DUCHAMP カルヴィン・トムキンズ著 P405、408から

…わたしは物事の知的な側面に目を向けるのは好きなんだが、「知性」ということばは好かない。知性ではどうも無味乾燥で、表現力が弱すぎる。それよりは「信念」のほうがいい。ひとが「わかっている」というとき、たいがいはわかっているのではなく、信じているのだね。とにかく、人間は美術という営為にたずさわるときのみ、人間として、動物の状態を超える能力をそなえた真の自立した個人になれるとわたしは思う。美術は空間と時間に支配されない領域へ向かう門のようなものだよ。生きるとは信じること、これがわたしの信念だ。

もう三十年以上もまえに、本腰を入れて美術作品の制作にとりくむのをやめたことになっているひとの口から出たとは、とても思えないような発言だ。それに、この折り紙つきの不可知論者が「信念」について語っているのにも、意表をつかれる。はじめのうちはこのことばを漠然とした意味あいーー本当かどうか自信はなくとも、何かを真実と信じる(思う)ーーで用いていたようだが、「生きるとは信じること」とまで言いきって、この語にはるかに明確な解釈をあたえ、そうすることによって、美術を人間の営為のなかでももっとも高度なもののひとつとするみずからの確信の強化をはかる。この変化は、言語一般、とりわけ単語についてのデュシャンの思考の揺れを反映したものである。デュシャンは好んで唯名論者ーー抽象的な概念は実在せず、わたしたちがあたえる名称が存在するにすぎないと信じるひとーーを名乗った。テレビ番組が放送されてからまもなく、ミシェル・カルージュの『独身者の器機たち』に関する詳しい批判を手紙で展開したあるフランス人に対して、デュシャンは「わたしは言語を信用していません」と応じている。「わたしは文章による批評の大敵を自認する者です。カフカ等との対比やあれこれの解釈は、言葉の蛇口を開くきっかけにすぎないとしか思えません……したがって潜在意識のなかにある思考を説きあかすかわりに、現実には、ことばによって、ことばに引きずられるかたちで、思考を創りだしてしまう。」デュシャンによると絵画などの視覚芸術作品は、ことばに置きかえられないものである。それに、「これら駄弁の数々ーー神の存在、無神論、決定論、自由意志、社会、死、等々は言語と呼ばれるチェスの駒であり、それが楽しめるのは、『このチェスのゲームの勝ち負け』にこだわらない場合にかぎられます。」ところが、チェスの達人であったデュシャン本人も、言語のゲームが、中毒と呼んでもいいほど好きだった。ことばはどうも信用ならないとデュシャンが感じたのは、ことばには生みの親のもとを離れ、ひとりで生きていこうとする傾向があるからだろう。そのために、思考や思想を伝えるにはあまり役に立たないけれども、それが理性を超えた想像力の世界を開く鍵として働くことを妨げはしない。そしてその想像力の真の声を伝えるのは、詩をおいてほかにない。…

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…八百語からなる文章は主題も表題と同じ「創造的営為」で、まず「美術の創造には二つの極があり、一方に美術家、他方にやがて後世となる鑑賞者がいる」ことをあきらかにする。デュシャンにとって、ひとりまたはそれ以上の鑑賞者の目に触れ、思考の対象とならないかぎり美術作品が完成しないことは自明の理だった。したがって、知られざる傑作が存在する余地はない。そのおもな理由としては、デュシャンの見方によると、美術家は創造的な行為の一部をになうにすぎず、またそのさいにも、自分がしていることを意識のレベルで真に理解してはいないことが挙げられる。「どう見ても、美術家は時間と空間の迷路を超えたさきで、開けた場所へ出る道を探る霊媒のようにふるまうとしか思えない……」というのがデュシャンの言いまわし。「この霊媒としての役割を否定し、創造行為の最中のみずからの意識の有効性を重んじる美術家の多くが、わたしの考えに賛同しないことは承知している。ーーしかし美術史はつねに美術作品の価値を、美術家の合理的な説明とはまったく無縁な考証を経て確定してきたのである。」言いかえれば、美術家が自分は何をしていると考えようと、実際にできあがる作品は、本人が意識してどうこうしようにも手の届かない事柄によって決まってくる。そのために、作者の意図とできあがった作品のあいだ、デュシャンが機知を効かせて「意図されながら表現されなかったものと、意図せずに表現されてしまったもの」と呼ぶもののあいだにはかならずズレが生じる。鑑賞者のおもな役割はこの隙間に踏みこみ、目に映るものを解釈することによって、美術家がまず作動させた過程を一巡させることにある。…

DUCHAMP カルヴィン・トムキンズ著 P405、408から