環世界とイメージメイキング

東京都写真美術館のポッドキャストを聴いて、原島大輔さんの環世界とイメージメイキングの話がとても印象に残っている。環世界というと、20世紀初頭の生物学者ユクスキュルが提唱した考え方。端的に言えば生物が各々のパースペクティブを持ち、その中で生きている世界観を言っている。自分達が様々な生物と共生しているという事は、よく知っているつもりだけど、その時イメージされるのは自分を含めた幾多の生物が並んだ一枚のマップのような感じだと思う。しかしそこで環世界の考え方を踏まえると、その一つ一つの生物自体に(アクセスするようにして)成り、その生物自体の視点から見えてくる風景が指向されるようになる。

この時、生物個々にイメージメイキングが存ることが見えてくる。生物が持つ視覚、それ以外の知覚、そしてその生物が生きる為に関係する、周辺の事物との関わり。その全てとのまじわりが、個々のイメージメイキングを生じさせている。

こうした、生命とその生命が関連する事物のことを、西垣通さんの基礎情報学では”Information”と呼ぶらしい。本来「情報」という意味で理解されている単語だけど、その根源的な意味は、生命にとって欠かせないもの、ということになってくる。言い方を変えればそれは、その生命自体を内側から形成しているもの、つまりは”In – Formation”である、ということだった。(西垣通さんはそれを生命情報と呼んでいる。)

原島さんはこう続ける「…そこではつまり言語のような社会情報とか、あるいはデジタルデータのような機械情報は、いずれも元々は生命情報、すなわち生き物にとっての意味、価値として算出された情報。これが抽象化されることで発生されたものであると考えられる。」

ポッドキャスト内ではもう一つ、「技術/テクノロジー」についても言及される。この時テクノロジーという言葉に注意されるのは、それがすなわち西洋近代技術であり、その発展の結果として人は自然が資源にしか見えなくなっているという事や、テクノロジーの進歩は自己発展的であり、人間はそれに巻き込まれているだけという事。テクノロジーによってモノの見方が拡張しているようで、実はそれに規定されている、といったことも語られる。その文脈においては写真も、主体が対象物を観察するということが、その最も一般的な用途としてある。その上で原島さんは、レーザーでのスキャニングが扱われている藤幡さんの作品についてを、写真の一般的なイメージメイキングとの相対化として捉え、そしてその相対化によって、日頃の自分自身のイメージメイキングのプロセスそのものにも思いをはせていく、という事を語る。

原島さんはこう続ける「テクノロジーはとかく人間を機械論的な世界観に閉じ込めてしまうものです。そこでは世界に存在する万物は機械的な法則に従っていて、その法則さえ使えばなんでもかんでも意のままにコントロールできるという幻想に人は惑わされてとらわれてしまう。でも生き物の世界はそういう風にできていないですよね、もっと偶然的で自由です。これは文字通り自然であると思います。そういうものは機械論的なテクノロジーの世界にとっては、逸脱として、まるで裂け目からあふれ出すようにして現れてきます。しかしそれはその逸脱であるがゆえにこそ強烈なイメージメイキングの力があるというわけでは、必ずしもないのではと俺は思います。なぜならむしろ生命論的な秩序からしてみれば、これは道を外してないからこそかえって溌剌たるイメージメイキングの力が素直に発露しているのだから。これを感覚的な意味での、見た目上の美しさっていうのとは違う意味で、美しいと思ったのだと、思います。」

15歳のテロリスト

15歳のテロリストという小説を勧められて読んだ。この物語を読んでいる間、利他学のなかで話されていた「責任」について思い返すことが多かった。そのことを整理したい。

物語の中ではしばしば個人対個人の対立構造が起こる。AがBの恋人や家族に危害を加えることで、BはAへ復讐心を抱く。安藤がユズルへ、篤人がヒイロへ、自身のかけがえない存在を奪われた恨みを晴らす為に報復を試みる。でもそれを受けた側は、それぞれが口を揃え「自分は悪くない」と言う。ヒイロはユズルに、そしてユズルは比嘉に唆されていたから。

個人対個人の対立は一般的に、対処的であり、やられたらやり返すのはその一つ。自分の大切ななにかに危害を加えられた時ほど、やり返そうとする気持ちは強まる。実際、安藤は自ら書いた記事によってユズルを社会から追いやったし、篤人はヒイロへ包丁を向けた。

そして結果として起こるのは悪循環だった。やり返されっぱなしでは気が済まない。前者の安藤によって社会から追いやられたユズルは、精神が荒れ果て、様々な事件を起こし、挙句の果てに比嘉の操り人形としてテロを起こすことになる。ウェブ上のコメントも含めた世論の罵詈雑言もまた、この悪循環の一部。これは被害者であり報復の念にとらわれた状態の篤人の背中を強く押す力にもなっていた。

けどこの物語の光は、その篤人から灯りはじめる。彼はヒイロに包丁を向けはするけど、すんでのところで留まる。そしてヒイロを指示した人物を突き止める為に動き出す。対処的な行動によって起こる悪循環の流れが、ここで留まっている。もう一つの光がある。それはユズルの妹のアズサとその母親。彼女たちはユズルの傍若無人によって周囲から激しい差別やいじめを受け続けていた。そしてそれに耐え続けていた。ここでも悪循環がせき止められている。

もしこの物語の中で、全員が反射的にやり返していたら、それこそ焼け野原のような地獄絵図が浮かんでくる(実際そうした歴史を人類は繰り返している)。じゃあその悪いエンディングを回避する鍵になった「光」って何なのか?そこで「責任」の話を思い出すのだった。

この小説の光としての篤人、アズサ、アズサの母に共通していたのは、「責任」を重んじる態度だったと思う。篤人は責任を追及する故にヒイロを殺さなかったし、アズサとその母は責任を感じているから辛い日々を耐え続けた。そうして事件の真相を目指し進み続ける主人公たちの姿が、責任の因果関係という線性をなぞる旅の物語のように、自分には思えていた。

(ここからは哲学者の國分攻一朗さんの言葉を引用しまくりで書いていく。)責任は英語でresponsibility、これは応答を意味するresponseに由来する。つまり責任とは本来、応答の精神が伴うべきことである。だから責任をめぐる物語は、応答をめぐる物語とも言い換えられる。対処的な帰責 – やられたからすぐやり返すこと – が悪循環の発端であることは先に書いた。これは、帰責すること(相手に責任を帰属させること)は簡単だけど、かといって相手がそれで責任を感じる(応答する)とは限らないことに由来してる。ヒイロやユズルのふるまいがその典型と言えるだろう。つまり、ここには責任と帰責の混同がある。そして対処的な帰責ではなく、責任(応答)を求める篤人は、だからその因果関係を辿り進んでいくことになる。

皆が篤人のように、やられたからとすぐやり返すのではなく、責任の因果を辿り、応答と出会うことができれば、世の中はもう少しましになるかもしれない。けど、実際はなかなかそうならない。それはいったいどうしてなんだろうか?とても難しいことだけど、先に書いた「責任と帰責の混同」という問題を考察してみると、そのメカニズムが少しずつ見えてくる。そこでは「意志」の概念がキーになる。

「意志」は、私達が責任の所在をジャッジする際の重要なポイントである。「あなたの意志でやったなら、それはあなたの責任」となるからだ。しかしここまでの話を踏まえれば、この論理には問題があることがわかる。それはすなわち、この論理の中のいったいどこに「応答」があるのか?ということ。だから「あなたの意志でやったなら、それはあなたの責任」という論理の本質は、「応答すべき人間が応答しないから、仕方なく意志の概念を使って無理やり責任を押し付けている」ということになる。ユズルは確かに安藤の恋人を殺し、テロを企てもした。そうした彼の行動は、彼自身がやったこと=彼の意志として捉えられる。これは紛れもない事実である。だから「帰責」され、裁かれた。しかし彼自身に「応答」の精神はなかった。彼は自身の行動の事実は認めたが、それは唆されたからであったとも続けた。そもそもは、週刊誌の記事によって吊るしあげられたことも影響していたし、更に元をたどれば、幼少期の過酷な体験が暗く根差してもいた。

これは、ユズルの人生を一本の線として見た時、問題を犯した現在に辿り着くまでの道のりに、幾多の因果があったということ。しかし、彼を裁くのは直近の彼の意志である。そしてこの時、直近の意志以前にあった過去は同時に捨象される。物事の因果関係は、遡ろうと思えば無限に遡ることができる。だから私達は「意志」の概念を使って、責任の所在を帰責する。

「意志」は、私達の言語が能動態と受動態とに二分された頃に発生した概念であるらしい。能動(する)と受動(される)の区分がクリアに定義されたことで、意志(責任)の所在も明確になったということ。そしてこれは言い方を変えれば、する/されるという区分がクリアではなかった時代があったということになる。そしてその時代を分析していく際のキーとして「中動態」がある。これは、現在の受動態の前身的なもの。つまり当時の言語は、能動態/中動態に二分されていたということらしい。

では受動態と、その前身的なものとしての中動態、その違いは何か?中動態の定義は「主語が動詞によって名指される過程の場になる」とある。通常、動詞が自分から発せられれば能動だし、自身がそれを受け取れば受動。だからその点で中動は、自身のなかで動詞が起こり、自身はただその動詞に突き動かされている状態、とでも言えるだろうか。だから、能動/受動がする/されるとすれば、能動/中動は外/内という対立と捉えて良い気がしてくる。

この定義をもとにファイノーという動詞が紹介される。能動態であれば「I show(見せる)」になるこの言葉は、中動態の活用でファイノマイになり「I appear(私が現れる)」と訳せることになる。そして「主語が動詞によって名指される過程の場になる」中動態であるから、私が現れるという事態は、同時に「I am shown(私が見せられる)」「I show myself(私が自分自身を見せる)」とも訳せる。なぜなら前者「私が現れる」は「私が見せられる」ことでもあるからだし、後者は、英語には再帰表現があることにもよる。つまり、中動態のファイノマイには、「私が現れる」「私が見せられる」「私が自分自身を見せる」という三つの事態が同居していることになる、という話。

現代の能動/受動の言語視点から見れば、ファイノマイの中には能動(I appear)と受動(I am shown)という対立する事態が混在していることがわかる。ファイノマイ…そこにただ現れているという状態があった。そしてその主体の意志をさらに問うことが、言語の移り変わりによって起きる。(逆の言い方をすれば、現代ではその物事を対立的に捉えているが、当初はそうした発想がそもそもなかった。)

言語体系の変化によって、物事の捉え方が変わった。それは、する/されるの明確化であった。でも、なんでそのような変化が起きたのか?国分さんはそれを、「意志」を問う為であると推測している(尋問する言語)。自分から現れたのか、強制されてあらわれたのかを区別する為だ。ファイノマイという状態に因果を問うことで、その出来事に因果の出発点という指標を打つ。そうすれば、誰かに唆されていようが、強制されていようが関係なく、その出来事はその当人から出発したものとして捉えられるようになる。そしてこのことは、過去にあった因果関係を、意志の概念によって切り捨てている、ということでもある。

古代ギリシャ時代には、こうした「意志」の概念が無かった、ということが言われている。これは仮説であって実証する方法は無いものの、このことについてを抑えておくのは、意志について考えるうえで必要に思えるので、引用と共にまとめておく。

まず、古代ギリシャがいつからいつまでというのは、諸説あるようで、とりあえず紀元前30世紀頃~紀元前2世紀頃と捉えておくとする。日本で言えば縄文時代の後期から弥生時代あたりまで。こうしてみると、紀元前が終わる頃に、中動態は衰退。能動/受動の概念へと移り変わり、そして「意志」の概念が台頭、ということになる。

「意志」の概念が台頭した頃としての紀元のはじまりは、イエスキリストの誕生の時期。哲学者のハンナ・アレントは、意志の概念の創設者はそのキリスト教哲学であり、特にパウロとアウグスティヌスがその主要人物であると言う。キリスト教には「無からの創造」という考え方があったらしい。それは「私の意志でやった」という受動/能動による作用と結びつく。

またアレントは、「意志」を得ることで「未来」という時制を得た、ということも言っている。彼女は精神の中にもいろいろな器官があると考え、そこで過去に関わる精神的器官を「記憶」と考えた。じゃあ未来に関わる器官は何かと考え、それを「意志」とした。その理由は、アリストテレスの可能態の話を参照するとわかる。端的に言えば、当時、実在する一切のものはすでに将来が決定していると考えられていた(可能態が先行しているから)。すなわち未来という時制は存在していなかった。しかし、能動/受動の対立によって「意志」が生じる。それは連綿とつづく可能態という名の線性に指標を打ち、そこからあらたな線を出発させること。当然その先は見えない。よって私達はその先を思考するようになる。それが「未来」という時制になる。

「責任」という概念は、それがresponseである以上、先天的にそなわった精神性と言える気がする。人は互いの痛みや喜びをある程度共感することができる生き物であるから。片や「意志」は、言語構造によって後天的に追加されたプログラムであるということが分かった。だからこの両者の間でしばしば齟齬が起きる。

15歳のテロリストが真の責任まで辿りつくことができたのは、その意味で、なんというか、「若さ」的な部分が力として働いていた、とも言えるかも。後天的に備わっていく指針としての意志を判断材料としては盲信せず、先天的な感覚としての応答へ進み続けたという点で。

芸術の中動態 P35-36

芸術は、われわれの生きるこの「現実」の地平とは別の次元に、もう一つ別の地平を生じさせる。絵画は、平面上の色や形という視覚に訴えるものだけで、ひとつの世界をつくり上げる。その世界は、現実と地つづきではなく、次元の異なる世界である。音楽は音で、文学はことばで、舞踊は身体の動きで、演劇はことばと所作で、映画はスクリーンに映し出される動く映像で等々、それぞれ用いる手段は違っても、別の次元にあらためてそれ固有の世界を生じさせることにおいては共通すると言えよう。そしてその世界は、単に対照的に別の次元として把握されるだけのものではなく、あくまでわれわれがそこに巻き込まれて生きるもう一つの地平である。

AIが生成する画像
夢が生成する映像

人と話をしているとき、どこか現実感が無いように感じることがある。目の前に相手がいるのに、ラジオを聴いているような気分になっているときがあるというか。そういう時、ふと相手の目を見ることで、その気分はすぐに解ける。しかしなぜ人は人と話す時、相手の目を見ることがデフォルト?

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平均的なファッションだったから、一度で画像生成された?
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