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おさんぽキャメラ » 引用


(前略)…一般的に、アーティストはこれとは逆のアプローチをとることが多い。つまり、政治的な物事をテーマとして扱い、それによってさらなる作品の評価を得るということ。必ずしもアートが政治的でなければならないということではありません。積極的に関わるということは、まず、問題の源泉に働きかけ、行動すること。それは地元で友人や親類に働きかけることでもあり、ただプラカードを持ってデモに出かけるだけでなく、できるだけたくさんの人と問題について話し合うことでもある。もちろんデモも重要です。ただ、それは唯一の方法ではない。だからと言って、説教くさい作品をつくるつもりはありません。誰かを教育したいわけではないし、アートは誰かに教えるためのものではなく、自分自身のために学ぶものですから。それに、アートはコミュニケーションの道具にはならない。むしろ、正反対です。ほとんどの人には矛盾しているように映るかもしれませんが、私はこうした考え方を好んで受け入れていて、そうでなければ、アートがサービスのひとつになってしまいませんか。また、アートが民族学的視線のカリカチュアに陥ってしまわないことも大切です。どういうことかと言うと、「かわいそうなインディアンたち。土地を失い、環境を壊され、伝統も消えてしまう危機に晒されて……」などという気持ちに陥らないこと。それは彼らの問題で、決して私たちの問題でも、私の問題でもない、というように。…

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…とはいえ、私は政治家ではなくアーティストです。だから、自分の道具を使って、混沌としていたり、ふざけていたり、意味のないものをつくり、それらを自分がいる状況に使えるものを探している人々と共有する。アートが普遍的なものであるなんて言おうとしているわけではありません。アートはローカルな物事から生まれてきます。私にとってローカルとは、自分の手元にあるもののこと。そして、私は普遍的ではなく、とてもローカルな存在。それでも私はあなたと問題の源泉を共有できると思っているし、あなたにもそれをわかってもらえると思っています。…

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…ART iT あなたの作品はさまざまなエージェンシーが一時的に集まったり、分かれたりするためのプラットフォームを提供していると考えられないでしょうか。
AC はい。とはいえ、もう一度言いますが、計画しているわけではありません。混沌とか、予期せぬものが生まれるような衝突を企画しているというか。もちろん、事前に準備しなければいけませんし、どんな感じになるか予想できる箇所もありますが、それでも、まったく予期しなかったものを発見したり、つくりだしたりすることに強い関心を持っています。そうしたことは、私自身を含むさまざまなものや物質の重なり合いにおける不調和や衝突を通じてのみ生まれてくるのです。…

(ART iT アブラハム・クルズヴェイガス インタビューから)

‪E・スミス=バウエンは自分がすっかり困惑した話を、ほとんど潤色なしでおもしろく語っている。アフリカのある部族のところへ行ったとき、彼女はまずことばを覚えようとした。ところがインフォーマントたちは、初歩の段階で、植物の見本をたくさん集めてきて、それを示しながらいちいち名前を行って教え、また彼らはそれがごくあたり前のことと考えた。ところがスミス=バウエンにはその識別ができない。それは植物が見なれぬものであったためではなくて、彼女がそれまで植物界の豊かさ、多様性にあまり関心を持ったことがなかったからである。それに対して現地人たちは、そのような興味は当然持っていると信じ込んでいたのである。‬

(クロード・レヴィ=ストロース「野生の思考」から)

 今日の僕の話は、あまり芸術家らしい話ではなかったかもしれません。でも、これが偽らざる「私の場合」の話なのです。今日は、僕がしゃべる「芸術」が、いわゆる「芸術」全体の、ほんの一部の、「私の場合」の芸術の話でしかない。そんなことを念願におきながら話そうと努めました。タイトルの「私の場合」とは、あくまで、この僕の場合であって、世界には、人間の数だけ「私の場合」がある、ということは、僕も承知しています。でも最後に一つだけ、あえて断定的な調子で、僕の芸術一般に対する考えを述べておきたいと思います。

 僕はこの「私の場合」というタイトルから、たとえば「私は私」といった、よく聞くフレーズを連想してもらいたくはないな、という風に思っていました。「私は私。」という言葉は、確かにいい響きを持っています。「私は私」と語る人がもしアーティストなら、「アーティストらしい台詞だ」と人から思われることでしょう。気分が落ち込んだ時に「私は私」と唱えれば、自分を元気にしてくれる効果もあるかもしれません。SMAPの『世界で一つだけの花』みたいなものです。なかなか立派な態度です。でもその反面、この言葉には、どこかになんとなく寂しさのようなものも同時に感じられませんか?「私は私」と言った途端に「私」の輪郭が決まってしまって、そのまま内側に閉じ込められるような、そんな寂しさです。「人それぞれ」という言葉もそうですね。何か大切なものを諦めたようで、その言葉を聞くと、僕はちょっと寂しくなってしまいます…。

 僕は、この手の寂しさが嫌いなのです。僕にとって、芸術作品に接する楽しみとは、このような寂しさから脱出するために、いくつかの作品が示してくれている、その方法を味わう楽しみにほかなりません。そのような作品は、決して「私は私」とか「人それぞれ」という表情をしていないのです。むしろそんなことは忘れてしまって、もっと大きなものの方を向いて、それに驚いているような表情をしている。

 だからたいがい、すぐれた芸術作品は孤独に見えます。しかしこの孤独は、「私は私」という言葉の持つ寂しさとは、まったく違う場所にある。つまり、それを作った芸術家自身が孤独であるかどうかという話題とは関係がないものなのです。

 芸術作品は、世間的な意味でのコミュニケーションに基づいて生まれるものではありません。あらかじめ自分と同じような人間を想定して、そこにボールを投げるような、そんな種類のコミュニケーションに基づいて生まれるものでは、決してないのです。コミュニケーションを当然のものとすれば、それが不可能になった時には、当然寂しさがやってきます。それは「私は私」という言葉の持つ寂しさと同じ質のものです。

そうではなく、芸術作品とは、誰が聞いてくれるかはわからないけれど、とにかく大きな世界に向かって、自分の驚きや、心の底から大切だと思うことを、声にして呼びかける、そのようにして生まれるものです。この時に叫ぶ必要は、あまりありません。ただし、黙っていないで、声にする必要は絶対にあります。そうすると、他の無数の「私」からの呼びかけも、自然に聞こえるようになってきます。

呼びかけにはいつも問いが含まれています。「あなた」という呼びかけには、同時に「あなた(?)」という風に、必ず見えない疑問符、つまり問いがくっついているものです。どういうことでしょうか?呼びかけには、”返事が約束されていない”からですね。だからそれは、同時に問いかけでもあるのです。

すぐれた作品は、そのことを知っています。「返事があるかどうか分からない」、ということを知っている。これがすぐれた作品の持つ孤独の正体じゃないでしょうか。僕たちが作品に感動する瞬間というのは、「返事があるかどうか分からない」状態で、それでもなおその作品が呼びかけを止めようとしない。そして、その呼びかけが、なんと驚くべきことに確かにこの自分には届いていると思われる、まさにその瞬間なのじゃないでしょうか。これが世間の言う「コミュニケーション」とは、別の次元にある出来事であることは、お分かりかと思います。

 繰り返しますが、呼びかけには、必ず問いかけが含まれます。つまり呼びかけと問いかけは、ひとつのものだと考えるべきです。芸術の世界に身を置く、ということは、人類の歴史上連綿と続く、このような絶えざる呼びかけと問いかけの渦巻く場に、身を置くことであると、僕は信じています。そして、そこには寂しさなどではなく、大きな意味での連帯と、それがもたらす喜びしか存在しないはずです。

(畠山直哉「話す写真」P77-78から)

(中略)…この量子力学の体系は非常に数学的なものであるが、それは、この種の奇妙なものの行動を律するのには必然的なことである。すなわち電子や光子のように、日常われわれがみたことのある、通常の粒子と非常に異ったものの行動を述べるには、われわれの日常的な言葉をもってすることはできないのは当然なことである。何故なら通常の言葉は日常的な考え方と密接に結びついているので、こういう日常的なものとは全く別種の奇妙なものの行動を記述するには、全く不適当だからである。言いかえれば日常的な考え方から全く自由な、より純粋な言語によらなければ、そういうものの記述はできない。こういう、全く自由で純粋な言語というのは、すなわち数学である。量子力学が数学的にならざるを得ない理由はここにある。

(朝永振一郎「鏡の中の物理学」から)

ところで、兵卒の数をかぞえるという場合、兵卒のひとりひとりの個人としての人格、個性は無視されているということがあります。兵卒はみな同じものと見なされ、何人いるか、百人か千人かということが問題になっているわけです。敵は五百人しかおらぬのに、こっちは千人いるとか、五百人損害をうけてもまだ五百人いるということが問題であって、個人としての生き死にが問題ではない。そこに非人間化があるわけです。ここでは兵卒としてかぞえられる人間という共通の内容だけをとり出す。つまり抽象すると同時に、個々の人間がもっている特徴は捨てる。つまり捨象するという操作が行われているわけです。(中略)

ところで数をかぞえるというのは、牛なら牛、犬なら犬、それから人間の場合もあるでしょうし、ビスケットやコップでもよろしいわけです。数をかぞえるというだけなら、もはやそれが牛であろうと、ビスケットであろうと、コップであろうと、そんなことに関係なく、同じかぞえるという操作をしているわけです。それは同種というだけで、かぞえられているものの性質は忘れてしまってよろしい。そういう意味でのものすごい抽象化が行われていることでもあります。この場合、抽象化ということは、同時に普遍化にもなっている。つまり数というものは、個々の事物よりも抽象的であるがゆえに、どこにでも使えるようになるわけです。抽象化することによって一般化するといってもよい。とにかく似たようなものがいくつかあれば、それをかぞえることができるわけです。

(湯川秀樹 「宇宙と人間 7つのなぞ」から)

美術館を巡っていろいろな作家の作品を見るのが好きです。
改めて知らなかった作品、心に残る作品をさまざまな思いを持って見ています。
作家はどういう思いでこの作品を作ったのか、あるいはどうしてここに収蔵されることになったのか、そしてこれからはどういう評価(扱い)を受けるのだろうかなど?
ある時間を経た作品を見ることは、比較的言葉になりやすいのかもしれません。しかし、逆に自分のいる今という時間がよく見えてくる気もします。
考えてみれば彼らの作品にとって、我々の今という時代は未来だったのです。
現在はすでに直近の過去、アーティストのすべき仕事とは時代に同調することではなくて、昔も今も未来に向けた「オリジナリティー」を創造することにあると信じています。
大きなゆったりとした時間の流れに身を置いて、不可視の未来に向けて自己の制作をする作家の作品があるならば、そういった作品を是非見てみたいと思っています。

(柴田 敏雄/2016年度写真新世紀(第39回公募)審査員からのメッセージより)

「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。その見落とされたものの中に大事なものがある。それを見つけていくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。人がすぐれた仕事をしているとケチをつけるものが多いが、そういうことはどんな場合にもつつしまなければならぬ。また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要をみとめられないときはだまってしかも人の気にならないようにそこにいることだ」などということばは私の心に強くしみとおった。そしてそれを守ろうと思ったが、なかなか実行のできるものではなく、人の意識にのぼるような行動をとることの方が多いのである。

(宮本常一「民俗学の旅」から)

あとその人に言ったのは、「メディアの環境が昔とはまったく違うから、そういう心の問題に関して、さまざまな人がさまざまな意見を言い過ぎてしまっている」と。それで「もし五十年前にあなたが生きていたとしたら、それほど悩むと思いますか」って聞きました。「もしツイッターとかそういったメディアも全然ない時代で、あなたがそれでもカメラを持っていたとしたら、いまみたいには悩んでいないと思いますよ」って。そういう環境であれば、もうちょっと自分の直感に従って動いていたのかもしれないよね。あとは撮らなかったにしてもあんまり悔やまないとか、もうちょっとシンプルだったかもしれない。

(畠山直哉×大竹昭子「出来事と写真」から)

 人と人のあいだには、性と性のあいだには、人と人以外の生きもののあいだには、どれほど声を、身ぶりを尽くしても、伝わらないことがある。思いとは違うことが伝わってしまうこともある。<対話>は、そのように共通の足場をもたない者のあいだで、たがいに分かりあおうとして試みられる。そのとき、理解しあえるはずだという前提に立てば、理解しえずに終わったとき、「ともにいられる」場所は閉じられる。けれども、理解しえなくてあたりまえだという前提に立てば、「ともにいられる」場所はもうすこし開かれる。
 
 対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるために試みられるのではない。語りあえば語りあうほど他人と自分との違いがより微細に分かるようになること、それが対話だ。「分かりあえない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くことなのだ。

 「何かを学びましたな。それは最初はいつも、何かを失ったような気がするものです」(バーナード・ショー)。何かを失ったような気になるのは、対話の功績である。他者をまなざすコンテクストが対話のなかで広がったからだ。対話は、他者へのわたしのまなざし、ひいてはわたしのわたし自身へのまなざしを開いてくれる。

 対話は、生きた人や生きもののあいだで試みられるだけではない。あの大震災の後、わたしたちが対話をもっとも強く願ったのは、震災で亡くした家族や友や動物たち、さらには、ついに、”損なわれた自然”をわたしたちが手渡すほかなくなってしまった未来の世代であろう。そういう他者たちもまた、不在の、しかし確かな、対話の相手方としてある。

(対話の可能性/せんだいメディアテーク館長 鷲田清一)

演技を言葉に合わせ
言葉を演技に合わせるのだ
特に厳守してもらいたいのは 自然の節度を超えないこと
何事もやりすぎは 芝居の目的に反する
芝居の目的とは 昔も今も
いわば自然に向かって鏡を掲げること つまり
美徳には美徳の様相を 愚には愚のイメージを
時代と風潮にはその形や姿を示すことだ
やりすぎたり いい加減であったりすれば
一般客は笑っても 目利きの客は悲しむことになる