自分が山谷地区で過ごした二週間のことを書いておきたい。再来さんやという芸術祭のAIRに採択してもらえた為、現地へ向けて昼行バスで大阪から出発したのは8/21(火)の午前。6月に東京へ行った時と同様、三列シートの窓際の席を選ぶ。前回から少し書いている他者視線による酩酊(?)は回復したという実感こそ無いものの、前よりは幾分マシなようにも思いつつ、外を眺めたり、眠ったりしながらおよそ9時間を過ごしていた。
ただこの時点では山谷についてあまり下調べができてなかった。東川から2週間後のタイミングだったけど、色々溜めていた事に加えてスケジュールの都合上、山谷へ行くまでに実家への引越しを済ませる必要があって、結局ドタバタと自室へ詰め込んだ荷物の山を背に慌てて出てきたという始末だった。
山谷は「ドヤ街」であると聞いていた。しかしそれに対する僕の認識といえば、なんとなく言葉のイメージから「ドヤドヤガヤガヤした街」=なんか騒がしい場所なのかな、程度だった。少し調べれば「ドヤ」とは「宿」のことで、それが集まっているから「街」と呼ばれるようになったとわかる。ドヤ街は今も日本各地にあり、主に1960年代にでき始めたようなのだけど、山谷においてはもともと江戸時代より旅人の行き交う土地であり、木賃宿(木=調理の為の薪代ほどの価格で泊まれる宿。江戸時代において最下層の旅籠とある)の多い場所であったという歴史的背景も、無関係ではなさそう。時代は昭和に入ると、のち戦後の高度経済成長期からバブル期にかけて急速な都市建設が進み、人手は常必要とされた。戦後の様々な体制転換(第一次産業の改革や朝鮮特需など?)が同時に、多くの失業者を生み出していた背景もあり、全国各地から出稼ぎの労働者たちが都市圏へ集まってくるようになる。とはいえ企業側も先行きは不透明であり、その点で臨時的な雇用、つまり日雇いは都合がよかった。ドヤはそうした環境下で軒を並べ始め、労働者たちの寝床として利用される場となっていく。
「ドヤドヤガヤガヤ」という感覚的な認識は、だから意味的には間違ってるんだけど、当時の現場の空気を想像すると、あながち外れてはいない気もしてくる。実際、ドヤ街での暴動事件や抗議デモといった情報もググると出てくる。また後述する「寄せ場」の雰囲気のこともある。ただ、だから治安が悪い、と単に一言で片づけるのには違和感がある。というか、そもそも「治安が悪い」とはどういうことか?話は少し飛躍するが、山谷に集まってくるひとたちは、そろって過去を語りたがらないと言うし、だから聞くこともタブーらしい。その理由は、前述した山谷に来る必要に駆られた人たちの社会的背景も踏まえれば、なんとなくわかる気もする。暴動と聞くと集団の連帯を想起するけど、つまりは今書いたように、山谷の人々は安易に群れるような人たちでもなさそうだということ。山谷滞在12日目ごろの話にはなるけど、現地の泪橋ホールという映画喫茶に「山谷 ヤマの男」という本が置かれていて直感的に購入した。その場所の店主であり写真家の多田裕美子さんによるものだった。当著からの一文を引用する。
“…昭和の高度経済成長期に地方から出稼ぎできて、いつの間にか故郷に帰らなくなった人、結婚して家族がいる人もいたが、いろんな理由で、ひとりで生きている人がほとんどだった。そして日雇いの仕事が終われば、現場が都心でも途中下車することなく、まっすぐ山谷の町に戻ってくる。自分と同じひとりがいるこの街にだ。それぞれ境遇はちがえど、ここでは誰もがひとり、だからけんかはあっても、自分以外の他人にやさしい、やさしすぎるのは他人も同じ自分だから。 でも許せないことがあれば、ささいなことでも暴力的になり暴動がおこる。何も守るものが無く、身一つの人生なので、火がついたら激しいのだ。 山谷という街は、優しさと怒りが極端に強い街、自分と同じひとりがいる街、愚痴を言わず、過去を語らず、ひたすら酒を呑む男たち、滑稽なくらい最後まで、自分と生きた男たちがいた街。…”
こうしたことから、住人同士の喧嘩はあっても、それ自体が大きな問題に発展することも多くは無いようだった。ただ、相手が警官といった権威に従属する者となった場合、ひとり対ひとりという構図ではなくなる点もあって、過激化しやすくなる。それは自分と同じ「ひとり」の為でもあるのだろうし、個人個人がそれぞれに社会に対して抱えていた憤りも火種としてあったのではないかと想像したりもする。そうした背景を見越して影で糸を引く存在だっていたかもしれない。無論、「山谷-やられたらやりかえせ」にもあるようにヤクザ関連の闘争は事実としてあるようだった(映画自体はまだ観れてないけど…)。いずれにしてもメディアは、その結果としての暴動という過激なシーンのみを切り取って焚き付ける側面が強い。だから物騒な印象が必要以上に植え付けられているかもしれないことには注意したい。
暴動は、人と社会との軋轢とも言える。そしてそれは現代も様々な形で、至る所に存在している。ただ、山谷のように(当時も今も)堂々と表面化しているケースには、個人的にとても「人間くささ」を感じる。これは僕的に良い意味で言ってて、例えるなら小中学生的というか、なんというかこう、人間としてのピュアさを濃いめに感じる。自分は当時の山谷の空気を知らない。勝手に美化した呑気な事を言ってるとも思う。ただこの今、現地で言葉を交わした何人かの、おそらくここでの生活を続けているおじさん達との時間の余韻には、なぜか心地良い気分が含まれている。この感じは何なんだというのがずっと頭に張り付いてて、それがここで言う「人間くささ」から来てるんじゃないかと考えている。
山谷に着いてから、何人かのおじさんと言葉を交わす場面があった。それは例えば、ホテルに到着した翌朝、トイレに行こうと自室を出た時。すぐ左にあった洗面所の地べたにあぐらをかきぜえぜえ言っている清掃のおじさんがいた。「大丈夫すか?」と声を掛け、おじさんは「大丈夫」と、ちょっと疲れたから休んでるだけという様子だった。ただそれだけのやりとりだった。けどその時に自分の心のなかで「あぁ」という感嘆の声が漏れる感じがした。
そもそも僕は普段から声がかなり小さいし、どもりもある。ただこの時は言葉が相手へまっすぐ届くべく、自然に発声されていた。変な言い方に聞こえるかもしれないけど、それは僕の中では比較的稀な現象だった。例えば高級ホテルでそんな場面には出会わない。制服や所作、言葉遣いといったマナーが複層的な壁となって「人間くささ」は香ってこないだろう。そういった無菌質な空間には、僕自身変な警戒心すら抱いている。ただこのやりとりの際にそんな空気は一切なかった。だから緊張もなく「発声」されたということなのかもしれない。
その日の夜、夕飯にと入った中華料理屋では、「うまい、うまい」と言いながら一人定食をかき込み続けるおじさんがいた。「うまい。うまい。すみませんティッシュ下さい。お水ください。ああ、うまい。」広い店内の隅の席なのに、その声は悠に全体へ行き渡るほどでかい。お会計の時もその感じだったけど、店員さんは中華系のようで、日本語でのやりとりは流暢じゃなさそうなこともあり、会話が特に弾んでいたわけでもなかった。けどそれはおかまいなく、「うまかった、ありがとう」とおじさんは店を出て行く。声量なりの恰幅をした、短髪黒Tシャツハーフパンツの後ろ姿を見ながらまた僕は「あぁ」となった。その帰りしな寄ったスーパーでは、入ってすぐの生鮮コーナーを抜けたあたりで、後ろから走ってきたおじさんが僕を横切るところで派手に転んだ。おじさんは慌てて起き上がり、あたりに散らばった商品をあせあせと戻しはじめる。手伝おうと思って周辺に見落としが無いか少し見回すと、3個セットの豆腐が一つ落ちていた。豆腐コーナーは周囲に見当たらなかったから「これおっちゃんのとちゃいますか?」と僕はまた「発声」した。僕が手に持った豆腐を見たおじさんは「いや違う」と言う。その時のおじさんの両目は何だか不安に揺れているようにも見えた。もう少しよく周りを見てみると、2mぐらい手前に豆腐コーナーはあった。確かにそこそこ派手に転んでいたから、このあたりから陳列物に影響があっても不思議じゃないかと、豆腐をそこに戻した。一通り片付け終えたおじさんはそのまま慌てた様子で揚げ物のコーナーへ向かっていった。豆腐を戻した僕はそのまま納豆を買おうか少し悩み、おじさんの後に続く進路へ進む。するとその先の揚げ物コーナーの方から僕の方へ「すいませんでした」というようなことをおじさんが言った。距離的には5, 6mくらいあった割にその声は小さく、しかしその眼差しはまっすぐに僕と合っている。瞳の様子はさっきと変わらないので、もともとそういう人なのかもしれない。僕はいえいえの意で片手を挙げ頭を軽く下げた。そしてまた「あぁ」となっていた。
そういえば今年の春ぐらいだったか、京都市内を自転車で走っている途中、歩道との段差に引っかかってタイヤがスリップし、転けかけた時があった。確か四車線の道路沿いで車も人通りも多いところだったのだけど、その時、やや遠くから「大丈夫かー」と男性の声が人混みを飛び越えるように僕の耳に届いた。視界を向けた先にいたのはおじさんだった。「大丈夫ですー」と片手を挙げるとおじさんはそうかという笑みを見せた。また十数年前、レジで前に並んでいたおじさんがタバコの箱を落とした。しかし支払いに夢中だったのか、落としたことに気づいてない様子だった。会計がひと段落した様子を見て「落としましたよ」とそれを拾って渡した。わかばと書かれたそれを受け取った時の「ありがとー」と言うおじさんの笑顔がしわくちゃだった。これらの記憶が、山谷に来てからの「あぁ」と同じ感覚として想起される。
こうした出来事は、友人や家族との時間の単位とは違って、自分の記憶からいつ忘れられていってもおかしくない程度の、ちょっとした事。にも関わらず、何かが沁みとおってくる。逆に、日常生活でのやりとりにこの「あぁ」という感覚を抱くことが殆どないのはどうしてだろう。言葉は生活、ひいては社会と密接に結びついた記号交換的(マシン的な)コミュニケーションとしての側面が基本強いと思うから、当然といえば当然なのかもしれない。だからつまり、「あぁ」となるような場面で感じる「声」は感嘆的なもので、それは言い換えれば素肌のようなもの。であるとすれば、日頃交わされる言葉は概念的で、着衣的、仮面的でもある。つまるところは「人」を感じたということだろうか。規範的な言葉遣いや所作にとらわれない、身体から発される声。嘘か本当かを勘繰る必要が無い、不純物の無い音。そこに「人間くささ」がある。これが先に述べた、なぜか心地よく感じる一因ではないかと考える。
またもう一つ、別軸の心当たりもある。それは、僕にとっての「父性」と関わっているからではないか?ということ。先に述べた多田裕美子さんの著書に書かれていた山谷の人々のかつてが、僕にとっての父性と重なる気がしている。というのも、当時のいわゆる日雇労働者たちは、それぞれにその道を選ばざるを得ない切実さを持つ、いわば「訳ありの男たち」が多かったと暗に語られているのだけど、そういえば僕の父達も皆「訳あり」だった。一人は、僕が幼少の頃に突如失踪したらしく、家族や職場からも音信不通(その後存命は確認したらしい)。二人目は元ヤクザ。漁師だった母方の祖父は酒が入ると祖母に暴力。失踪、暴力団、DVと、「訳あり」ラベルが堂々貼り付けれてしまう僕の父達。他方、失踪父は僕や妹の面倒見は良かったらしいし、元ヤクザ父も再婚時はペンキ塗り職人で、またヤクザ当時も人情系(自称)だったらしく無理な取り立てはせず、いじめを見かけたら両成敗するような男だったらしい。家でも暴力は無く、むしろよく遊んでくれる人だった。祖父の酒癖問題は最近になって母から聞いた話で、僕にとってはいつも優しいじいちゃんだった。
こうした「父性」を思い返しつつ、同時に、それを失くして久しいことも思う。一人目の父はそもそも記憶がほぼ無いし、二人目の父も離別して20年近く経つ。祖父が亡くなったのも12年くらい前だろうか。父性への郷愁というか、なんというか、そういう感じが多分無意識にあって、またその影像に含まれた「訳あり」という人間性がどことなく、山谷のおじさんたちから感じる波長と重なる感じがするというか。
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現地ホテルに到着した翌日から、ちょこちょこと周辺を歩いていた。路上生活をしている人たちの存在に気付いたり、また路上生活者では無さそうなものの、服装や行動の様子からいわゆる一般的な社会人とは違う雰囲気の50代や60代、それ以上の年代の男性の姿は目立つ。あとあと聞けば、生活保護を受けている人たちも多いという。かつての高度経済成長期を支えた人たちは、そもそも行き場もなく、何かしらの事情を持って一人山谷にやってきた個人が多かったらしいことを思えば、その全盛の時期から半世紀近い時間が過ぎた今もここを居場所としている人は少なく無いんだろう。現地の労働組合や福祉会館の発信を見ると、かつての山谷の労働者たちを巡る不当の主張が政府に対して続けられているのが分かる。炊き出しや衣類、消耗品の配布も定期的に行われている様子で、寄付も常時募られていることから事態の現状も伝わってくる。日雇いであった為に、健康保険や年金といった保証も得れないまま高齢になり、気づけば失業や野宿へ追い込まれるという現実は、そもそも建設業者等の大手が都合よく、人材(ハイデガーが文字通り言うところの)としてこの日雇いという形式を口実に、労働者を消費した事に一因がある。山谷の街並みの、社会の無責任が深く根差した側面としての光景が、自分の眼をジリジリと焼き付けてくる。
「日雇い」という言葉をここまでで何度か使っている。この労働形態自体は現代まで続いていて、僕自身も何度か経験したことがあるし、今後もあるかもしれない。ただ、現代の感覚と当時のそれには当然色々な違いがあることに注意しておきたい。玉井金五氏・大城亜水氏のある論文内ではそれを「新型」「旧型」と呼び分けていた。「新型」は、現代の僕らがイメージするそれに当てはまる。人員を求める企業と就労希望者とを繋ぐ役割として、各々の求める条件を登録し、マッチングさせるべく動く。僕が高校を出たあとしばらくして行った日雇バイトの事務所は雑居ビルの一室で、なんか色々雑な感じだった記憶があるけど、今は大抵が都心部の大きめのビルにオフィスを構え、なんというかクリーンな印象が一般化している気がする。また最近ではアプリ内で完結するものが普及してきてもいる。
では「旧型」とはなにか?最初にざっくり書くと、労働力の朝市。毎朝、駅前や公園といった適当な路上で、手配師(業者と労働者の仲介屋)と労働者らとが集まり、その場で働く契約が結ばれる。綺麗なオフィスで登録手続、といった感じでは当然なく、いわゆる青空市場だった。仕事内容としては建設以外に運輸や土木などがあり、業者は過酷な労働もこなせそうな若者を探し、対して労働者側は少しでも割の良さそうな仕事口を欲する。鳶の技術を持つ者は優遇される、といったこともあったようだし、ヤクザが取り仕切るケースもあって、不当な労働契約が暴力で横行されることもあったというから、緊迫した場であったとも想像する。こうした「旧型」の日雇い雇用現場は「寄せ場」や「寄り場」という風にも呼ばれていた(この表現には差別的なニュアンスを受け取られる場合もあるらしい。あとちなみに前述の玉井氏は別の論文でこの「旧型」を「集合形式」、対して「新型」は「個別方式」とも表現していた)。建設ラッシュ当時、三大寄せ場と呼ばれたその一つが山谷だったわけだけど、他に大阪の釜ヶ崎(あいりん地区)、横浜の寿町があった。他にも名古屋の笹島、福岡の博多築港、また規模などはさまざまだがその他の都市にも存在していたらしい。
ちなみに山谷という地名自体は1966年に消滅しているらしい。もともとは台東区の町名として「浅草山谷1-4丁目」だったのが、住居表示の実施に伴って現在の清川・日本堤の一部および東浅草2丁目に変更されたとwikiに書かれている。また別の記事では、山谷地区で最大級のドヤを持つある実力者が山谷の地名を消したという話もあった。今回ここでは深く触れる機会がなかったものの、実際現地で幾度となく起きていたヤクザとの抗争の件もあり、一般にその町名が持つ印象は良いものではなかったからだという。それでも未だ「さんや」や「やま」と住民が口にする習慣が変わらないのは、ここまで書いてきた時代背景や、それよりもっと昔からの連綿とした歴史によるところがあるのだろう(山谷という地名は江戸時代以前からあったという記事もみた)。
今回僕が山谷に滞在したのは芸術祭キッカケだったこともあり、芸術祭メンバー(全員が中国籍で僕より若い人達)や、現地の一般社団法人代表の方、保護を受けつつ地域と関わりながら暮らしている方、研究対象として取材に来ていた大学生の方といった人々と意見を交わす時間もあった。中でも代表の方の話は特に印象深かった。その方は街を良くしていく為の具体的な実践を既に20年以上続けている。言語は虚無みたいなことを先に少し書いたけど、そうした心境の手前もあり、その場で語られていた言葉はその真正性を持って染みとおってくる実感があった。芸術祭のメンバーも、日本人にはあまり無い不思議な活力がある。僕のように暗い部分だけを見てるばかりではなく、中国での同様の問題とも重ねつつ、そしてここで何ができるかという好奇心も共に持って動いている様子がうかがえる。メンバーのそうした姿勢に、代表の方も可能性を感じるから協力しているとも話していた。寄付は二度ほど行ってはみた。けどこの機会、自分ならではのことの披露が最もの役割であるという意も強まる。