おそるおそる
階段をきしませながら
リビングの灯りがともっているか
ニトリで買ったスチール製の洗濯かご
その右手にあるトイレのドア
あたりに視線を送りながら
降りていく

ガレージのシャッターが立てる音
自転車が止まる音
となりの部屋を出入りする音

おそるおそる
女性は50代後半
もうずいぶんと太った

自分が自分らしくならないまま
もうずいぶんと経ってる
そんなこと無いんちゃうかって
画像たちは言う

久々に食べた近所の弁当屋の揚げ物
あぶらったるさがすこし増してて
味落ちてるんちゃうかって
懐かしみながら

停車する車に頭を下げて
せっせとあるく婆ちゃん

昨日聴いてたラジオで
今は小3が保護者なしで外を出歩くことは無い
って言ってたけど
弁当屋の道中で4人はみた

今朝は8時ぐらいに起きて、朝食を買おうと近所のスーパーに行き、そのあと足でパン屋にも寄った。その店のあんぱんが好きで買いたかったのだけど、焼けるのが10時半ぐらいということで、諦めて別のパンを買う。その後は昼くらいまでずっと日記を書いていた。その日記は自分のことだけではなく、色々な人のことを交えながら書き綴っているゆえに、どうしても不特定多数の人に公開するわけにはいかない感じになる。それでも書き残しておくこと自体に意義はある。ただ、できれば公開をしたい。多くの人に読んでほしいという気持ちはない。自分のことを晒したいだけなんだろうか。仲の良い友人とお茶しながら話すように、聞いてほしいだけなのだろうか。詳しくはまだよく分からないけど、とにかく自分のPCのフォルダ内にPDFで封印している。そうするとここに書いてることは一体なんなんだろうか。

とにかく今自分がやるべきことを、ゆっくりでもいいから進めていきたい。個展に向けた準備に関しては、特に大きな不安はもう無いところまで来ていると思う。設営といった作業的な部分が大きな問題で、それは当日の身体に任せておけばいい。

Mさんとチャットをしながら、今の自分は「孤独」と向き合うべきなのかもしれないと思った。「孤独」にも色々あるが、今の僕の場合、対人関係、実家に居る事、制作、この三つが大きく関わってる感じがする。京都に居た時と比べて、今は友人と呼べる人と会える頻度が激減していることも然り、実家という場所はやはり居づらく、母親は僕を咎めたりすることはないものの、どうしても自分が恥ずかしくなってしまって、会わせられる顔も無く、できるだけ避けている。制作については、チャットで聞いた話でもあったのだけど、ある著名な作家も制作とは孤独である的なことを言っていた話に依拠している。金にもならないし、多くの人に認めてもらえる訳でもない制作に対する、浮き沈みの激しいモチベーションにはこの「孤独」が関係しているんだろうか。

チャットの後、何かこの今の状況を生産的にできないだろうかと思い、「孤独と向き合う為のアーティストインレジデンスin実家」と題してノートを書こうとしたりしたけど、なんだかしっくりこなかったのでやめた。ただ、日々のことを反芻しながら書くという行為自体には健康的な効果を感じるので、とりあえずここに書いている。不特定多数の誰かへ、というよりも、まずは自分自身にひらけた場でないと、多分書けない。このブログはおそらくほぼ誰も観てないような閉じた場所なんだけど、故に自分に対しては開けている。これが良いんだかどうかは分からない。それならノートを匿名でやればいいのでは?等とも思い、決心は常に定まらない。定まらないが、揺れながらでも動いていくことに意義がある。

最近あえて「キョロキョロ」するようにしている。例えば電車のなかにいる時とかでも、誰かの挙動が視界に入って気になったら、意識的にそれを「みる」ようにしている。これまではそれを不自然な行動だと自分で捉えてきている。けど最近は、気になっているのに気にしていないフリをする方が自分のからだにとって不自然だと感じはじめている。実際そうすることで楽な気分になることは多い。被害妄想や自己否定がそれによって緩和されるからだと思う。誰も自分を気にしてないことも自分の目を通してわかるから。

こういう風に、コミュニケーションにおいて何かを我慢することはストレスになっている気がずっとしている。上記のこと以外で言えば、自分は声が小さい。けど、小さい声で喋り続けること自体は、自分にとって自然ではないと感じる。声が小さくなってしまう時は、「キョロキョロ」できない時と近い心境なのだと思う。つまり何かしらの理由で自分を自制していて、それが癖づいている状態。たぶんその理由も同様のもので、目立つことを避けようとしているからなんじゃないか。これが基本にあるような気がする。

なんで目立つことを避けようとしているのかというと、端的に言えば自分に自信が無いからだろう。自信の根拠は、自分が置かれた社会的立ち位置に依拠していて、また高校生の頃の体験とが二重にあると考える。自分は中学までかなりうるさい生徒だったものの、高校に入るとそれがかえって仇になり怖い先輩に目をつけられる結果になってしまったりした。そういうことが現体験的にあるんだと思う。中学まではうるさい生徒と言った。それもまた自分のベースである。このベースに自分にとっての「自然」があるのだと思う。

昨晩はとある合唱部にはじめて参加してみていた。その時も結構緊張した状態でいたのだけど、最後の方、歌いながら他の人たちの様子に視界を送ってみたら、みんなも一生懸命に歌ってる姿がそこにあって、それがなんだかよかった。合唱だから当たり前なんだけど。同じ曲を一緒に歌ってはいつつも、一人一人にとって歌うという行為の意味や要するエネルギーの感覚は違うだろう。それが見えた気がしていた。

坂口恭平さんの日記を読んで、ここに雑記を書くことを再開してみようと思い、適当に書き始めてみる。最後に書いたのはもう三ヶ月前だった。京都から大阪の実家に戻った頃だ。そう思うと、まだそれぐらいしか経ってないのかと、過去の記憶はとても遠いものに感じる。今は学校での非常勤の仕事しかできていない。今までバイトで補っていた分を、何かとりあえず適当にでも探せばいいのかもしれないけど、来月に久々の個展を控えていて、柔軟に動くことができない。これはもう、自分の脳のパフォーマンス的に仕方無いと割り切ろう。もしかしたら作品が売れて元が取れるなんて事もあるかもしれないし。そもそも、またバイトをするようになったとして、堂々巡り人生になってしまわないだろうかという懸念は強いし、人前に出ることに対しての不安も完全に治っている訳でもない。そんな折、友人から大阪の北摂にあるスペースを貸してくれるという話があった。そこには暗室とギャラリースペースがあり、今はワークショップをとりあえずやってみようという話になっている。彼は自身のスペースのことはもとより、僕の生活のことも考慮してくれているようで。どれだけ人が集まるのかも、いっぱしに教えられるほどのスキルがあるのかも分からないけど、適当なバイトに従事するよりは断然良いのかもしれないと思いはじめている。