「眼と精神」p103から

…幼児の想像力を考察した際も同じことであって、心像(イマージュ)と呼ばれているものは、幼児においては、先行する<知覚>の稀薄になったり微弱になった一種の<写し>のごときものでは決してないと思われました。想像と呼ばれるものは実は情動的行為であり、したがってここでもわれわれは<認識主観と認識対象との関係>の言わば手前にいたことになります。問題は、幼児が<想像的なもの>を組織し上げるその原初的操作にあるわけであって、それはちょうど、知覚においては<知覚されたもの>を組織し上げる原初的操作が重要であるのと同じことだったのです。

幼児の線描きについて調べたとき、有名なリュケの著書に抱いた不満の一つは、まさにその点でした。と言いますのも、その著書では、幼児の線描は欠陥をもった<成人の線描>と考えられていますし、また幼児の発達ということも、いろいろな年齢の線描を通して見ると、ちょうど成人が行なっている世界表象、少なくとも西洋の白人のいわゆる「文明化した」成人が行なっているような、言い換えれば古典的幾何学の遠近法の法則にのっとった世界表象の試みの、<一連の失敗>のようなものだとされているからです。だが、われわれが示そうとしたのは、その反対に、幼児の表現の仕方は、いわゆる「視覚的写実主義」の途上の単なる<あやまち>としては理解できないものだということ、それはむしろ、幼児には古典的スタイルの線描の遠近法的投影に見られるのとは全く違った<物や感覚的なものに対する関係>があることを証明するものだということでした。…

「眼と精神」p103から