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おさんぽキャメラ » 展示をみて


辻田美穂子さんの作品を一挙にみる機会があった。北海道で毎年開催されている東川国際写真祭で出会った辻田さんは当県在住で、写真家の共通の知人きっかけで話しかけてくれたのがちょうど2年前だった。「サハリンを撮っている」と何人かからそう紹介されていた時は、まずサハリンというのがなんなのか、場所なのか、物なのか、人なのかもよく分かっていなかった。のちにそれは北海道の北にあるロシア領の島であり、元々日本の領土で樺太(からふと)とも呼ばれていることを知る。日本の歴史にかなり疎い僕は、だからなんとなく、そうした社会問題に関連するドキュメンタリーなのだろうかと安易に想像してしまったこととは裏腹に、それは彼女のとてもパーソナルな部分からはじまっていた。その地へは2010年から通い続けているという。

辻田さんの作品に受けた感銘の一つは「言葉」だった。彼女のウェブサイトや、BRIDGE STORYというホームページには写真と一緒に、彼女のテキストが添えられている。それは毎晩欠かさず書いている日記のようだし、当時を振り返りながら綴る私小説のようでもある。写真とテキストの関係性や、その境界線みたいなことについては、人それぞれ、作品それぞれに様々な意見や結果があるけど、彼女にとってそれはどういうことだろう。2016年に個展をした時は、ウェブにあるようなテキストは展示せず、全日在廊し、来場者一人一人と直接話をしていたという。

そういえば僕も最初、まず写真を見せてもらい、そのあと辻田さんから直接「話」を聞いていた。この作品に至るまでの経緯や、写っている人物について、この時なにがあったかなど。そしてその話を聞いた後に再び写真を見ると、最初の時と比べて、そこに写っている世界はじんわりと彩度が増しているように感じる。それは解説されたことで与えられた理解というより、一度その世界に足を踏み入れた記憶があるかのような感覚に近かった。後日、ウェブサイトにある文章を読みながら、「ああ、この話してたな」と、その時聞いていたことを何度か思い返す。そして「読んでいる」ということが「聞いている」ことのようにも思えた。話と文章の両方は「言葉」として共存している。それはまるで一枚一枚の写真自身が語っていることのようにも思えるし、見えないイメージとして、写真が写された印画紙の束を包み込んで同居しているようにも感じられた。

もう一つ、写真に写る穏やかな光のなかには、透明な影みたいなものが差しているように見える。それは言葉によって写しだされているのかもしれないし、自分が勝手に見ているものかもしれない。ただ僕はその影にもとても豊かなものを感じたのだった。それはどういうことだろうか。

このことについて考えながら数日が経ったある時、ふと、以前にテレビで観た、ある人物の密着取材のことを思い出す。その人は肉体的な問題をもち、だから生き抜く為に様々な対策をこうじながら日本社会で暮らしている。「依存できる対象が一つしかないと、万が一それが無くなってしまった場合、命に関わる。だから常に複数の対象をつくる。それは管のようなもので、太い一本を持つのではなく、細い管をたくさんめぐらさないといけない」というような話だった。その話を僕は、自分の精神的な部分とかさねながら観ていた。僕はおそらく家庭環境で起きた出来事から、特定の人物に素直に向き合うことを、無意識に避け続けている。その自分の臆病さをまるで指摘されているように感じ、目が離せなかったのだった。もしその太い管が千切れてしまった場合の痛みを、ただ恐れて、結局向き合いきれなかったいくつかの過去が、今も自分の後ろめたさになっている。

辻田さんの「旅」は多分サハリンの以前からはじまっていて、迷うことや俯くことも繰り返しながら、自身に内在する意志も少しずつ確かに見据え、今まで歩き続けてきている。そんな姿を僕は想像し、強い感銘を受けると同時に襲ってくるなんとも言えない気持ちに突き動かされながら感想を書いている。ナージャ、彼女の家族、街で出会う人々、風景たち。BRIDGE STORYのテキストにある「ある日みた夢」や「暗い水底にずっと沈殿している」というその影は、今サハリンで流れる穏やかな時間という光を浮かび上がらせている。

城下浩伺さんの展示を観に北千住のO’keeffeへ。城下さんと出会ったのは確かもう5年ぐらい前。作品を作っている知り合いの人のなかでも、その活動を特に精力的に続けられている方の一人。ケント紙にGペンと墨汁を使って、気が遠くなりそうなくらい緻密な画を描いていて、微視と巨視の二重性を感じさせられる作風も一貫している。

今回の展示も、例えば奥の間にある小作に、それを鑑賞する距離によって見え方が変わることを感じていた。この日の僕には、一見そら豆。すこし近づくとなにかの細胞。さらに近づくと人の群衆のように見えた。それはまず形象の認識にはじまり、距離が縮まることで、その形象の濃度として見えていたものが小さなパーツの集合体として浮かび上がりはじめ、最後は作者の筆跡へと辿りつく。この小作の場合の筆跡は数ミリの線で、真俯瞰で観た時の人の肩幅のような形に見え、線と線との間隔も手伝って、人が集まっている様子にみえたのだった。

ペトリ皿で培養されるカビが形成するコロニーの、その形の一定性とは対照的に、城下さんがキャンバス上に描く形象に均一性はなく、その筆跡の動向は、まるであてどない探求のようでもある。いつ描くことを終わるのかという質問に「ここで終わりかな、というときがある」とおっしゃられていたのも印象に残った。そんな筆跡はまるで作家の”あしあと”にも思える。またそれは画を構成する最小単位という意味で素粒子的、その集合による全体は、ある一つのものが様々な意味に捉えられるという多面性、多層性ということ自体の抽象でもあると感じた。

先日観に行った横浜トリエンナーレでいくつかの作品に強く感動したことをメモ。Ragnar Kjartanssonの「The Visitors」はミュージシャン一人ずつが違う部屋に別れ、無線のヘッドフォンを通して音のみを共有しながら、全員で一つの曲の演奏を試みる、その様子を映像でとらえたもの。展示室の入口は遮光カーテンで仕切られていて、入ってみると中はかなり暗く、またとても広い。100インチ超の大きなモニターが計9つ、十分な感覚で点在するように設置されている。1つのモニターに一人の演奏者がほぼ等身大で映されていて、少し離れたところからだと、その演奏者一人一人の様子が、暗闇にぽつりぽつりと浮かび上がっているように見渡せる。

会場の中心あたりに立っていると全体のハーモニーを感じられる一方、個々の映像の付近にそれぞれのスピーカーがおそらく設置されていて、ひとつの映像に近づくとその演奏音もよく聴こえるようになり、演奏者の動作や表情を詳細に観ることもできる。本来セッションは、ひとつひとつの音がミックスされた状態で鑑賞者に届く。しかしこのインスタレーション的空間の場合に、自分の足でそのひとつひとつへ任意に”近づく”事も出来る、という点は、今回感銘を受ける起因の一つに思えた。

会場は、投影された映像以外に明かりは無い為、映像ひとつひとつに目を移していく時、その真っ暗という”間”が、個人と個人の間に横たわる深い隔たりのようでもあり、演奏者一人一人の孤独さをより強く感じさせるし、その個人から発せられるエネルギー的なものを適切に引き立てるフレームのようにも見えた。映像から伝わるリアルさは、演奏者が等身大に近い大きさで投影されていることも手伝っていたと感じる。

畠山直哉さんが言っていた、今回のトリエンナーレのテーマの一つである”接続性”とは、”孤立”があるからこそ成立するもの(「一人一人が地に足を着けて生活している、それが前提になって手をつなぎ合うということ。」と言っていた)という言葉や、先日このブログにも引用した言葉が何度も頭を過った。そして孤独というものがいかに孤独ではないか、を少しだけ理解できた気もした。

この作品を鑑賞している間、なぜだか涙がぼろぼろ出た。今回のトリエンナーレでは他にもいくつかの作品でうるうるしていた。The Visitorsを含めどこかメランコリックな成分に弱い自分を感じたし、「音」というエネルギーの鑑賞に慣れていなかったせいもあったかもしれない。ただそれらを差し引いても強い作品だった。人間も生きものであり、生きものそれぞれが持つ純粋なエネルギーの迫力、あるいは心地よさみたいなもの(例えば演奏者の、叫ぶように歌う様子はオオカミの咆哮、弦楽器を奏でる様子は鈴虫の鳴く姿とも重なった)の余韻がずっと残っている。そのエネルギーを”孤独”と呼べること、そしてそれが”調和”することに対しての感涙でもあったのかもしれない。

柴田敏雄さんの個展「31 Contact prints」を観に、乃木坂はgallery ART UNLIMITEDへ。2004年頃から転じたというカラー作品の、4×5インチのネガによるコンタクトプリント近作31点。感覚としてはハガキサイズに近く、展示写真としては小ぶりなもの。一枚ずつ、主に余白を広くとったマットで額装されていた。柴田さんの展示作品は基本的に大きい印象だったのでまず意外だった。ネガは4×5なので、135等のベタ焼きのような、写真の前後関係や一連が見えるといった内容では無い。

柴田さんは、風景そのものが持つ一般の意味とは別の表層(それは時に異様な生き物のようだったりする)を写すことを基本姿勢として持たれている印象がある。その異界への眼差しは、大きく引き伸ばされたモノクロームにより、綿密かつ迫力を帯びた風景となって定着されている。一方で今回のカラーのコンタクトは、それらの写真が発する迫力は控えめになる。そこに代わるものはなんだろう。近づいて見ると、粒子が凝縮された高濃度の美しいプリントだし、基本的には引き伸ばしが前提であるネガを、そのまま扱うという意外性、特別性の面白さも勿論あるとは思うのだけど。

展示に寄せた文章を読んで、撮影から印画までの一連にかかる時間について考えた。写真という媒体はこれまでの歴史の中で、その形態の変化を続けている。そしてその時代の集積が人々の価値観を多様にもさせてきた。その背景を十分認めつつ、今回の作品を制作されている側面はあるのだと思う。それは現在からみれば「手間」で、面倒と見なされる悪的な要素があるし、なにより作品のイメージと大きくは関係しないことのように思える。しかし時間はその消費量と比例して、消費者の記憶にも影響する。薄れたり、深まったり、何かへ溶け込み混ざる事もあり、それは制作行為自体へ影響するはずでもある。絵画一つをとっても画材や方法論が無数にある。同じように、写真のこうしたアナログプロセスも、物理的な側面は勿論、経過する時間そのものを扱う一つの技法とも言える。

また、冒頭でも書いた通り、展示サイズが小さい為、これまでの柴田さんの作品を鑑賞するのと同じ距離(つまりその小作をすこし離れた場所)から眺めていると、当然ながら細部は見えなくなる。すると色彩や線、輪郭といった、名辞ではない、それを構成する要素個々の存在が浮かびあがってくる。そうして見えてくる新たな表層は、これまでに観た大作の超現実的なイメージとも重なる実感があってそれも面白かった。これでまた大作を見返す時、また別の見え方も表れそうな気がする。前述した時間のことも含め、こうして「見る」ことの考察を一層促されたのは、それが一枚の小さなコンタクトプリントだったからなのだとも思えた。

先日は正岡絵理子さんの写真展「羽撃く間にも渇く水」を観に宝町駅を降りて72galleryへ。およそ10年以上撮り溜められたという写真には、生物の生き死にや日常に見える奇異な光景などがモノクロで写されている。イメージはどれもとても強い印象。生(なま)的な鮮烈さのなかに、生(せい)的な温度が煌いているような、独特の迫力を持つものだった。

正岡さんとはじめて知り合ったのが今年の東川、NEXTプロジェクトと題したフォトふれOB・OGらによるグループ展で、その作品を観た時の衝撃が印象に残っていた。その時は確か、展示空間は、旧秋山邸というところの奥まった狭い一室で、天井も低く、白熱電球の赤みがかった光のみが空間をぼんやり浮かび上がらせていた。そしてその壁面中を埋め尽くすように、びっしりと写真が直張りされていたのを記憶している。それらは確かバライタ紙で、一枚一枚は波打っている。でもその外観には写真の内容と呼応するものがあった。空間や照明条件も、写真観賞の一般的な観点からすればよくないはずが、正岡さんの写真とはあきらかに調和していた。

今回の会場はホワイトキューブに額装展示という、いわばもっともベーシックな形式だった。色々な意見や事情もあるのだろうけど、僕個人としては東川で観た展示の方に強い余韻があると同時に、展示をする場所性・空間についてを考えさせられる機会にもなった。

先日観てきた平塚市美術館の「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治 -シベリアシリーズ・原爆の図・地図-」展。

終戦後、シベリアに抑留された当時の経験を元に描かれた洋画。原爆投下後の現地取材を通して制作された日本画。そして川田さんの写真へと続く。このコンテキストが、戦争という共通項のもとにそれぞれの「ちがい」を複雑に交差させていて、単純な三者三様の展示では無い内容になっていた。

洋画の香月さんは、シベリア抑留という強烈な過去があり、白い紙があるとそこに当時の光景が浮かび、そこへ筆を添えるようにして描いているのだという。実際に生々しい強さがその絵にはあって、まさに当時の経験に突き動かされるように生み出されているみたいだった。また僕自身はそこであらためて、抽象的な作品は、精神性から生まれるものにおいてはそれがむしろ具象であること。記憶や感覚をたよりに描く時、それは写真のようにハッキリしてなくて当然であることをあらためて思う。

丸木位里・俊さんによって描かれた、原爆によって息絶えていく人々を描いた日本画は、その惨事から沸き立つ悲しさや怒りといった要素も含んではいると思うけど、その写実性と経過した時間とが重なってか、こうした出来事が、同じヒト同士によって行われたという、なんというか果てしない虚しさ、憤り、そして滑稽さのような感覚を抱く。またそこに少しだけ、大橋仁の写真を彷彿したりもした。

香月さん、丸木位里・俊さんより後の世代になる川田さんは、当事者性からは距離を置いたポジションから、戦争の痕跡の数々を「地図」という形で写真に残した。その一枚一枚には丸木さんの日本画に通じるリアリティがあり、また香月さんの洋画的な精神性を強く帯びているようにも見える。印画紙に浮かび上がる無数の黒い粒子は、出来事を正確に現す情報であると同時に、混沌とうごめく念的なエネルギーとして定着されているようだった。

川田さんが写した「その後」は、「渦中」による二作品の、現在への橋渡しとして機能していると同時に、その観察者的視点による写真は、出来事の全貌をあらためて少し冷静に、そして多義的に考えるキッカケにもなっていたんじゃないかと思う。写真ではないものが、写真以上に生々しく感じられる体験も個人的に大きかった。方法は違っても、イメージは互換性を持つということが一段と、自然に理解できたような感覚がある。

個展が終わった翌日に東京へ向かい、東川で知り合った友人宅に泊めてもらいながら家探しの日々。東川で同じボランティアとして出会った人は大体僕より一回り若かったけど、すでに自分の世界観を持っている人が多くて、今回泊めてくれた彼もその一人。そういうものが本当に羨ましい。自分は本当に影響されやすく優柔不断で自信が持てない類の人間(もうオッサンなのに。。)。。

家も帰りのバスも決まったその日に二人でトーマス・ルフ展へ。カマウチさんがブログで例えていた映像の解剖的博物学という言葉がしっくり。最新のテクノロジーを(古典技法もおりまぜつつ)駆使して、写真という生物の解体と再構成を繰り返してる感じ。この領域がトーマス・ルフなのかと思った。出来上がってるものはもはや写真というより、写真を参照にした平面作品に見えるものがほとんどだった。photogramやzyclesなんかはそれが特に顕著だったように思う。

個人的にはcassiniが、約20年前のカメラでないと写せない今があるという点に感銘を受けた。3Dma.r.sやstereofotosといったある意味体験型的な作品も楽しかった。3Dメガネをはずしてすぐ片目を閉じると、青い方で覗いていた視界は全体が赤く見える。それは眼の、赤に対する感度が高まっていたからで、趣旨とはずれてるかもしれないけど、「みる」という行為の根本への思考が行き届くスパイス的要素にも感じられた。ルフを読み解く類の書物も出てるみたいだから、それも読んでもう一回観に行ってみたい。

ルフの後は神保町でよく行くという本屋(すごい良い感じのとこだった)を少し案内してもらって、中華料理(餃子が美味しかった)を食べてお別れ。夜行バスに乗って帰阪。さあ出発は26日です。

京都三条MEDIA SHOPで田中豪さんの「ICONS」。主に人型のキャラクターが描かれた作品が20点近く展示されている。細い線で描かれていて、色の濃淡は漫画に使うスクリーントーンが使われているから一見、漫画の原画展のようにも見える。その支持体は透明で、過去の展示についてウェブでみてみると、一度描いたものを透明シールに印刷して貼っているという。今回のこの作品もおそらく同じ方法。そしてその背景には、キャラクターの姿をまとうように絵の具かなにかでペインティングされてて、さらにその背景には、大きく拡大されたスクリーントーンや写真なんかが貼られている。

キャラクターは(ほぼ全てが)人型で、老若男女、性別不明なものまでさまざま。服装など外観は一人一人が全然違っていて、それらがタイポロジー的に並べられている。どこか既視感のあるようなものもあれば、全然そうじゃないのもたくさん。このキャラクター達がどんな世界で暮らしていて、一人一人がどんな意思を持ち、どんな言葉を話すのか、どんな能力を持っているのか。いやいや、そもそもその想像の方向は正しいのか??そんなイメージの余地がある、どこか掴みどころの無い世界観に、妙に引き込まれる。

会場の中心にあたる壁面には、大きく引き伸ばされた木々のモノクロ写真と、カラーの天体写真が貼られている。イラストからの流れで唐突にも感じるけど、この関連性はなんだろう。キャラクターの画にも一部こういったものが重ねられてたけど、この二点の写真の存在は、展示空間全体のもう一つのレイヤーとしての役割にも見える。とても古い写真に見える木のモノクロ写真と、星のカラー写真。そこが故郷なのか、目指す先なのか、はたまた。微視(木)と巨視(星)、何十光年とあるお互いの距離というスケール、その広大さが、キャラクター達の存在の肯定に繋がっているようにも見えた。

絵自体はとても精密で、頭から足の指先まで一人一人違う。そこからスクリーントーンによって漫画的なチープさが上乗せされていて、支持体がシールということも、それを手伝っている。精密さとチープさの二重性。例えば微粒子のネガの写真をコピー用紙で出力すると、ファインプリント的な見栄えが無くなる分、写っている内容により注意が向く場合がある。もしくは、コピー用紙それ自体のざらざら、ペラペラとした感じが、写っている内容と調和して写真の強度が増す。スクリーントーンの効果はそれに似たものがあるようにも思える。

タイトルのICONSは、教会の聖画像「イコン(ICON)」と、パソコンのデスクトップに並んだ「アイコン(ICON)」の二つの意味を重ねたものだと話してくれた。僕は聖画像としてのイコンや、美術史についてもまだまだ知らないことだらけで、読み解けてないところもあると思う。ただ単純に絶妙な着想と、それを描き上げる線の精密さと強靭さ。これが掛け合わさった感じがとてもスタイリッシュでカッコよかった。

国立国際美術館でヴォルフガング・ティルマンス展「Your Body is Yours」。初日トークを聞く為に朝8時半くらいに向かうと既に50人以上の人が並んでいて、あらためてその人気を感じる。。写真集などはパラパラとみたことがある程度で、このボリュームでまともに時間をかけてみたのははじめてだった。関心の幅がとても広く、対象やアプローチも様々である一方、視点に散漫さが不思議とないのが最初の印象。折れた写真を展示していたり、ウォータードロップの写真などから、写っているものに対してだけではなく、マテリアルとしての写真に対する強い関心も表わされている。実際にトークでは、1980年代当時最新だったコピー機の機能に大きな感銘を受けたことが、写真を扱う強い動機だったと話していた。何の変哲もない白い紙が特定の価値を帯びて出力される事、またそれはモノクロコピーで400%拡大することができ、拡大されることで表出するドット、といった物質性に対してであったという。

「写真はオブジェクト(物体)であると強くそう思っている」「現代で日常的に写真を撮る人は写ってるものに対して関心を持つのがほとんどだけど、それが不思議で仕方ない」そんなことも話していた。実際に展示もそのことを裏打ちしていて、例えばプリントプロセスによって生まれる薬剤の残留物や、プリントについた傷を写したもの、また撮影した写真を超高解像度のスキャナーでデータ化したあとにその細部をトリミングしたものといった作品などがそれを物語っていた。写すという行為の前後にある科学的なプロセスに対する理解やその扱いも、写真という手段において重要であると共にもっとも基本的なことでもある。そういうことが表わされてるようにも感じられた。

一方でこれだけ写真のマテリアル性を扱いながら、ポートレートなどは写る対象への眼差しに温度がある。ジェンダーについての写真が特に有名だけど、その表し方は例えばデットパンやタブローによく見るような冷徹さというか客観性というか、そういった手法は選ばれてなくて、コミュニケ-ションのなかで一枚一枚が自然と生まれてるタイプに見える。最近は、座っている人や踊っている人、楽しんでいる様子、恋をしている様子などを写すこともやっているという。展示では大阪のデモを撮ったものもあったけど、「(自分が賛成できる内容の)デモに参加している人の表情は”美しい”」と言っていた。

写真のマテリアル性と、写った対象、この両方に対する強い関心が、ティルマンス氏の一つの強い個性や力みたいなものなのかもと思った。写したものに対しても非常に思慮深く、ペーパードロップの写真に対しても紙という物質性だけではなく、たわんでおりたたまれている、その重力性や張力性についても言及してた。脱ぎ捨てられたジーンズも、その時の状況や、ジーンズに残っている一つ一つのシワから履いていた人物像にまで想像が向かっていく。

ここまで聞いてるといつも常にすごく考えてる印象だけど、写真を撮る時にはなにも考えてないと言っていた。それはもう言い切るに近い勢いで。きっと想像も絶するように膨大な知識も持っているはずなのに、とても身軽なんだろうと、それもティルマンス氏のすごさの一つになるんだろうか。なにより以前に写真という行為を少年のように楽しんでいる雰囲気を感じた。気のせいかもしれないけど。現代美術寄りなイメージがあったけど、純粋な写真家としての存在感を強く感じた。ちなみに撮影した後に見返してテーマ別にカテゴライズするようなやり方だそうで、だから一枚の写真が重複する場合もある…と言ってたような言ってなかったような。

この日は他の予定と重なって展示自体はゆっくり見れなかったので、会期中もう一度行ってみる。

caloでみた山下望さんの個展「window (see more)」は写真を使ったインスタレーション。前回、かなり大きな会場だったMIOと比べると、こじんまりしたギャラリースペースも相まって「部屋のなか感」がより仕上がってるように感じた。ところ構わずペタペタと貼られたシールや、床に散乱するように置かれた雑貨類、壁に直貼りされた写真にのこる少しのシワ。それらは無造作のようで、なぜか作品としての雑さを感じないところには毎度関心させられる。むしろこの部屋の住人の息づかいのようなものを、よりリアルに感じられた気がした。こうして打ち明けられた「秘密」は、そのまま鑑賞者との「内緒」になる。…かもしれない。そんな歩み寄りのようなものも感じる。

「これが私」や「私をみて」というような類の写真も、前の記事に書いた「私」的なものと同様に多くて、こちらも敬遠しがち。そもそも基本的に人って、さほど他人に、それもわざわざ写真を介してまで興味を持つことは少ないと思う。一方的すぎるから客観的価値が生まれにくいのかな。別にそれはそれで良いのかもしれないけど。

ただ、じゃあ山下さんが表現する「私」はどうなのかと言うと、先に述べた類に近い主張だし、その押し(?)はかなり強い方だと思う。けど、おかげで魅力性は高まってるようにも感じるから不思議。ぐっと迫ってくるものがあるけど暴力的じゃ無いし、それこそ少年少女の無邪気さに似た気質みたいなものがある。無邪気、という言葉を辞書でみたら、思慮に欠けるという意味も含まれてたけど、それはあどけなさでもあって、偽りのない素直さはみていてとても心地よかったです。

余談ながら、山下さんもテーマの重心にあるのが「私」だけど、上田さんのそれとはまた違った種類のもの。展示形態といい、その共通点と相違点の関係がちょっと面白いなぁとも思った。