ついに、”損なわれた自然”をわたしたちが手渡すほかなくなってしまった未来の世代であろう。そういう他者たちもまた、不在の、しかし確かな、対話の相手方としてある。
(対話の可能性/せんだいメディアテーク館長 鷲田清一)

2015.01.02|引用



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