演技を言葉に合わせ
言葉を演技に合わせるのだ
特に厳守してもらいたいのは 自然の節度を超えないこと
何事もやりすぎは 芝居の目的に反する
芝居の目的とは 昔も今も
いわば自然に向かって鏡を掲げること つまり
美徳には美徳の様相を 愚には愚のイメージを
時代と風潮にはその形や姿を示すことだ
やりすぎたり いい加減であったりすれば
一般客は笑っても 目利きの客は悲しむことになる


2014.12.28|引用



夕方、家を出るとすぐ近くにある公園には今日もたくさんの少年少女が走り回ってたりしてる。道路の脇で集まってゲームしてる連中もいるし、駄菓子屋にたむろしてる連中もいるけど、そういえば20年ぐらい前には僕もよくここでお菓子を買った。少し歩くと路面電車が走っていて、ママチャリが行き交う。夕飯の買い物時だから商店街では店の人と買い物客でにぎわってる。この場所のこの時間帯がとても好きだといつも思う。

2014.10.08|雑記



実家は海に面した山中のとある集落にある。生き物が豊富で人は優しい。 僕はここで過ごしてきた時間の事をこれからも携えていく。

2014.07.25|雑記



「わたしが、お母さんをぜったいに許せないのは、お父さんを捨てたことでも、新しい人のところへ行ってなにもかもなかったことにしたことでもなくて。最後まで。最後まで、可哀想だって思いつづけなかったことよ」

2014.07.25|引用



シャワーで頭を洗ってる途中、いきなり何かが物凄い勢いでこみ上げてきて、しばらく涙が止まらなくなった。僕は相手にある言葉を伝えて、またその言葉は自分の中からごく自然に出てきたものなんだと話した時や、今日の夕方、訳の分からない文章と理不尽な態度に対しての返事。今朝みた映画に偶然「チントンチントン」という音が流れるシーンがあった。別の映画で登山する場面があり、さっき河川敷でランニングしたばかりだったからと、険しい山を登る際の辛さのなんとなくの実感が、今後の事の想像に繋がる。あの時、その人はブルーのダウンジャケットを着ていて、伏せ目になっていた僕の顔を覗き込んで言った言葉。といったような事が、頭の中でそれこそ走馬灯みたいに流れてた。

2014.06.28|雑記



チントンチントンという音を時々思い返す。高いドと、普通のソが、木琴に似た音色でテンポよく、等間隔に流れ続ける。最初にそれを聴いたのは去年の夏で、鳥取の実家から一人、植田正治写真美術館へ向かう道中の電車内だった。速度をゆるめはじめてから完全に駅に停車するまでの間、決まってこの音は車内に鳴り続けた。その日は平日ということもあり人はまばらで静かだったし、天気がとても良かった。真夏だったけど、山に囲まれたこの地域は大阪と比べてずいぶん涼しく、空気も澄んでた。 今年の春にその音を再び聴く機会があった。だからその時、この鳥取での記憶を思い返したのだけど、そういえば幼少期の僕は鳥取で暮らしてた頃もあったみたいだから、もしかするとその時からこの音を知ってたんじゃないかと思ったりもする。

性的などうのこうのとか、というのも勿論あるのかもしれないけど、僕がそう感じてたのは一緒にテレビをみてる時や、ドライヤーで髪を乾かしてあげた時、それから近くの駅まで一緒に歩いたりしてる時だったように思う。

それらも全部、ある一つのとても重要なことをやっぱり示唆してる。そもそも僕は大人ではないし、大人びたことができなければ発言することもできない。だから尚更そう思える。

2014.06.11|雑記



写真はあくまで表面的な部分で、その本質的な部分の話を気兼ねなくできる人といると沸き立つものがある。ただ、沸き立ってることを実感してる時点で自分は腑抜けてしまってるのだなともよく思う。相変わらずカメラは毎日持ち歩いているし、何かしら写真も撮ってるけど、それが惰性なのを否めないことが本当に多い。そういう実感が積もり積もって日々のテンションはどんどん落ちていく。 

表現活動を続けている知り合いのある人が、自分の生い立ちについて、えんえんと涙を流しながら赤裸々に話してくれたことがあった。その様子は、まるでその人自身の表現の原動力というか核の部分というか、そういうものを目の当たりにしてるようでもあった。そのあと、じゃあ自分のそれはなんだろうかってあらためて考えてた。

僕自身の原動力は多分、やっぱり自分以外の誰かの存在にあるんじゃないかとは常々思う。小さい頃、虫採りをする時はもちろん、絵や漫画をかいたり、何かを作ったり、休み時間や授業中騒いだりしてたのも、それは常に、周りの反応に対して期待を抱き起こす行動だった気がする。勿論無作為にそうするわけではなく行動に至る強い動機があって、それは単純に僕自身が面白いと感じたり、なにかしらの感銘がその発端にはある。

逆を言えば、自分以外の誰かの存在無しに、そういった行動を起こすことは無かったように思う。だから、誰の目にも触れず、ただ黙々と自分自身の為だけに夢中で何かを続ける人はすごいなと思う。誰かのリアクションは目的に無く、人知れず、一人ただ夢中で何かを続ける人。(ただもしかすると、僕は僕で「周りの反応に期待を抱き行動を起こす」ことに、自分一人で夢中になってた、とも言えるのかもしれないけど。)

2014.04.07|雑記



写真を撮る上で、私は若さや美しさといった表面的な造作にはほとんど興味がない。それも人をつくり上げるひとつの要素だけれど、生きてきた過程で生まれるオリジナリティが見たい。平均化され、理想化されたものに個性はなく、むしろ一般論から外れたところにこそ、その人の思考や感性が現れると思っている。世間の常識を身にまとった姿を崩していったとき、その奥の姿が見えてくる。 (インベカヲリ★「やっぱ月帰るわ、私。」あとがきから)

2014.02.27|引用



前にいた職場で再び働き始めてしばらく経った。勤務地もやることも立場も、これまでとは違うけど、周りの人達はいつも通りに接してくれる。三学期ということで、昨日から学校もはじまった。こちらはそろそろ一年経つことになる。日々写真を撮ったり、考えたりしながら、仕事しに行って、それから学校で授業を受ける。表面的にはそんな生活になる。

僕はなんで写真をやってるのか。これから先、どんな風に過ごしていきたいのか。どっちにも共通して、自分以外の誰かのこと。それらの悩み全部がむずかしい。なんなんだろうなってなる。でもとりあえず一つ目は、少なくとも学校の間は深く考えると逆に損する気もするし、深く考えず今に取り組んでいけば二つ目も開けてくるのかもしれない。だから多分、三つ目が一番の問題なんだとはいつも思う。

誰にでも関心があるわけじゃない。人もピンキリだと思う。ただ話を聞いてもらえたり、笑ってもらえたりするのが嬉しい、それは相手が誰でも変わりないかもしれない。こどもの頃、親が運転する車の後部座席に座ってるときに、後ろを走る車を運転する人に向けてよく手を振ってた。みんな笑顔で手を振り返してくれるのが嬉しくて、いつもそんなことをしてた。

今はそれができない。けど幼少期のそういった経験が、写真をやることにもつながってるのかもしれない。落ち着きのなかった頃と比べて、今はその頃の自分になにかがベタベタ付着して、身体がうまく動かせなくて息苦しい。それでも誰かに手を振りたい気持ちと、思うように身体を動かせないジレンマを解決することが、三つ目の問題をどうにかする糸口にもなる気がする。

ただ、手を振ることが写真なら、そもそも写真である必要性は薄い。でもこのジレンマは多分目に見えるものから沸き起こってて、僕が未だちゃんと見ることができない誰かに関することだとも思う。

2014.01.15|雑記



2014.01.11|*



2014.01.01|*



20192018201720162015201420132012
blog topmain site