12月27日は僭越ながらお昼からいとへんさんのお茶会にお呼ばれ、夜はフォトギャラリーSAIさんの「望」年会。どちらもすごく素敵なおもてなしで、こんな自分には本当に勿体無いぐらいの贅沢な時間でした。来られている方もまた素敵な方ばかりで。。 しかし、その”素敵な方”に共通するのは一体なんなんだろうと少し考えて、もしかしてそれは「芸術」に深い関心を持っていることなのかなぁとふと思った。なんて言いながら「芸術」って一体なんだろう。。こどもに絵を教えている某氏の「そんなこといつまでやってても仕方ないから」と保護者によって生徒が途中で辞めさせられていってしまう、という話が印象的だった。それはこの現代社会で暮らしていく為のことで、わが子を想っての配慮なのだろうから、そういう意味で正論だとは思う。そう思いながら、いつぞやかにfacebookで読んだ佐藤忠良さんの言葉を思い返す。 SAIさんでの望年会の帰りしな、ギャラリーの玄関にsuzukieさんの作品が飾ってあるのに気付いてビックリ。今年の2月にグループ展でご一緒していたこともあって、その作風は一目で分かるものでした。こんな素敵な空間に飾られているsuzukieさんの作品が、少し羨ましくも思った。僕も頑張らねば。。。

2012.12.29|雑記



美術を学ぶ前に、私が日ごろ思っていることを、みなさんにお話します。というのは、みなさんは、自分のすることの意味――なぜ美術を学ぶのかという意味を、きっと知りたがっているだろうと思うからです。私が考えてほしいというのは、科学と芸術のちがいと、その関係についてです。みなさんは、すでにいろいろなことを知っているでしょうし、またこれからも学ぶでしょう。それらの知識は、おおむね科学と呼ばれるものです。科学というのは、だれもがそうだと認められるものです。科学は、理科や数学のように自然科学と呼ばれるものだけではありません。歴史や地理のように社会科学と呼ばれるものもあります。これらの科学をもとに発達した科学技術が、私たちの日常生活の環境を変えていきます。ただ、私たちの生活は、事実を知るだけでは成り立ちません。好きだとかきらいだとか、美しいとかみにくいとか、ものに対して感ずる心があります。これは、だれもが同じに感ずるものではありません。しかし、こういった感ずる心は、人間が生きていくのにとても大切なものです。だれもが認める知識と同じに、どうしても必要なものです。詩や音楽や美術や演劇――芸術は、こうした心が生みだしたものだといえましょう。この芸術というものは、科学技術とちがって、環境を変えることはできないものです。しかし、その環境に対する心を変えることはできるのです。詩や絵に感動した心は、環境にふりまわされるのではなく、自主的に環境に対面できるようになるのです。ものを変えることのできないものなど、役に立たないむだなものだと思っている人もいるでしょう。ところが、この直接役に立たないものが、心のビタミンのようなもので、しらずしらずのうちに、私たちの心のなかで蓄積されて、感ずる心を育てるのです。人間が生きるためには、知ることが大切です。同じように、感ずることが大事です。私は、みなさんの一人一人に、ほんとうの喜び、悲しみ、怒りがどんなものかがわかる人間になってもらいたいのです。美術をしんけんに学んでください。しんけんに学ばないと、感ずる心は育たないのです。 (佐藤忠良「少年の美術」から)

2012.12.29|引用



2012.12.27|*



一週間ぶりの仕事の帰り、電車の中でふと「結局自分は何をしたいんだろう?」と不安になって、とりあえず来年の目標ということで即座に思い浮かんだアレコレをメモに書いてみた。ら、その答えは以前より明瞭にみえはじめているように感じて少しだけほっとする。。 個展はこれまで何度も参加していたグループ展等とは違って、イチから全て自分が取り仕切ることになるから、当然準備には時間もかかるし責任だって必然的に大きくなる。そんなことは分かっていたけど、いざ向き合ってみるとそれは想像以上に大きくてその輪郭すら分からないぐらいだった。だから準備一つにしても、とにかく思い当たることは片っ端から全部やらないと気がすまなかったけど、終わってみれば、まだまだ他にもやり方はあったのかもしれない、ということをまず思い知らされた。 それは、例えば写真に予期しないものが写っていて、でもそのなにかを受け入れることで視野が広がっていくのと似てるのかもしれない。写真に限らず、自分の中のいろんな部分に定められた限界点のひとつを、個展という機会によって打ち砕かれたというような。そうやってまた新しく目の前に現れた道を見つけられることが成長、みたいな話を鈴木さんがしてたような気がするけど、前よりかはその意味が理解できるかもしれない。なにより、おかげでメモに書けたこの目標に向かって、またこれからを過ごしていけることが本当に有意義だと感じます。

2012.12.25|雑記



2012.12.24|*



ついにはじまったと思った個展は、気付けば今日で二日目が終了。搬入前から、初日、最初のお客さんが来るまでは本当にずっとドキドキしていて、それはまるで一人知らない国へ旅行に出掛ける前のような気分だった。もっと言えばその国は少し治安も悪くて、だから学校の遠足とは違い、大きな期待に比例してつきまとう不安がどうしようもない質のものだった。 個展がはじまってからは、当初の不安は少し落ち着いた代わりに、考えることがどんどん出てくる。今展示してる写真のことや観てくれる人からの意見は勿論、その周り(もしくは根っこ?)にある、いろんなこと。その全部をどんどん口につっこまれるから、今はもごもごしながら咀嚼しようとしてる段階、のような感覚。多分、個展が終わってしばらくしたあたりからやっと消化されはじめて、するとあらたな指針が見えてくるような気がしています。今はまだ旅の真っ最中。。

2012.12.21|雑記



今月の19日(水)より23(日)まで、中崎町はiTohen(いとへん)にて、自身初の個展を開催させて頂きます。 ――――――――――――――――――– 「三保谷将史 写真展 マチノファスマ」 ■開催日時 2012年12月19日(水)-23日(日) 12:00-19:00 / 最終日は18:00までの開催 ■開催場所 iTohen Gallery Books coffee (地図はコチラ) *会期中は全日在廊します。  休みのシフトを調整して下さった職場の皆さんには本当に頭が上がりません。。 ――――――――――――――――――– タイトルは、子供の頃一番印象に残っていた昆虫の名前にプロトファスマ(Proto=最初の・原始の/phasma=異様なもの)というのがいたのですが、そこからの造語です。写真を撮っている時の感覚が、子供の頃に虫捕りをしていた時と似てると感じることが多く、だったら今撮っている写真は、言ってしまえば新種の昆虫のようなもので、だからそれらに総称した名前をつけようと考えたのが今回の題名に至りました。 今年の夏より撮影していた写真の中から、30点程の展示を予定しています。 iTohenはギャラリーのほか、本を読んだりできるカフェスペースも併設されていますので、 ぜひゆっくりしにいらしてください。 コーヒーのほか、レモネードやフレンチトーストも非常に美味ですよ・・・! なにかと忙しい年の瀬ではありますが、 ご都合よければお気軽にお越し頂けると嬉しいです。 皆様のお越しをとても楽しみにお待ちしてます!

2012.12.09|お知らせ



ビーツギャラリーで開催されていた谷口円写真展「comfortable hole bye」。展示に対しての直接的な感想ではないかもしれないけど、コーンの写真2枚についてはやっぱり考えた。「死」というものが主題に置かれていることもあって、赤白のコーンと真っ黒のコーンは、単純に生と死の対比のようにも見えるし、だからある意味で全体を象徴する二枚のような見方も出来る。ただそれ以上になにかひっかかるものがあって、もしかしたらそれは、観る人にとって身近なものだからなのかもと思った。 展示の大半を占めるのは剥製の写真で、でもそれはあまり身近なものとは言えない。それが良い悪いではなく、ただ剥製にはテーマを含んだものが写されているけど、身近じゃない、という事実が、観る側との間に一枚の壁を作り出していたとして。コーン二枚は、他の写真群と同じ意味を担うなかで、かつ身近にあるものということが、その一枚の壁を無効化させる突破的要素になっていたのかもと思った。おかげで、自分にもいつか必ず訪れることでありながら、やっぱりまだどこか遠くにあるように考えてしまう問題を、急に目の前にポンと差し出されたようで鳥肌が立った。 展示全体をみていて、どことなく「映像」を感じた。単純にBGM(波の音)のせいもあったのかもしれないけど、具体的になんで「映像」なのかは自分でもよくわからない。。ただ間違いなく言えるのは、写真のレイアウトや照明のこともあって、今回の展示は写真展というより、写真を使ったインスタレーションに近いものだったということ。椅子に座って眺めるという谷口氏オススメの方法で観れなかったことが残念。。

2012.11.29|展示をみて



小学校からの友人であるM君とT君とは、住んでる家が近いこともあり、地元では偶然よく会う。今でこそ環境も手伝って、写真のことを考えるしそんな話ばかりの日常ですが、だからか、二人と話をする時間に妙な新鮮さを感じる。M君は仕事柄、電線にとても詳しくなっていて、なんでも一番上のほうに伸びた電線は触っただけで死んでしまうのだそう。。普段気にも留めなかったけど、すぐそこに見えるものだけにぞっとする。それから二人とも結構な読書家だったことを知る。昔も今も馬鹿なことばかりやってる(悪い意味ではなく)と思い込んでいただけに驚く。小説の話をするM君はいつもにまして元気だった。

2012.11.28|雑記



2012.11.22|*



2012.11.22|*



ナダール大阪・吉行陸さんの「停戦の朝~Trêve-Matin」。あれは一体なんだったんだろうと、脳内に強く印象に残る写真の数々…。そこに写る、日常ではまずありえないモノとモノとの組み合わせによって創作された”出来事”をこうして生み出すのは、ライフワークのようなものだとおっしゃってた。 色彩と造形の組み合わせによるインパクトが真っ先に入ってくる。写っているものが具体的になんなのかの判断は十分出来るけど、その第一印象が、写ったモノ自体にある意味を既に崩壊させてた。そしてその得体の知れない創作はまるで幼子の遊戯のようにも感じる。なにも知らないこどもは食べる物で遊ぶことにも、生物を殺してしまうことにも良し悪しの判断基準はない。その至純に満ちた意識が、この不可解な事実に説得力を含ませているようでもあった。

2012.11.22|展示をみて



写真を発見するということはしかし、イコール「それが自分のものになる」ということではないよ。そこを錯覚しちゃう人がまた悩むんだ。写真はあくまで写真。発見した写真と自分とは、つね対峙していなきゃいけない。なぜならそこから選択し、場合によっては捨てることもしなければならないのだから。(@kasaichikashi) 多くの人は目先にとらわれ、目先のことを追いかけようとする。自分に問題があっても、人のことをあげつらい、人のせいにしようとする。しかし、こんなことをやっている限り変化はないのだ。自分自身に本気で向かい合い、次にどこへ向かうのか決めるのは自分しかいないのだ。誰も答えてはくれない。(@koikehiroshi)

2012.11.09|引用



展示の意図を説明してもらった時にはじめて深まる理解は、出展している人の理解であって、言い方を変えればそれだけに過ぎない?写真は現実を写す媒体で、それを撮った人は全人類を一列にした時ひとつ頭が出るような立場にはなっても、その写真は結局誰のものでもなく、写真は写真でしかない。とすれば、出展者もまた一人の来廊者(観る人)と言える?

2012.11.09|雑記



「悪というものの平凡さ」に言及しましたが、それは平凡さとは、ある点でなにか恐ろしいものでありうることを示すためです。平凡ということを、人をぞっとさせるなにかとしてひょうげんすることが問題なのです。シャンデリアの作品《フランドルの冠》は怪物です。私はわざわざ本当の怪物を描く必要などない。この物体、このダサくて小さくて平凡なシャンデリアを描くだけで十分なのです。この物体は恐ろしい。フランシス・ベーコンと自分のちがいをいうために、かつてのべたことがありますが、私なら顔を変形する必要などない。人々の顔を写真に写っているそのままに平凡に描くことのほうがずっと恐ろしいですよ。そうすることで、平凡なものはたんなる平凡以上のものになるのです。 … 壁画をおもしろいと思うのは、そこに見知ったなにかに似たものを探すからにほかなりません。なにかをみて、頭のなかのなにかとくらべ、なんに関連しているかをみいだそうとする。たいてい、類似のものをみいだすので、それを名づけます。テーブルとか、毛布とかね。類似のイメージがなにもみいだせないときは欲求が満たされないので、神経は興奮しつづけ関心も持続し、やがて飽きると我々は絵のそばを離れるのです。ブクローとの議論で私がのべたのはこういうことでした。マレーヴィチだろうがライマンだろうが同じです。そういうふうにしかみるほかない。マレーヴィチの《黒い正方形》の解釈は好きなだけあるでしょうが、作品は一つの挑発でありつづけます。挑発されたあなたは対象を探し、なにかをみいだすでしょう。 (ゲルハルト・リヒター「写真論/壁画論」から)

2012.11.04|引用



写真は絵よりも、具象であるといえば具象であり、具体的であり、現実的である。絵における抽象と写真の抽象とは別のものであり、そのコンセプトも異なる。写真は、見ればわかるし、また、見てわからぬものを写真は撮れない。その見ればわかるものに、なぜ題をつけるのだろうか。 写真の場合も絵と同様に、題が記号と内容のシンボルをひき受けているのが一般的である。しかしそれは、写真が出来上がってからの結果であって、写真集のようなものを別にすれば、たいていは題をきめてから写真を撮らない。 … 本来、写真の場合は、番号に近い記号性を題に依存する程度にとどめて、なるべく写真に”ついて”は喋らぬ方がいいように思える。そうでないと、写真というものの自立性が失われる。ハッキリいうと、写真がものをいっていないのに、それを撮った人間がものをいっても仕方がないのである。写真は、他のいっさいの手助けなくて、そこにあった方がいい。逆にいえば、コトバの説明を必要とするような写真は、それだけ写真の力が弱いということにもなる。 (富岡多恵子「写真の時代」から)

2012.10.31|引用



2012.10.25|*



言葉にすると、途端にきれいごとへ全部が流されていってしまいそう。だから話すことがとても苦手。

2012.10.25|雑記



我々がみている現実をあてにはできません。人がみるのは、目というレンズ装置が偶然伝え、そして日常の経験によって訂正された映像だけなのですから。それでは不十分であり、みるものすべてのほんとうの姿はべつではないか、と好奇心をもつからこそ、描くのです。 (ゲルハルト・リヒター「写真論/壁画論」から)

2012.10.25|引用



感覚に身を任せて写真を撮っていると、その撮影者がいつのまにか自分の中にいる誰か…つまり他人が撮ったもののように感じる時がある。だから撮影した理由をハッキリと言語化できないことが多いのかもしれない。しかし、そうやって出来上がってくる写真を組んだり、文章を加えたりすることは僕自身にしか出来ない。自分の写真の一番の理解者は自分、だとしたら、それをカタチにすることはある意味一つの責任なのかもしれない。

2012.10.23|雑記



2012.10.20|*



先日訪れた北海道で、生まれてはじめて馬という生き物と接する機会をもった。自分より身体が大きく、見るからに立派な体幹を持ったその動物は、僕を怖れてはいないものの、どうやら草を食べることに夢中のようで、気を許しているのかどうか察することもできない。乗馬する為には、馬の頭に無口と呼ばれる頭絡をつけないといけなかった。でもこの硬いロープのような生地で頭を縛るなんてきっと嫌がるだろうし、ましてや見知らぬ人間を背中に乗せるなんて…そんな自分の経験則でばかり物事を考えてしまい、ただ近くで語りかけたりする、そんな差し支えの無い距離を保つことが限界だった。。 そんなことを1時間近く(!)繰り返していると、それまで自分の存在などはなから無かったかのように草を食べ続けてた馬が、自分の目の前で立ち止まるようになる。それは地道に繰り返してた語りかけが功を奏する…といった絵本の物語のような話ではなく、馬はある程度調教されてるからなのだけど。僕はその時、既に馬に乗りたい気持ちがほとんど無くなってた。厳密に言えば、乗りたいけど、それが馬にとって何かしら不快になってしまう可能性があるなら、だったら自分の自己都合でしかないからと気が進まなかった。ただ、少なくともさっきまで僕を避けまくっていた馬が、今は目の前で佇んでいる…。恐る恐る無口を馬の頭にかけると、あっさりとそれは結べてしまった。 それから背中に乗り、草原をしばらく歩いた。馬の背中は岩のように堅くて大きく、たくましかった。そこから見える景色の高さは新鮮で、こどもの頃、父親に肩車をしてもらった時の楽しさと懐かしさもあった。歩き続ける間も馬に語りかけ続けた。言葉の意味が伝わることは無いだろうけど、自分の姿勢のようなものが少しでも伝われば良いなと思っていた。僕が何かを口に出す度に耳を動かす姿が少し愛らしく感じた。なにより、僕を背中に乗せて歩き続けてくれたことが嬉しかった。結局馬がなにをどう思っていたのかは分からない。ただこの体験によって自分の経験則の狭さを痛感し、またそれが大きく更新されたような気もした。

2012.10.20|雑記



2012.10.20|*



久々にスタジオ5に行くと「おもしろいものがある」と勢井さんがガラス乾板を見せてくれた。戦前に撮られた集合写真なんだそうで、年に1、2回、こうしたネガも未だ持ち込まれることがあるらしい。。白いカビ(?)が生えてきてたりといった年季も手伝ってか、誰かの大切な記憶の断片という重みが、そのネガという原本の質量にしっかり含まれてるよう。デジタルがこれからどんな風に発展していくのかは分からないけど、少なくとも銀塩にある物質感や、うまく言えないけど温度感、そういうものは、記憶を記録するメディアとしてかけがえ無いものなんだと改めて感じました。写真はスタジオ5内に貼ってある猫。いつも眺めてしまう…

2012.10.05|雑記



…それはそれを見る者の<遠近法>をもゆるがし、見る者を不安に導く。だが、そのことによってひとは再び見るとは何かをあらためて問い直す。それは不安ではあるが一種のすがすがしさをも伴っている。なぜなら、見るとは、正確には、意味で固められたわれわれの視線を他ならぬ見ることによって崩壊させることであり、そこにかつて見ていた、所有していたと信じていたものが崩れ去ってゆくのを目撃し、それにかわってまったく新たなものを再発見することであるからだ。意味の崩壊と再生。見るとは本来そのようなものである。… …むろん、それらの写真には、私がまだ見たこともない、例えば、アメリカ西部の広大な平原と眩い太陽の光とそこに生きる人々の荒々しくまた明るい顔が写されており、その土地の独特な自然と事物のあり様が印されてはいる。だが私はすぐに、あれこれの土地、あれこれの場所に出向いてゆくならば、ただその気になりさえするならば、そのようにひとびとは生き、事物は存在しているのだろうと、一気にすべてを<了解>してしまうのだ。そしてすべて<了解>されたものは、すでにそのことによって私を驚かしはしないし、むろん脅かすことなどあろうはずはない。私は急速に、それらの写真とそこに写されてあるものに無関心になってゆく。あまりにも当然すぎるではないか、いつだってそれらの写真を前にして感じるのはそのような白々しい思いである。… (篠山 紀信・中平 卓馬「決闘写真論」から)

2012.10.03|引用



絵や立体といった表現物に対して、写真はその”窓口”が広い。それは記録の為のツールとして一般的に普及する媒体だから、という点が大きいと思う。だからその人口はとても多いように感じるし、その数に比例して、写真に対する姿勢も人によって本当に様々、ということもよく感じる。ただ、そんな風にいろんな人がいるから、時には衝突が起きることだってある。ぜんぜん詳しくないけど、なんだかそれはアメリカとか、そういう多民族の国と似てるのかなぁなんて思ったりする。

2012.10.01|雑記



今の自分にとって写真を撮るということは、こどもの頃夢中になっていた虫採りと感覚が似てるような気がしてならない。「出合い」の「共有」という意味でその二つは大きく共通してる。「共有」したい時、その方法として言葉はもっとも基本的だけど、言葉だけでは、共有したいそのもの自体を直接見せることにはきっと敵わないと思う。虫を「つかまえる」理由はそういう部分がたぶん大きかった。でも、その対象がなんで「虫」でないといけなかったのか、ハッキリとした理由は思い出せない…

2012.09.24|雑記



いろいろなものを写真に撮るのは、それを精神から追い払うためだ。私の小説は目を閉じる一つのやり方なのである。 (ロラン・バルト「明るい部屋」から)

2012.09.24|引用



2012.09.11|*



小説家は問題を解決する人間ではない。問題を提起する人間である。 (チェーホフ)

2012.09.11|引用



2012.09.07|*



齋藤陽道写真展「感動」。前回一度観に行って、その時はスライドの上映が無かったからもう一度観に行ってきた。スライドでは一枚がまずゆっくりフェードインしてきて、それから少ししてフェードアウトがはじまり、それと同時にまた次の一枚が現れはじまることが繰り返される。何週か観てると不意に、スライドショーに流れる写真全部が頭の中で重なる瞬間があった。同時にそれが一つの大きな声になって、けど鼓膜には響かず額をすり抜けて頭のなかではじけてその体験に鳥肌がたった(抽象的すぎ…)。 写真の並びに関して齋藤さんは「写真に組まされてる」という。色んなものがあってそれぞれは全く違ってるけど、その中には必ずなにかしら小さな共通項みたいなものがあり、それを繋いでいくので…というような話(だったと思う…)。写真を組むことには色々なパターンがあると思うけど、その人にはその人なりの必然というものがきっとあって、齋藤さんはそれを深く理解されてるんだろうなと思った。全体を一つとして感じたあの体験は、そうやって注意深く縫い合わされたものだったから…?

2012.08.30|展示をみて



スナップショットと肖像権、一種の自己規制のようなことは、先日僕が関わったキヤノンの「写真新世紀」でもありました。優れたスナップショットであっても写された人の了解が取れないから、授賞は無理という。かわいそうなことに、写真集にする際にもその部分にぼかしをかけるしかない。そういう自己規制が、僕は本当に嫌なんです。要するにいつの間にか他人に写真を撮られていて、そこに写された私は人から見た自分というわけですよね。テープに録音された自分の声をおぞましいと感じる人が多いのと同じように、了承していないのに撮られた自分の写真が人の目に触れるのは許せないという、その感覚はとても小児的というか。だって生きていくということは、そういうことに過ぎない。それに耐えられないってどうだろうって、本当に不思議ですね。いつの間にみんな、そんなに子供っぽく自意識過剰になっちゃったのかって。もちろん自意識過剰という問題じゃなく、法的なものですけど、そういうことを言い出すと風景だって同じですよね。私の家が写っている写真を許可なく使わないで下さいとか。写真は根本的に盗撮であり、自分の管理を簡単にはみ出すものであり、当然嫌な、怖い部分があるわけです。ひとたび「自分のイメージは自分で管理する」と言い出すと、写真表現全般が不可能になってしまいかねない。その自己規制はやめて、写っていて嫌な人がいたら取り下げるという方が良いと思います。 (鈴木理策,鷹野隆大,松江泰治,清水穣,倉石信乃「写真分離派宣言」から)

2012.08.29|引用



写真というのは、シャッターを押せば誰でも撮れてしまうし、現実をそのままトリミングしたものだと思われがちですよね。例えば、一枚の写真を見た時に、「現実はこの写真よりもっとスゴイんだろうな」としか感じられなかったら、所詮写真は現実のアイコンみたいなものでしかないということになるけど、写真を見ていて面白いのは、現実にはないような何かがそこで作られていることで、その写真を見る体験は、撮影された場所に行く体験とはまったく違うものなんですよね。写真を見るという体験の方が現実よりも強度があると思えた時に、先ほど話した「見ごたえ」というものを感じるんだと思います。 (大和田良×平野啓一郎「カンバセーションズ」から)

2012.08.29|引用



CASOで開催していた「写真。」が終了しました。今回の展示に関しては観る人が多かった分意見も様々だったと思います。そんな中で僕が個人的に魅力を感じたのは「匿名性」で、レイアウトシートはあったけど壁面にネームプレートが無かった分、通常の写真展と比べると写真が撮り手から独立してる感が強く、そこがなんだか良かったと感じています。60枚全部で一枚の写真として観た時、それは確実に誰かが撮ったものなのに誰のものでもない、その異様なスケール感にドキドキしてました。来年の開催に向けて写真サイズや展示コンセプトなんかについて既に意見交換がはじまってるから、次はもっともっと面白くなると思います。

2012.08.28|展示をみて



明日からはじまる「写真。」の搬入に参加。B0写真を直に壁面へ貼り付けていくのですが、その過程が未知の体験ばかりで、いろんなことを知ることができた。帰りにメンバーの一部の皆さんとアセンスで齋藤陽道さんの写真展を観にいって、そのあと軽食にとカフェへ。皆さん写真の話ばかりしてた。当たり前のことかもしれないけど、そんな当たり前な時間の居心地が良かった。

2012.08.20|雑記



水の中に顔をつけていると、呼吸ができないからだんだん苦しくなる。そうして限界の寸前で顔をあげ思いっきり息を吸い込む。自分にとって本を読んだり映画を観たりすることは、それに近い行為なのかもしれない。もしくは逆?

2012.08.15|雑記



以前、何度も自殺しようとする夢をみた。最初、防波堤から海面へ倒れ込もうとする。でもその瞬間、宝石が散りばめられたように目の前にきらきらしたものが広がって、それは太陽の光が水に反射してるだけで特に珍しい光景でもないのに、気が付くと写真を撮ってた。すると場面が切り替わって、また別の場所で死のうとしてるけど、その間際に見る景色に魅了され写真を撮る、その繰り返しで結局死ぬことはできなかったという。。その姿勢が正夢だったらいいなぁ…

2012.08.15|雑記



8月の展示予定を更新してます! http://mihotanimasashi.com/info.html

2012.08.08|お知らせ



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こまごまとした用事をほっぽりだして長い時間話をする自分に少し違和感がある。そんなもの感じず、純粋にその時間を楽しめばいいのに、いつからこうなったのか…。また一方で、ひとつの大きなキッカケに出会えた。これまでに無いぐらい心が震えあがる。でももしかするとキッカケという単純なソレを求めていただけかもしれない。自信を持って否定はできない。いろんなことがまた動きだそうとしてる…なんていう一種の気配みたいなものに期待する今みたいな時間が本当に無駄。

2012.08.07|雑記



いま、Instagram(インスタグラム)が楽しい。これまで編集者という立場ながら、デジタル一眼カメラは持っているけれどめったに持ち歩かず、持っていてもあまりシャッターを切らない。さらにコンパクトデジカメですら自分にとってはハードルが高く、記録を撮るためであれ、純粋に写真を撮る楽しみであれ、撮影行為が身近なものにならなかった。インスタグラムの登場は、そんな僕の写真への態度を変えた。 Instagramは、スマートフォン(iPhone.Android)で撮影をして、写真を共有する無料アプリ。今年4月にはFacebookが10億ドル(約800億円)で買収するほど、爆発的な人気を誇っている。写真版Twitterとも言われるように、アップロードした写真に対してフォロアーから「いいね!」やコメントが付いたりと、写真を使ってコミュニケーションできるSNSとして普及している。ただ、なんといってもInstagramの人気の秘密は、「フィルター機能」にあると言えるだろう。ポラロイドカメラ風やトイカメラ風にしたり、セピア色にというイメージ加工によって、自分の撮るちょっとした写真が、まるでマジックのように良い雰囲気の写真に様変わりするのは感動的だ。僕もInstagramを使い始めてから写真を撮るのが楽しくなり、とくに海外に行ったときなど、何気ないスナップを撮ってはアップして楽しんでいる。 ここに、万人がほどよく良い写真を大量に撮ることができ、万人と共有することができるという環境が出現した。また、画像データのパラメータを操作するフィルター機能で気に入ったイメージを作れるということは、「いい写真」はある程度フォーマット化できるということでもある。つまり、「美しい写真」というような表層的なイメージの価値は、相対的に低下していかざるを得ないのだ。そこで、写真の価値をどこに見定めるのか?そのなかで、写真家の写真に対する向き合い方、写真的立ち位置は、必然的に動いていくだろう。 今回の特集で扱うのは、写真をめぐる社会環境が激変した現在において、写真の概念も更新されつつあるのではないか、という問題設定である。日増しに技術的革新が進むデジタル写真、その可能性の探求はいまだ緒についたばかりだ。約200年前、写真の黎明期にさまざまな方法が噴出したように、遠くないうちに写真表現の「カンブリア大爆発」が起き、写真がアートの大実験場となる。… (岩渕貞哉「美術手帳/写真2.0」から)

2012.07.29|引用



…これを少し違った視点から見てみるならば、われわれはまたこの世界において”諸事物の悪意”とでも言ったものにとりかこまれて生きている。われわれは、世界に、事物に、慣れ親しんだ名辞を与え、それらを所有したように思い込んで生きている。これは木だ。これは花ビンだ。これは”まち”だ。情緒というヴェールによる事物のからめとり-事物の人間化。それに対して事物はまったき沈黙をもって応える。… – …われわれは、異質なものには目をつぶり、つとめて見ないようにと努める。そのようにしてわれわれはこの”まち”の中を生きているし、それをこの”まち”として認知している。”まち”は安定したものであり、これからも変わらずそのようにあり続けるだろう。つまるところそれは不動の<私>という観念、イデオロギーの反転である。… – …しかし、われわれは、なぜこのような事故や災害といった偶然によってしか、<遠近法>を自分の方から崩そうとはしないのか。<私>が崩壊することへの恐れからなのか。たしかに石化した<私>に、われわれはなんとしてでもしがみついて生きようとしているのだ。それは、大人が遊びを忘れてゆくこと、冒険を忘れてゆくことと、どこか関連がありそうだ。子供にとって遊びとは、未知なるものとの触れ合いである。遊びには危険がついてまわる。にもかかわらず、子供たちはこの出会いを通じて自己を確立してゆく。事物と自己との関係をそのつど改変しながらパーソナリティーを形成してゆく。それがひとたび大人とよばれる<私>に成長するや、こんどは<私>をゆるがすあらゆるものを排斥するようになってしまう。なにか決定的な変化が起こったのだ。… (篠山 紀信・中平 卓馬「決闘写真論」から)

2012.07.27|引用



大きな飛空挺の中はマンションのようにたくさん部屋があって、その中で色んな種類の虫達が生活してる様子を絵に描いた。タイトルはそのまんな「むしぶね」で、小学校低学年ぐらいの頃の話。その絵が入選して、美術館に飾られたのを観に来てくれたじいちゃんが、確か1700円ぐらいお小遣いをくれた。今その絵を探してみたけど無くて、代わりになぜか松永伍一さんの峠という詩を書き写した作文用紙みたいなのが出てきた。「とうげで 世界が2つに分かれる 後ろには足跡だけが 前には夢の爆発が 石ころを印に置こう 木々の枝から光の縞が 少年を包みにくる その時 思想も前へ 一歩踏み出す 少年よ 振り返るな」 って。

2012.07.21|雑記



小学生の頃僕は昆虫が大好きで、ヒマがあっては虫とり網と虫籠を持って出かけてた。捕まえた虫はとりあえず持ち帰る。そこで知らない虫を図鑑と照らし合わせてどんな名前でどういう種類なのかを調べるのは一つの習慣だった。両親が居合わせていたらとりあえず見せる。父は興味を持ってくれる様子だったり、母は気持ち悪がったりする。その反応も一つの楽しみだった。 ある日アゲハ蝶の卵を見つけて持ち帰った。数日経つと小さな幼虫が生まれてきたので、それからほぼ毎日、近所に生っているミカンの木の葉をちぎってきては籠の中に入れた。幼虫はみるみる大きくなり、葉を食べる量も増えてくる。フンもたくさん落とすからこまめに掃除をする。時折手の上に乗せてみる。幼虫は足から糸を出しながら歩いていることを知った。ある朝幼虫はさなぎになっていた。それからしばらく経ったある朝には大きなアゲハ蝶になっていた。窓の外で籠のフタを開けたらそのままパタパタと、向かいの家の屋根を超えて飛んでいった。

2012.07.18|雑記



7/13(金)も一日GALLERY9に在廊。平日で展示は2週目、梅雨時期でむしむしと湿気があって雨も降ったりやんだりだったから、来る人の数がまばらなのは仕方の無いこと。ギャラリーで一人、自分の写真がある空間の中でそれについてひたすら考えたり、本を読んだり、時折人が来て話が出来たら自分の写真について意見をもらい、その人が帰ったあとまた考える。そんなことを繰り返していて、気が付けば閉廊時間になってた。

2012.07.14|雑記



2年前、鳥取の実家へ帰った時に撮った写真は今でもどこか特別なものがある。祖父が亡くなり、葬式の為に帰ることになったのだけど、その時祖母は大阪の伯母の実家に住んでいたから、こうして鳥取へ帰ることはもう二度と無いのかもしれないという思いが強くあった。式を終えるとカメラを提げて実家の周辺を歩き回る。山に囲まれた海辺の町。小さい頃から、年に数回程度ではあるものの帰ってきては、海で泳いだり、釣りをしたり、虫取りをしたりして過ごしていた場所を淡々と撮り続けた。「撮っておきたい」という冷静な気持ちだけが外へ向いていて、その先々に現れるものにひたすら黙々とシャッターを切ってた。

2012.07.14|雑記



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2012.07.05|*



2012.07.04|*



7/6(金)からはじまるおんさの搬入に行ってきた。今回出展する写真は客観的に観るとなんだか気味が悪い感じがしていて、また内容もすごく自己都合なので、未だ正直「こんなものを展示していいのか」と思ったりしています…。 5月の写真四人展が終わってから、それまで夢中で撮ってた山や森の写真がなんだか少し冷めてしまい、「○○を撮る」という自分の指針みたいなものが無くなった。だからとりあえず、普段の日常の中でただ感覚的に撮ることだけを続けていたものをまとめたのが今回の展示写真。これしか撮っていなかったし、撮れなかったから、展示物がこうなるのは必然だったんだと思います。 そういう意味で後悔は無いのですが、内容が内容だけに、在廊したいけど、したくない気持ちもあります。でもそういう写真だからこそ尚更在廊するべきだ。今日の展示設営中、たまたまギャラリーに来ていた今風な感じの若い女の人が僕の写真を観てくれたけどものすごく感想に困っていたし、多分少し引いてた。でもそれも僕という人間に対する一つの答えだと思うし、そういった反応をもっと知っておかなくちゃいけない。 期間中、7/6(金)は15時頃から終わりまで。13(金)は終日在廊するつもりです。土日に在廊できたらたくさんの人から話が聞けるんだろうなと思いつつ、仕事が休めないので、せめてこの2日間は自分の写真としっかり向き合いたいと思います。

2012.07.04|雑記



7月の展示を更新してます! http://mihotanimasashi.com/info.html

2012.07.01|お知らせ



元々そこにあるものを、というよりは、内にあるものがなにかしら重なる光景を選んで撮ってる気がしてた。最近の写真を見てると、そらの淵のさらに深い部分へ潜っていこうとしてるよう。狂気や強迫観念などと言えば少し聞こえが良いからそっち寄りに考えてしまうけど、根本は案外こどもじみた事なのかもしれません。けどまだよく見えないから、もっと潜らないと…

2012.07.01|雑記



2012.06.22|*



幼い頃、夜になると眠ることが怖くて毎晩のように両親の枕元に座っていた。意識がなくなることによって自分や周りのものの存在が消えてしまうことに強い恐怖心を抱いていたからだと思う。自分から二人を起こすわけでもなく、暗い部屋の中でただ静かに座って二人の寝息を聞きながら気付いてもらえるまで待っていた。 今となっては、枕元に座った私に気付いてもらい一緒の布団に入れてもらった時の安心感よりも、悶々と一人きりで暗闇の中に座っていた時の記憶の方が強く心に残っている。 眠ることによって存在が消えてしまうかもしれないという恐怖心と他者に気付かれることによって存在を実感することができる現実感。どちらにも行動を移すことが出来ず、暗闇の中で悶々と座り込んでいたその狭間の時間の中で、私は自分自身の存在と他者の存在を強く感じ、そして勝手にとても厳かな気持ちになり、怖いながらも安心感をも感じていたように思う。 それは今、とても惹かれる光景に出会って写真を撮る時の私の意識にも繋がっている。 相手に気付かれることなく、相手の領域に入り込むことなく相手と私との間の境界を感じながら息を殺してただその光景を見つめたい。 シャッターを切る時は自分や他者の存在の尊さを感じることができる唯一の瞬間、と言い切ってしまうのは言いすぎのような気もするが、ただ何となく生活をしている毎日の中では感じることができない瞬間である、と言うことはできる。今、私にとって写真を撮ることは自分や他者の存在について考えたり感じたりできる確かに大切な時間であるのだ。 (福山えみ「月がついてくる」から)

2012.06.22|引用



行ったことの無いギャラリーをたくさん回ってみようという思いで立ち寄ったGalleryKai・楢木逸郎作品展「NOMADS/EXILES」。先日たまたま深瀬昌久さんの「鴉」を観ていたこともあってか、写ってる人が”社会の枠組みから外れた人”だというのは真っ先に分かった。けど見れば見る程、例えば歴史の教科書なんかに載ってる海外の貴族のように見えたりと、その威厳に満ち溢れた佇まいの数々を前に、本当にそういう人々なのか一瞬疑ってしまった。それは安易な軽蔑を続けていた自分に気付くことでもあって、本当に情けなくもなった… 少なくとも僕自身には色んな欲求があって、周りにはその全部を満たさんと様々な誘惑が用意されていて、ほとんどのそれはお金と引き換えに手に入るようになってる。ただそれらは全部、シンプルに「生きていく」上で必ず必要かというと、極論を言えば全部いらないもののように思えたりもする。そんな中でここに写ってる人達は多分、生きていく上で最低限必要な”なにか”だけしか持ってないように感じ、それは野生動物と等価的な存在とも言える、というような内容の長谷川明さんの言葉を思い出した。無駄が削ぎ落とされた「生きているモノ」としての純粋さが、僕の感じた威厳だったのかもしれない。 置かれた状況が自ら選んでのことか、選ばざるを得なかったのかは分からないけど、僕が知る限り世間はこうした人達を煙たい目で見ているのは間違い無いし実際僕もそうだ。そんな全てがまた本当に悍ましくも思う。

2012.06.21|展示をみて



写真の判断を「分かる」「分からない」の二択にしてしまうとしたら、「分かる」ことは大抵が何度も解いているテスト問題を出されているようなもので、見てすぐ安心できるけど新しい発見は少ない。だから「分からない」写真に惹かれることが多いのかなぁと思いました。ということをツイッターに書いた。ただそもそも、「分かる」「分からない」という判断はその考え方自体が疑わしいとも思っています。対象が自分の理解の範疇なら「分かる」だろうし、外ならそれは「分からない」になるんだろうけど、そうなった時に「分からないからダメ」という風に考える人が多いから。 人ひとりのアタマの中の世界なんてたかが知れていて、だから世の中には「分からない」ことの方が当然圧倒的に多い。その「分からない」ことを、生まれた頃から一つ一つ、自ら興味を持ち学んでいくはずなのに、いつのまにか全てが分かったつもりになってしまっていて、すると途端に何もかも理解しようとしなくなる。けどその考え方は少なくとも写真を見る分には勿体無さ過ぎる。だから本当は「分かる」「分からない」とかじゃなくて、どういう風に何を感じたのか、それを自分なりに咀嚼してみることが大事なんだと思っています。

2012.06.21|雑記



あなたの考えているコトの殆どは誰かが言ったコトか、なるほど無意識に刷り込まれているよなぁ。/情報と認識 (@okajimaxxx) 場に影響されない個を目指す事より、自分はどこまでいっても場に影響される存在なんだと認める事の方が、実は大切なんだと思う。 (@daijapan) ようするにアートもサッカーぐらい面白くなったら文句ないと思うのよ。努力してないよ、アート。 (@shinmisa)

2012.06.14|引用



周りの人から「笑いのツボがおかしい」と言われることが多いのですが、でも僕はそんなことは感じずただ純粋に笑っています。でも、確かにみんなが笑わない場面で笑うことがちょくちょくあるなとは感じる。しかし、それはなんでなのか?を考えてみる…。 一般的に「面白い」と思われる場面を、僕は無意識的のうちに避けているところがあるように思う。それは自らの発言しかり、相手からのそれしかり。多くの人が面白いと感じるシチュエーションであったり言動であったりは、そのほとんどがすりこみのように、いつのまにか頭の奥底に植えつけられている面があるように感じる。日本ではお決まりなパターンの笑いが海外では「?」になるのもそのためだと思う。だから、お決まり、あるいはそれに近い笑いというのはとても疑わしい。その「疑わしさ」が、僕自身の笑いのツボに影響を与えてるのかもしれない。 「笑い」は「おかしさ」を感じた時に起こる反応のひとつだと思う。僕が感じる「おかしさ」は、既に堂々と作り上げられている「おかしさ」の手前であったり背後であったり、その隣にある「おかしさ」との隙間にあったりする。だから、誰もが既に知っている「おかしさ」というのはちっともおかしくなく、いたってまともなことであって、それは面白いとは言えないから笑えない。

2012.06.11|雑記



この前外で写真を撮っていたら不審者と思われてしまい、お互い気分が悪くなってしまう出来事があった。今日も写真を撮っていたら「何撮ってるの?」と話しかけられて、住宅の前の植木を撮っていてデジカメだったので画像も見せて、しばらく普通に話をしていたけど、きっと怪しまれていたんだろうなぁ…と思ってしまいます。今にはじまったことではないけど、こうしたことが最近なんだかツライ。僕自身にそういった意識が無くても、カメラを持った見知らぬ人が家の周りをうろついていたら不安になる。という気持ちはよく分かります。だからなおさら余計に…。 僕の周りの写真を撮る人達の中には、街中でバシバシとシャッターを切る人もたくさんいる。そういう人達は本当に尊敬します。なので「僕もそんな風にならないと!」と、気合いを入れて外に出てみるも、結局いつも人目を気にしてほとんど撮れない。これはつまりそういう写真は向いてないっていうことなのでしょうか。。。

2012.06.08|雑記



誰かの反応に期待して写真を展示するのは全うなことかもしれない。ただ、ここで言う”誰か”というのはたぶん常に流動してるもので、そこを追いかけるように…というだけで写真を展示してるなら、それはちょっと空虚なことでもあるのかなと思いました。ファッション雑誌が言う”流行”にただ従うだけの人は、オシャレかもしれないし、多くの人からもオシャレだねと言ってもらえるかもしれないけど、ただ言うことを聞くだけだから、それは誰でも簡単に出来てしまう。だから俯瞰して見れば同じような人はたくさんいる。そう言っておきながら正直ファッションのことはよく分からないけど、写真に置き換えて考えてみたら、きっとその写真に魅力は感じないと思う。

2012.06.06|雑記



今年のはじめ頃まで写真の学校に行こうか悩んでいた時期があった。結局踏ん切りがつかず辞めたのですが、そんな当時の自分を振り返ってみると、それで正解だったのかもと思い始めています。。学校で「学ぶ」と言えば単純に聞こえは良いし、実際とても意義のあることだと思います。けど、じゃあはたして自分はその「学ぶ」という言葉の響きに全く惑わされてなかっただろうか?学校には、やっぱりどこか「楽しそう」というイメージがあって、でもそれは言い換えれば「逃げ場」にもなりうると言われた時、僕はまともに言葉を返すことができませんでした。一番肝心な理由が曖昧なまま通ってみることも、それはそれでアリかもしれない。ただそれじゃあ結局、今年のはじめ、あの人に言われた言葉に当てはまってしまってることに気付いて、ハッとしました。固い信念が無い限り、それは結局他力本願…。

2012.06.05|雑記



AcruGalleryではモノクロ写真展「monocreate vol.05」が開催中で、今回はギャラリー・ライムライトのオーナーで写真家のコジマさんも出展して下さってる。展示してもらえること自体、僭越ながらでもすごく嬉しいのですが、ライムライトとアクリュは定休日が同じで、また営業時間もライムライトが19時でアクリュが20時まで。場所は帝塚山と心斎橋だから、実際の展示空間を見てもらうのは難しいだろうなと、それだけが少し心残りというか申し訳ないというかでした。しかし、今日で2週目を迎えるモノクロ展、ギャラリーに一番足を運ばれているのがそのコジマさんという。。。それも、先日まで12カ月連続個展(+Mioでも)をされていて、なのに来週からもまた個展というそんな最中に。。 それだけ写真に、展示に対して真摯な人で、途中で作品を差し替えられたのもその姿勢ゆえにだと思い、本当にもう桁違いにすごい方だと思うのですが、すごいもなにも、コジマさんにとってきっとそれは当たり前のことなんだろうなぁ…。とても偉大な背中。

2012.06.04|雑記



頭の中でぐるぐると無駄に回り続けて滞るだけの思考を換気する作用でも働いているのか、最近は写真を撮ったりツイッターで呟いたりしないとなんだか落ち着かない…。写真については今さらながら人それぞれ色んな考え方があって、先日の写真4人展在廊時にはじめてそれを実感したからか、まだ少し頭がざわざわしています。思い返せば昔からそうだ。誰かの意見にいちいち影響されてしまう。 気付けばもう6月。個展をすると決まってから、その時は「あと1年ある」と思っていたのにもう半年も無い…。

2012.06.01|雑記



すごくおおきな重量のあるなにかを前に人はきっと押し潰されてしまう。だから恐れてそこから離れようとしたり立ち向かおうとしたりするんだろうけど。そのままを受け入れて歩くその人の、糸のような視線にはとても強い芯が通っていて。誰のせいでもなく、ただそこにあるものを見つめる眼差しが心地よかった。

2012.05.28|展示をみて



結果的に良いと感じる写真ができあがる撮影時は、もしかしたら第二者の自分と第三者の自分のどちらもがいなくなった瞬間に共通してるのかもしれない…というメールを送ったら「むずかしい。。」という返事。僕にも分からない…

2012.05.25|雑記



2012.05.25|*



GALLERY9で開催中の写真4人展、今日は仕事が休みだったので最初から最後まで在廊。ド平日にも関わらず知り合いの方もたくさん来て下さり、また初めましてな方ともそれぞれじっくり話をすることが出来、とても充実した一日になりました。そして自分の写真を前にしての対話ほど有意義なことは無いと、今さらながら在廊することの大切さを痛感しています。(立ちっぱなし喋りっぱなし精神削られまくりで、在廊というのは他に無いハードワークなんだということも知りました。。) 今回これだけまとめて展示したのは初めてなのですが、こうして一つの完成系で出すとそれだけ返ってくるものも大きい。。ほかの誰かの意見が自分にとって正しいか正しくないのかの確証なんてどこにも無い。けどそこに耳も貸さずにいるのはただの独りよがりだと思うし、無数にある客観の中でこそ研ぎ澄まされていくなにかがあるんだと思います。まだまだぐらぐらしてる部分も多い自分。だからもっともっと写真と向き合って、さらにたくさんの人に見てもらえるよう、引き続き頑張ります。

2012.05.24|雑記



2012.05.19|*



今日は5/20(日)からはじまるライムライトズーの搬入へ。コジマさんと辻さんの個展はやっぱりどちらもすごかった。。 コジマさんの写真は人間の体内を彷彿させられた。血管とか筋肉とかそういう物質的なものと、その人の感情(特に狂気的な面)が入り混じった空間の中を漂ってるような感覚。そしてリングストロボの光が反射して写った写真は、その不可解さに満ち溢れた体内を徘徊する、正体不明のなにかの姿を垣間見るようでドキドキ…。コジマさんはこれで12カ月連続個展が終了とのこと。よくよく考えたらミオでも個展されてたし、1年にあれだけ出来る人って…。 辻さんは「写真展」という感じがどんどんしなくなってきてるような気がする。写真展っていう単語の中にある堅苦しさみたいなものがない。だから壁画等の展覧会を観た時と同じように、写真写真と変に凝り固まっていくアタマがほぐれて溶けていく。しかしそれを写真で出来る辻さんって…。床の間は最初思わず二度見!黒縁の写真とか、歩道橋?の写真とかすごくカッコよかった。 展示を見てるとUさんSさんYさんと(少なくとも僕の中では)偉大な方々が訪れ、コジマさんまじえゆっくり話がしたかったものの、予定の時間が迫っていた為ライムライトを後に。 森善之さんの写真展「水のすみか」を観にiTohenへ。去年一度お話する機会があり、そこで森さんの人柄と写真を知りファンに。今回のこの個展はとても楽しみでした。森さんご本人とお会いでき、僕のことも覚えて下さってて嬉しかった。そこでずうずうしく写真を見て貰えませんかと頼んでみると(実はこの日の為にそのブックを作っていた)、わざわざ人の少ない場所まで移動して一枚一枚じっくり見てくれました。個展をするという話をすると「絶対観に行くよ」と言って下さり、プレッシャー倍増ですが、頑張ろうと思いました。 19時からのレセプションパーティー。三線での八重山民謡がすごく良かった。特に幼少期から馴染みのある音楽でもないのに、その演奏からはどこか懐かしい感じが染み込んでくる。そしてあらためて音楽というのは良いなぁと…。聴く側だけでなく、いつか自分も何か演奏できるようになりたいとつくづく思います。。

2012.05.18|展示をみて



ほかのなにかへいちいち自分を重ねたり、これまでのこととか、これからのこととかを無駄にぐるぐる考える。やれ落ち込んだり、ひょんなことでまた元気になったり、ということを繰り返す。大抵それは前にも後ろにも進むことがなく、ただ浮き沈みしてるだけで、だからすごく意味の無いようなことに思える。向き合うべきの本当は、そういう自分なのかも…

2012.05.16|雑記



5月の展示… 「LimeLight ZOO」 05.20(日)-05.26(土)※水曜休 12:00-19:00(最終日18:00迄) GalleryLimeLight 「写真 / 谷口円 三保谷将史 古川紗帆 みやび 展」 05.22(火)-05.27(日) 12:00-20:00(最終日18:00迄) GALLERY 9 * 「LimeLight ZOO」は動物にまつわる公募企画展で、12人での展示になります。 僕は地元の動物園で撮影した写真を6点出展する予定です。 常々色々と考えてしまう動物園ですが、色々考えた結果の写真を展示します。 ライムライト、緊張の展示2回目。。。 * 「写真 / 谷口円 三保谷将史 古川紗帆 みやび 展」は、 以前からの知り合いでもある3人の方達とのグループ展になります。 普段は皆それぞれ、誰かとグループを組んだりはしないタイプの人達ですが、 同じ”写真”を志す同世代の中で、お互いが気になる存在であるのは確かで、 だからそんな4人で切磋琢磨し合えたらと思い、この展示に至りました。 壁面は一人当たり約6メートル程あるので、 グループ展というよりは4人それぞれの小さな個展(!)になると思います。 20(日)からの一週間、この二つの展示がかぶるわけですが、 休みが水曜しか取れなかった為、在廊は水曜にそれぞれが限界っぽいです…無念… (20日はギャラリー9の設営に行く前に、ちょっとだけライムライトに顔を出したいと思っています) こんなことを言うのは今さらかもしれませんが、 写真をやっているやってないは関係なく、 とにかく色んな人に見てもらいたいです。 何が言いたいかというと小・中・高、一緒だったあなたもぜひ… お友達もお誘いの上ぜひお越し下さい! 宜しくお願いいたします!!

2012.05.09|お知らせ



2012.05.03|*



写真をはじめてからかれこれ、頻繁にではなくとも、年に数回は動物園に訪れるようになった。来月はライムライトで動物園をテーマにした写真展があるから、最近はその回数も多め。昨日も行ってました。 動物園という空間には、もともとどこか違和感があります。それは単純に、動物が見せ物にされてるという感じがして、という点が大きかった。そんなことを話していたら、動物園にまつわるある本を教えてもらって、動物園という施設の存在意義についてを教えられました。まだ一度読んだだけで熟読した訳では無いけど、要点は理解できたような気がしています。ただ、その本を読んだことで、僕がよく行っている動物園に対する違和感はより強くなる…。 基本的に動物園というのは、動物がそれぞれの(自然)環境の中で暮らしている様子を再現し、僕ら人間に見せることで動物の生活環境に対する理解を深めさせ、環境保護の重要性を訴えるのが、その役割の一つ。でも僕はそんなこと今までちゃんと知りませんでした。また、今日も動物園に足を運んだ人達の中に、そのコンセプトをふまえた上で訪れている人が一体どれだけいたんだろう? 春になると来場者は増えてくる。特に子連れの親子さんが目立つし、この時期は遠足シーズンでこども達もたくさんいる。でもその全員(と言いきってしまってもいいぐらい)が、動物を見てただ「可愛い」とか「気持ち悪い」とか言ってはしゃいでいるだけなように思えてならない。こども達を連れた学校の先生も一緒にはしゃいでるだけで、それはそれで楽しい思い出にはなるだろうけど、それなら動物園じゃなくても良いような気がする。園内のとある爬虫類生態の施設は入ってすぐ、動物園の存在意義を説明するキャプションが貼られていたけど、みんな素通りしてた。

2012.04.26|雑記



撮った写真を後で見返した時に、それが妙に”写り過ぎ”ていて違和感を感じることがあります。フィルムでの場合が特にそうで、多分これは撮ったあとすぐ確認できないことが関係してるんだと思いました。撮影時は、対象はすぐ目の前にあるから、その光景は頭のなかでは100という数値として鮮明にある。でもその数値は撮影後から日が経つにつれ、60、50と徐々に減少していく。人間は一度見たものは絶対に忘れないというから、その数値が0になることは基本的に無いんだろうけど、それでも日に日に確実に減っていく。そんな中で例えば一週間後、現像してあがった写真を見返した時にその数値は再び上昇する。ただ、その時の上昇値はせいぜい70、80が限界で、写真に写った100まで辿りつけることは滅多にない。頭の中にあるその時の記憶はすでにぼんやりとしててどうしようも無く、だから写真に写った光景がある意味ウソのように思えたりする。 話の内容が少し変わりますが、そうやって一時的に数値が減少するということは、それだけ固まったものがほぐれていくということでもあるような気がします。ある人が「人間の内の中にあるものはたかが知れてる」という事を話していたけど、それは多分つまり、外は果てしないくらい広大で不可解さだらけということ?100をイメージして撮った一つの場所にも、100a、100b、100c、defghi…と、そこだけでも得体の知れない何かが無数にある。写真にある不確定要素みたいなものはある意味、撮影者のイメージを無視してそういった様々なものを写してしまうことで、ただデジタルの場合は、例えばその時100aのイメージが固まっていれば、すぐ確認できるが故に、100bが写っているとすぐに排除されてしまいやすい。でもフィルムの場合は、撮影→確認までの時間でイメージがほぐれるから、違ったものが写っていても受け入れやすいのかなと思いました。

2012.04.25|雑記



本日よりBEATS GALLERYでスタートの企画展「ハナテン vol.11」に出展しています。 開催期間 4/24(火)-4/29(日) OPEN 13:00-21:00(最終日18:00迄) BEATS GALLERY

2012.04.24|お知らせ



ブログ、今まで3、4年くらいFC2で更新していましたが、これからはこっち(独自ドメイン)でうだうだ書いていきたいと思います。僕のブログをブックマークして下さっているという希少な方は、大変お手数ですが『http://mihotanimasashi.com/blog』か、メインサイトの『http://mihotanimasashi.com』に再設定して頂き、今後も温かく(?)見守っていただけましたら幸いです。

2012.04.22|お知らせ



2012.04.20|未分類



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