ART iT リー・キット インタビューから

…僕は今ではもう民主主義の存在を信じていないんだ。そもそも現実世界において機能するとは到底思えない。だから、ものすごく怒りを覚えてしまう。だってそうでしょう? 僕をはじめ、香港の人たちはまさに「民主主義」のために今まで戦ってきたのだから。ただね、「時すでに遅し」だとしても、僕たちには民主主義以外の選択肢は残されていないということも事実で。こういう具合に、時々かなり悲観的になっている自分がいるんだ。そういうときは思わず「誰かを殺すべきだろうか?」って自分に問いかけてしまう。まぁ、できないことはないだろうけど、それが何かの解決になるとも思えない。要するに、悲観的であるということは、同時に楽観性を余儀なくされるということなんだ。そうでなければ、例え他者を殺さなくても、僕は自分自身の存在を抹消しようとするだろうね。このように、偶然にも芸術と政治とのあいだである種の結びつきが生まれる。僕は何か新しいことに取り組むことはできるけど、それを実行する前に誰かに他言することはできない。だから最終的には「自分に何かできるか」、もしくは「自分は何をすべきか」といった課題に直面してしまうんだ。…

初めての一人海外

先日までマニラ、台北、バンコクと廻っていた。人生迷走閾値に達したことがトリガーになり、以前一度フィリピンに行って以来思いを馳せてたことに、作品集を海外へも渡らせたいという気持ちが後押しとなって。3週間ほど過ごした中年初めての一人海外という時間は日々事件の連続で、良い事悪い事が雑多にあり、書き残したいことはたくさんあるけど、色んな人と交流した時間が一番しんみりとある。それは道端で一言言葉を交わしただけの人達も含めて。

マニラではとりわけ自分が普段よりオープンマインドになってる感があった。初一人海外での高揚もあっただろうし、現地の人々の南国的な気質に影響も受けていたのかもしれない。一方それに関して、現地の生活に浸透するテクノロジーとの相関性も思っていた。例えば信号機が無いから走ってくる車に手をさっとあげて道路を渡ったり、駅に券売機が無いから行きたい駅を口頭で伝えて言われたペソを支払ったりする。グーグルマップがしばしばあてにならず毎日のように人に道を尋ねていたけど、大阪に戻りふと駅で道に迷った時、訪ねても自分で調べろよって思われるかな…となって結局ポケットからスマホを出していた。暮らしを便利で円滑にする技術は他方で、人一人ひとりが接しあうキッカケを減らしてもいく。そしてそのことが人自体をも変質させている。あっちは日本よりもここでいう技術の浸透具合は浅い。だから当時の自分は開けていたし、出会った人々もまた同じようだった、とも言えるのかもしれない。

「利他」とは何かという本で中島岳志さんが、インドで重い荷物を持って必死に階段を登っていたら手伝ってくれた人がいて、精一杯の感謝を伝えると、逆にムッとして去っていったという話があった。当たり前のことをしただけ(”純粋な贈与”)なのに異様に礼を言われるから(それが”交換”になってしまい)変な気持ちになった、みたいな話だったと記憶している。もともと純粋な利他は半ば自動的に作動するもの、つまり人の意志の外側にあって自然環境のように機能しているメカニズムであるとも言えるのかもしれず、片や様々な物事を人の意志に落とし込もうとしてきている近現代だからそこに軋轢が起きる。時にそれが感謝を伝える言葉だったとしても。思えば”言葉”も複雑な技術だし、その上に幾多の物事が成り立っている。そして僕は現地語も英語もできない身だったから、言葉以前の領域でのコミュニケーションもしばしば起きていた。人々との一瞬一瞬の関りの余韻にある温度的なものは、そういうところからも来てるのかも。

マニラの巨大なショッピングモールに足を踏み入れた時の”安心感”にも驚いたり。慣れない海外という、また日本と比べて治安が良いとは言えない感じの環境下で突如訪れる安心感は、自分が日本でよく知っているそれとここは同じ空間である、というユニバーサルを、視覚的に察知したからなのかなと。無論それもテクノロジーの歯車の元に駆動し自律的に波及している(そこでsimカード買って設定に難儀してたら各店舗から4人ぐらいわらわら集まってきて皆で助けてくれた。モールなのに昔の商店街みたいな空気だった)。

今回2000円ぐらいで買った華奢なカートに作品集40冊を詰めた段ボール箱を縛り付けて歩いていた。これは7年前に東京でティッシュ配りしてた際、同じスタイルで大量のポケットティッシュ入り段ボールを運び歩いていたことに由来するある種の一人ボケだった。各国の空港でも行き交う人々は皆スーツケースで、このスタイルは一人も見かけなかったのに、ツッコんでくれる人とは出会えなかった。でも本は幾つかの書店で扱ってもらえる事になり、雑誌で特集してもらえる事にもなりそうだし、飲み屋で絡まれた酔っ払いのおじさんにも多分喜んでもらえてたので良かった。

7/1

今日たまたま太田さんとLINEしていて、また、あさりさんのツイートをみて、感じたこと。ある個人がその感性で作っているものがあり、一方でそれに魅力を感じる人がいる。ある個人はその作っているものを、相手に直接届けることができる。これはとても目指したい生き方だと思ったのだった。同時に、その過程である制作作業に楽しさばかりを求めることのナンセンスさを思った。制作作業が楽しくて仕方無いという人は稀だし、太田さんはよく知っている人でもあるから尚更だった。必要なのは努力であるという、とても単純なことを今書いている。太田さんもあさりさんも、努力の上に今が成り立っている。

ここ数年の、どこか迷走している実感(常に迷走しているようにも思えるが…)、これについて今書いてて気付いたのだけど、この数年、働いている時間が減ったことが関係してるのかもしれない。社員として働いてた時とかと比べて、自分だけの時間が増えた訳だけど、その時間をうまくコントロールできていないことに問題がある。つまり「やるべきことをサボっている」。日々の家事といった雑務にいちいちスタックしてしまうことも、その言い訳として機能してしまっている。普通に働いてる最中はそれなりに努力している状態だと思うが、ひとたび人目から離れればそれができなくなるという、典型的なやつだ。

そう考えると、展示の機会を得てないことの問題性が見えてくる。この数年、まともな展示をしてない。まともな展示というのは、過去作をただ出品するとかではないやつ。展示の準備は基本一人で進めるものだけど、そこに課せられた責任はそこそこ自分を突き動かしてきた。

自分には自分の土俵がある。それは作品に現れる視点的な話だけでなく、これまでどんな境遇で生まれ育ってきたのかという社会的地位も含めて。学歴も無いに等しく、馬鹿に生きてきていることを今一度考えていく必要がある気がする。努力すれば必ず報われるということはない、けど自分が理想とする姿の必須条件であることも間違いない。

1/13

実家の猫の具合が悪いと聞いた翌日実家に帰ると、いつも真っ先に寄ってくる彼女はその日、いつものソファの上で、しかし普段見ない姿勢でぐったりしていた。しばらく隣に座っていると突然、それもはじめて聴くような強さでナァと鳴く。話しかけるとそれに応答するようにまた鳴く。眼はうつろとしていて起き上がれそうな気配も無いけど、首もとに手をあてると、普段よりは弱いながら喉を鳴らしている。しかし母がちゅーるを与えようとしても頑なに歯を食いしばって食べようとしない。胃がんかもしれないらしい。そうこうして1時間くらい隣で座っていたら、突然起き上がったかと思うと太ももの上に乗ってきた。それは普段のような動きであったけど、数回また大きくナァと言って、顔をこちら側に向けてぺたりと足をくずす形は初めてだった。

0時を回り、彼女を横に寝かせて自分も布団に入った。何分か、何十分毎だったか、一定の周期で大きくナァ、ナァと言う。耳の根本をくすぐり撫でながら声をかける。黒く大きな瞳はわずかに揺れながら遠くを眺めている。深夜2時を回ったころ、ひゅう、ひゅうと小さい吐息が聞こえて自分が眠っていたことに気が付く。1秒おきにひゅう、ひゅうと、その4度目で途切れた。悪い予感は自分の寝返りを重くさせた。彼女の姿は変わらずそこにある、けど小刻みに収縮していたはずの胸元は動いている様子がない。顔をのぞき込むと、その瞳に焦点を結んでいる様子は無く、まばたきも無く、まるで時間が止まっているかのように静止している。頭を撫でても、背中から尻尾にかけてを撫でても、首もとをうりうりしても反応がない。もふもふしたその身体を触れた手へ押し付けるように返してくるはずなのに、それが全くないので、彼女の姿をした別のなにかのように思えてくる。そう感じる今と、そうで無かったついさっきとが全く同じ光景であることに、頭の中で整合性が取れないからか、その時は驚きや悲しみといった感情よりも不思議だという感覚が自分を包んでいたように思う。まるで剥製のようだった。どこかの家で飾られてた鹿や鷹のそれに触れた時の記憶が呼び起こされる。たくさん触れ合っていたぬくもりのある親密な存在を、剥製のように感じるという経験ははじめてだった。祖父母や犬が亡くなった時もその姿は見ていた、けど人懐っこかった彼女との触覚的な記憶の強さ、そして息をひきとるその時間をそばで過ごしていたこと、この二つが重なっていることは初めてで。これまでで一番仲良くした猫だった。よく遊んだし、ある程度言葉を交わすこともできた。こうして看取れて良かった、けども言うまでもなく悲しい。