山下望さんの「Window」

同じくMIO PHOTO OSAKAにて山下望さんの「Window」。ピンク色に仕立てられた壁面の空間は、写真の展示方法のほか、フレームの上に置かれたアクセサリーや壁に貼られたシールなども手伝って、女の子の部屋のようなプライベート感を演出してる。キャプションには「自身の少女時代とその魂をある12歳の少女の姿を通して写真にとり押さえる」とあった。

山下さんは主にホルガを使っているそうで、そのカメラは解像度はあまり無い方なのに、写真はいつもリアルで鮮度も感じる。情報量ではなく関係性なんだろうか。けど大きく引き伸ばしたほうの写真からは、これだけ堂々と自身をさらけ出していながら「声」が全く聞こえてこない。その静けさのベールがどこかエキゾチックでもあり魅惑的。

しかし、聞こえてこなかったと思っていた「声」は、フレームの写真の方に耳を澄ますとはじめて聴き取ることができ、そこでまた違った一面を知る。まるで舞台に立つ女優さんの、楽屋を覗き込んでいるかのような気分になるといったら少し大げさでしょうか。。

山下さんはきっとモデルの女の子と同い年ぐらいなんだろうと思う。実際はそうじゃないかもしれないけど、という点に少しの片想いもあって。いつもすぐ隣にいるのに遠距離恋愛のような。そんな不思議な距離感をもった相手への純真さが素敵。会場が少し広すぎる感もあったけど、その空間をこれだけ自分仕様にできてるのもすごい。

谷口円写真展「comfortable hole bye」

ビーツギャラリーで開催されていた谷口円写真展「comfortable hole bye」。展示に対しての直接的な感想ではないかもしれないけど、コーンの写真2枚についてはやっぱり考えた。「死」というものが主題に置かれていることもあって、赤白のコーンと真っ黒のコーンは、単純に生と死の対比のようにも見えるし、だからある意味で全体を象徴する二枚のような見方も出来る。ただそれ以上になにかひっかかるものがあって、もしかしたらそれは、観る人にとって身近なものだからなのかもと思った。

展示の大半を占めるのは剥製の写真で、でもそれはあまり身近なものとは言えない。それが良い悪いではなく、ただ剥製にはテーマを含んだものが写されているけど、身近じゃない、という事実が、観る側との間に一枚の壁を作り出していたとして。コーン二枚は、他の写真群と同じ意味を担うなかで、かつ身近にあるものということが、その一枚の壁を無効化させる突破的要素になっていたのかもと思った。おかげで、自分にもいつか必ず訪れることでありながら、やっぱりまだどこか遠くにあるように考えてしまう問題を、急に目の前にポンと差し出されたようで鳥肌が立った。

展示全体をみていて、どことなく「映像」を感じた。単純にBGM(波の音)のせいもあったのかもしれないけど、具体的になんで「映像」なのかは自分でもよくわからない。。ただ間違いなく言えるのは、写真のレイアウトや照明のこともあって、今回の展示は写真展というより、写真を使ったインスタレーションに近いものだったということ。椅子に座って眺めるという谷口氏オススメの方法で観れなかったことが残念。。

ゲルハルト・リヒター「写真論/絵画論」から

「悪というものの平凡さ」に言及しましたが、それは平凡さとは、ある点でなにか恐ろしいものでありうることを示すためです。平凡ということを、人をぞっとさせるなにかとしてひょうげんすることが問題なのです。シャンデリアの作品《フランドルの冠》は怪物です。私はわざわざ本当の怪物を描く必要などない。この物体、このダサくて小さくて平凡なシャンデリアを描くだけで十分なのです。この物体は恐ろしい。フランシス・ベーコンと自分のちがいをいうために、かつてのべたことがありますが、私なら顔を変形する必要などない。人々の顔を写真に写っているそのままに平凡に描くことのほうがずっと恐ろしいですよ。そうすることで、平凡なものはたんなる平凡以上のものになるのです。

壁画をおもしろいと思うのは、そこに見知ったなにかに似たものを探すからにほかなりません。なにかをみて、頭のなかのなにかとくらべ、なんに関連しているかをみいだそうとする。たいてい、類似のものをみいだすので、それを名づけます。テーブルとか、毛布とかね。類似のイメージがなにもみいだせないときは欲求が満たされないので、神経は興奮しつづけ関心も持続し、やがて飽きると我々は絵のそばを離れるのです。ブクローとの議論で私がのべたのはこういうことでした。マレーヴィチだろうがライマンだろうが同じです。そういうふうにしかみるほかない。マレーヴィチの《黒い正方形》の解釈は好きなだけあるでしょうが、作品は一つの挑発でありつづけます。挑発されたあなたは対象を探し、なにかをみいだすでしょう。

(ゲルハルト・リヒター「写真論/絵画論」から)

2012.10.05

久々にスタジオ5に行くと「おもしろいものがある」と勢井さんがガラス乾板を見せてくれた。戦前に撮られた集合写真なんだそうで、年に1、2回、こうしたネガも未だ持ち込まれることがあるらしい。。白いカビ(?)が生えてきてたりといった年季も手伝ってか、誰かの大切な記憶の断片という重みが、そのネガという原本の質量にしっかり含まれてるよう。デジタルがこれからどんな風に発展していくのかは分からないけど、少なくとも銀塩にある物質感や、うまく言えないけど温度感、そういうものは、記憶を記録するメディアとしてかけがえ無いものなんだと改めて感じました。写真はスタジオ5内に貼ってある猫。いつも眺めてしまう…

GalleryKai・楢木逸郎作品展「NOMADS/EXILES」

行ったことの無いギャラリーをたくさん回ってみようという思いで立ち寄ったGalleryKai・楢木逸郎作品展「NOMADS/EXILES」。先日たまたま深瀬昌久さんの「鴉」を観ていたこともあってか、写ってる人が”社会の枠組みから外れた人”だというのは真っ先に分かった。けど見れば見る程、例えば歴史の教科書なんかに載ってる海外の貴族のように見えたりと、その威厳に満ち溢れた佇まいの数々を前に、本当にそういう人々なのか一瞬疑ってしまった。それは安易な軽蔑を続けていた自分に気付くことでもあって、本当に情けなくもなった…

少なくとも僕自身には色んな欲求があって、周りにはその全部を満たさんと様々な誘惑が用意されていて、ほとんどのそれはお金と引き換えに手に入るようになってる。ただそれらは全部、シンプルに「生きていく」上で必ず必要かというと、極論を言えば全部いらないもののように思えたりもする。そんな中でここに写ってる人達は多分、生きていく上で最低限必要な”なにか”だけしか持ってないように感じ、それは野生動物と等価的な存在とも言える、というような内容の長谷川明さんの言葉を思い出した。無駄が削ぎ落とされた「生きているモノ」としての純粋さが、僕の感じた威厳だったのかもしれない。

置かれた状況が自ら選んでのことか、選ばざるを得なかったのかは分からないけど、僕が知る限り世間はこうした人達を煙たい目で見ているのは間違い無いし実際僕もそうだ。そんな全てがまた本当に悍ましくも思う。